本書は海軍のお雇外国人として1873年に来日し1880年までの6年余りを日本で過ごしたイギリス人医師のアンダーソン(William Anderson, 1842 - 1900)が1886年にロンドンで刊行した大部の著作です。大英博物館における浮世絵をはじめとする日本の絵画美術コレクションの礎を築いたことで知られるアンダーソンは、本書において数多くの美しいクロモリトグラフによって再現された精細な多色図版が収録して自身のコレクションを紹介しただけでなく、世界で最初に「日本美術史」というジャンルを確立することにも成功しました。本書は1896年には末松謙澄によって日本語訳版が刊行されるなど、イギリスや西洋諸国だけでなく日本にも多大な影響と貢献を残したことが知られています。また、本書は著者が親しい人物に贈るための「見本刷り」(Proof Copy」として小部数のみが刊行された大変貴重なもので、アンダーソンによる直筆署名が残されています。
アンダーソンはアバディーンの医学校で外科を専攻して医師免許を取得して医師として勤務していた30歳の頃に、明治政府が海軍省のために必要としていたお雇い外国人の海軍学校医師として来日することになりました。1873年10月から1880年1月までの日本滞在は6年余りに及び、その間に海軍医学校の医師教員として外科だけでなくあらゆる医学の日本への教授に尽力し、脚気の研究などの独自研究にも取り組みました。その一方で、アンダーソンは若き頃、医師になるか画家になるかを逡巡したと言われるほど絵画をはじめとした芸術への関心が高く、アーネスト・サトウらの知遇を得たこともあって日本美術の研究と収集を精力的に行い続けました。アンダーソンが来日した明治初期は社会の混乱から旧大名家筋等からの優れた美術品、工芸品の市場への流出があり、また廃仏毀釈による影響で社寺からも仏教美術の優品の流出が相次いでいました。イギリスの三大日本研究者にも数えられるアーネスト・サトウと親しくなったことにより、アンダーソンは彼と協力して日本美術の研究を熱心に進め、それと同時に彼と共に国内各地を旅行して絵本をはじめとした各種和本、優れた美術品の現地調査と収集を行いました。1874年に外国人の遊歩規定が改定され、学術調査や療養目的であれば横浜や神戸をはじめとする外国人居留地外の日本各地を訪問することが許されるようになり、共に公人として優位な立場を有していたサトウとアンダーソンは、その機会を最大限に生かして関西各地も訪ね歩いたことが知られています。帰国直後の1881年にアンダーソンは自身が構築したコレクションを大英博物館に売却し、このコレクションが同館における日本美術コレクションの礎となったことは今日でもよく知られています。本書は、この日本コレクションの目録として刊行されたもう一つの作品と並んで、コレクションを理解するために必要となる日本美術の分野、歴史、龍は、特徴などを体系的に整理して解説したもので、本格的な「日本美術史」として初めて世に問われた作品として、高く評価されています。
イギリスにおける日本美術への関心は、イギリスの初代駐日公使オールコックが日本で収集した数々の美術品が1862年のロンドン万博で大々的に展示されたことを一つの契機として、オールコック自身による日本美術の解説(1863年 / 1878年)、建築家、デザイナーとして初めて日本を訪れたドレッサーによる著作(1882年)といった紹介と研究の蓄積が徐々に進んでいきました。しかし、3年以上の日本滞在歴を有するとはいえオールコック自身は外交官が本職であり、また逆に建築とデザインの専門家であったドレッサーの滞日期間は4か月余りと比較的短期間のもので、体系的に日本美術を整理して、その歴史を記すというところにまでは研究が進められていませんでした。
そもそも、「ある特定の国の美術史」を記すということ自体が、近代国民国家の成立と不可分の関係にある発想で、日本にはそれまでそのような発想そのものがありませんでした。アンダーソンは、自身の日本美術の研究と収集を進めるにあたって、自分自身の興味や趣味よりも、日本美術の全体像を把握することと、それを提示しうるようなコレクションを構築することを主眼としており、収集と研究を一体ものとして研究していく中で、結果的に今まで誰も書いたことのない「日本美術史」をまとめ上げていくことになりました。
「基本的、専門的な知識の血癖がほとんどない時期に本格的な日本美術研究に取り組んだ第一世代にとって、研究と収集は表裏一体にならざるをえなかった。しかも幸運なことに、絶好の収集の機会を保障する経済的状況があった。このような特殊事情は、本国の同胞にくらべ、彼ら現地生活者の立場を決定的に有利なものにした。
しかし彼らにも悩ましい問題があった。玉石の混淆する真贋の森に迷い込んだ彼らにとって頼りになるコンパスは、ここの対象物の品質を見きわめ、優れた美術品を選り分ける願力だった。だが現地人を当てにせず、自力でこれを身につけるには自ずと限界があった。そこで彼らが行ったことは、既存の知識と資源を動員して収集品の背後にある歴史を探求し、これを参照しながら、客観的な価値判断の基準となり、かつ個々の品物の質を見きわめることだった。運任せや行き当たりばったりではなく、効率的な収