書籍目録

『日本』(『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』1872年9月号からの抜粋) / 『国際的虚栄』

フレデリック・マーシャル / (鮫島尚信)

『日本』(『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』1872年9月号からの抜粋) / 『国際的虚栄』

2作品セット 1872 / 1875年 エディンバラ刊

Marshall, Frederic.

JAPAN (extracted from Blackwood’s Magazine Sep. 1872 issue) / INTERNATIONAL VANITIES.

Edinburgh, William Blackwood and Sons, 1872 / 1875. <AB2025140>

¥55,000

A set of 2 works.

8vo (13.3 cm x 21.4 cm) / 8vo (13.2 cm x 19.8 cm), pp.369-388. / Half Title., Title., 2 leaves, pp.[1], 2-360, Disbound / Original purple cloth.

Information

明治最初期の駐仏在日公使館での鮫島尚信への外交実務教授の日々から生まれた二つの作品

 この2作品は、初代駐仏特命全権公使であった鮫島尚信の下で外交実務を学ぶための教師を務めたイギリス人フレデリック・マーシャル(Frederic Marshall)による英文著作です。マーシャルは国際法や外交実務全般についてほとんど実践的な知識を有していない鮫島のために、1871年から1ほぼ毎日付きっきりで彼の「家庭教師」を務めたことで知られる人物ですが、この2つの著作のうちの一つは、マーシャルが鮫島(と明治政府)の依頼を受けて、日本の現状を西洋諸国に広く務めるために執筆した雑誌記事で、もう一つはこうした「家庭教師」としての日々を過ごした経験を通じて、西洋諸国が重視する外交上の諸儀礼や複雑な爵位、官職の区分の空虚に疑問を感じたことに端を発して執筆されたものです。明治初期の国際社会におけるイギリス人の手を借りた明治政府の自己イメージの対外発信と、それとは逆方向に、そうした経験を経ることでかえって自らが所属する西洋諸国間で当たり前のように行われている外交儀礼とその背後にある思想を疑問視するにいたった著者の率直な見解が述べられているという、明治初期の外交現場が生み出した稀有な文化交流の副産物と言える大変興味深いものです。

 この2つの作品の著者であるマーシャルは、設置されたばかりの駐仏日本公使館に雇われていたイギリス人で、近代外交実務に必要な経験と知識をほとんど有していない鮫島のために多大な尽力をなしたことが知られる人物です。

「この人はイギリス人ではあるが、20年来パリに居住して、英仏両語に通じ、鮫島少弁務行使から『至極着実之人物』と見込まれて、明治4年7月から半日勤務、翌年10月からは一日勤務を始めた人である。(中略)明治12年の蜂須賀公使は彼を評して、率直な人柄であるが、ヨーロッパ人の病弊である利己主義は免れ難い、と言っているが、歴代の公使は彼の執務振りを高く評価していたようだ。明治8年8月、寺島外務卿は三条太政大臣に対して、彼にセクレテール=オノレール(名誉書記官)の称号を与えたい旨上申し、11年9月には、条約改正打合せのため、彼がしばしばロンドンに出張して尽力した旨の報告が講師官から外務省へ寄せられており、執務も早朝から『晩景』に及んだとある。(中略)
 さらに明治14年になると、公使館は官名を昇格させてマレシャルに『コンセイエ=オノレール』(名誉顧問)の称号を与えたい旨上申している。ここでも彼の執務ぶりは激唱され、『我国之栄誉利益タルヘキ事柄ハ何事二依らす間接直接トナク周旋奔走シ』『畢竟本人之職掌トハ申ナカラ我国毀誉損益ハ恰モ自身ノ毀誉損益ノ如ク』考える忠勤ぶりであったという。
 しかし、明治21年(1888)6月、マレシャルは一旦解雇される。理由は明治21年度は前年度の歳出一割削減の方針が打ち出され、公使館の経費も節減することとなったためであった。しかし、彼の奉職も長く、また老境に入っていたので当分の間一カ年銀貨1500円を支給することとした。明治28年より五カ年間の契約ができ、さらに満期となると新たに五カ年の雇継を決めた。この契約が満期となった直後の明治38年5月、彼は死去したのである。遺族は未亡人と女子一人であったが、家計はあまり豊かでないため、外務省は特に経常機密費より英貨100ポンドを遺族に贈った。」
(今井正次『お雇い外国人12:外交』鹿島出版会、1975年、9−11ページより)

 こうした経歴を有するマーシャルによるこの興味深い2つの作品については、横山俊夫による優れた論考「不思議のヨーロッパ:在仏日本公使館雇マーシャル氏の西洋発見」(京都大学人文科学研究所(編)『19世紀日本の情報と社会活動』1985年所収論文)があり、同論文ではマーシャルの執筆の経緯やその顛末などが詳しく紹介されており大変参考になります。同論文によりますと、岩倉使節団がヨーロッパ諸国を歴訪するに際して、鮫島がマーシャルに日本の現状を広く西洋諸国に伝えるための記事の執筆を依頼したことにより、前者が刊行されることになったといいます。マーシャルは当初2週間ほどで完成するだろうと見込んでいたものの、マーシャルのあらゆる記述や語句の一つ一つについて鮫島との間で逐一確認と訂正、議論が引き起こされることになり、「1日10時間もかかり切り」になってもなかなか完成しないという難工事となります。こうした思いがけぬ苦労の甲斐あってようやく完成した原稿は、当時のエディンバラを代表する保守系一流月刊誌である『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』(Blackwood’s Edinburgh Mgazine)の1872年9月号に『Japan』というシンプルなタイトルで掲載されることになりました。

「(前略)内容を約せば、二つの部分に分けうる。ひとつは、西欧との交渉という視点からまとめた日本の歴史の概観、いまひとつは、現時点での日本の政府、行政の実態についての報告であった。なかには、おそらく近代日本史上はじめての、しかも国内では国内では未公表の予算表(1872年分・ポンド換算)も含まれていた。結論としてマーシャルが強調した点は、日本政府は組織化された文明政府であり、その条約改正要求を理解すべきである、ということであった。
 公刊された文面からは、どの箇所が書かれた際に、どれほどの問答が鮫島とマーシャルの間に交わされたのかを、正確に知ることはできない。しかし、たとえば『太政官』について、ザ・グレイト・カウンシルという英語を選んでいたり、『左院』が、『法令の上程と審議』という機能に『限って言えば』、フランスのル・コンセイュ・デタに『類似する』、といった表現をしたり、あるいは『集議院』を、小文字でア・パーラメントと訳している裏には、おそらく長時間にわたる”厳正な”討論があったに違いない。また、廃藩置県で、内乱に勝利した諸大名が率先して、自らの特権や維新・財産・所領までも投げ出した意図について、それが『日本のより偉大なる栄光のため』の『自己犠牲的愛国心』からであったという解釈に至るまでの、鮫島とマーシャルの”思考の流れの違い”は文章の曲折から推して、かなりのものであったと思われる。
 二人の出合いでいちばん問題になったのは、日本に存在する事物と同じものが西欧にはなく、したがってそれを表わす日本に対応することばが西欧語に見出せないということであった。マーシャルは、いみじくも廃藩置県について、西洋の『歴史はそれに並ぶものを提供してくれない』と強調している。」
(同論文170ページより)

 もう一つの作品は、同じく『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』に掲載されたマーシャルの記事を一つにまとめて、その出版元であったブラックウッド(William Blackwood and Sons)から単行本として1875年に刊行されたものです。この作品はマーシャル日本公使館で鮫島の教師を務める中で生まれた著作で、鮫島に外交儀礼や作法、しきたりを教授するために自身が関連文献を読破、調査するなかで、当時の西洋諸国間で当たり前のものとして通用していた外交儀礼のあり方そのもについてその必然性、必要性に疑問を持つことになったことをきっかけにしているといいます。

「彼らの労苦は、実は、この雑誌論文の執筆完了をもって終わったのではない。それは彼らの息づまる出会いの出発点にすぎなかった。鮫島がパリで外交活動を展開するにあたり、たとえば或る王族に手紙を出すだけでも、大判の用紙の選択から、適切な言いまわし、1ページに許された行数、さらには封印のしかたまで、ほとんどをマーシャルから学ばなければならなかったのである。
 鮫島がどのていど素手のままパリに派遣されたかは、史料では確かめにくい。彼の遣仏決定から横浜出港までには1ヶ月半ほどの期間があるのみで、その間に、たとえば外務卿寺島宗則の周辺や、外国公使館筋から、体系的といえる実務上の訓練をうけたような形跡は、未だ見当たらない。(中略)
 ただ、少なくとも、1870年代初頭の段階では、日本政府が考えていた『外国交際』は、実務の様式面においては、まだ相当に混沌としていたといってよい。パリの場合に限っていえば、マーシャルがいかに、この分野において鮫島のために働かされたかという事実が、何よりもその実情を雄弁に語っている。」

 1873年7月に岩倉使節団がマルセイユから帰国の途についたのち、9月からノルマンディーの保有地でマーシャルと鮫島は「100冊を買える書物を抱えて」外交実務の学習とレッスンを続けていました。そうした中でマーシャルはひたすらに外交実務に関する種々の文献を読み解いてレポートの形で鮫島に提出して教授し、作成されたレポートは50部ほどにもなったとマーシャルは述べています。マーシャルは自国を含む西洋社会では当然とみなされている外交実務に関する諸事を、その文化的、歴史的背景をほとんど共住していない日本の鮫島に教授するという難題に取り組むうちに、その「奇妙さ」を日々実感することになっていきます。そして、そのことを『『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』』での『国際的虚栄の数々』と題した連載シリーズ記事にすることを思いつきました。

「たえず”厳正に”問いつめる鮫島を納得させるために、マーシャルが説明に努めてきた西欧の様々の外交慣行は、マーシャルの頭の中で明らかに新たな光を帯びはじめていたのである。たとえば国を異にする外交官どうしの通信文の結びに、『閣下の、大変卑しく、かつ従順なる下僕』と認めて署名をする習慣など、”なぜ左様のことを言うのか”と問われてみれば、お手上げである。合理的な理由はないが、それがヨーロッパという所の習慣であるとしかいいようがない。マーシャルはこのシリーズで、鮫島の詰問に触れて見えだした”奇妙なヨーロッパ像”が描かれるはずであることを見通していた。
 それは、ヨーロッパの諸慣行をあたりまえのこととして、無意識にそれらに従ってきた人々を驚かせるようなことになるだろう。」
(前掲論文、172ページより)

 こうして1873年12月から1874年12月まで約1年をかけて、全8回の連載記事が掲載されることになり、その記事をまとめて1冊にして1875年に刊行されたものが本書です。連載時の順序に従って本書は全8章で構成されていて、第1章:儀礼(Ceremonial)、第2章:形式(Forms)、第3章:称号(Titles)、第4章:勲章(Decorations)、第5章:象徴(Emblems)、第6章:外交特権(Diplomatic Privileges)、第7章:外国人取扱法(Alien Laws)、第8章:栄光(Glory)となっています。

「国際法というものは、マーシャルに言わせると、紋章学や星占い、あるいは毒物学とか鷹匠学と同類であるという。ごく限られた人々をのぞいて、ふつう誰もそのような知識を必要ともせずに暮らしている。まことに奇妙で古ぼけたテーマになってしまっている、というのである。国際法の知識のなかには、”継起的占有”や”領土主権”といった、抽象的でうっとおしい事柄のほかに、儀礼や勲章など、あざやかに眼にみえる要素も多く含まれているにもかかわらず、グロチウスが17世紀はじめに『戦争と平和の法』を著して以来、国際法の論述は、決して多くの人々の読書の対象と花なかった。ーところが、である。
 『もし、或る変わった必要から、無理やり、それら(の論述)に注意をむけさせられるようなことになると、それらは霧中のランタンの如く輝きだし、私たちに珍しいストーリイを語ってくれる。』
 連載『国際的虚栄の数々』の冒頭にあたり、マーシャルは全篇のための序文ともいえるものをこのように綴っている。『或る変わった必要から』というのが、鮫島に雇われたことを意味していることは、もはや我々には明白であるが、読者には伏せられたままである。
 『それら(の論述)は、しばしば全く新たなかたちで人間の本性を示す。とりわけ国家というものが自己主張の虚栄の高みにゆきつくについては、個人が達しうる限度をはるかに超えていることを(……)教えてくれるだろう。この事実は、世界中に知らされる価値がある。」
(前掲論文、175-176ページより)

 このようなスタンスで著されている本書は、国際法のみならず、その背景にある思想や文化的価値観についても必然的に批判的な眼差しを向けることになり、ある種の西洋文明批判のような作品となっています。ただ、本書のこうした斬新な視点は、当時の読者には理解し難かったようで、単行本として刊行された本書も1000部が発行されたものの寄贈分を除く938部のうち実際に購入されたのは400部にも満たず、早々に下取り会社に廉価販売されて赤字に終わったということを前掲論文は伝えています。

「『国際的虚栄の数々』への一般読者の沈黙は、しかしながら単なる無関心を意味したのではなかった。連載が含んでいた、徹底したヨーロッパへの距離感の裏には、ヨーロッパ諸国民も他の諸民族をも、”人類”の構成員として平等視するという新しい情報がもり込まれていた。ただそれが、おどけた冗談としてうけとめ得る範囲においては、ブラックウッドもそれなりに楽しめたのであろう。しかし、当時のヨーロッパにおいて、”世界の諸民族の平等”という情報を必要としている集団は稀であった。したがって、そのような原理にたったヨーロッパ理解もまた不要だったのである。」
(前掲論文198ページより)

 当時はこのように全く反響を得られなかったとされるこの作品ですが、現在の視点から読み返すと、これからまさに近代国家として西洋諸国間の外交に参画しようとする日本の外交現場の最前線に立つことを余儀なくされたマーシャルが、結果的に自文化のあり方に疑問を持つに至り、それをしかもこうしたユニークな形で西洋諸国の読者に問おうとしたことは、大変興味深いことではないでしょうか。

 なお、この二つの作品を刊行したエディンバラのブラックウッド社は、鮫島がマーシャルからの教授と自らの経験を踏まえて、後進のために執筆した外交指南書『Diplomatic Guide』の出版元としても知られています。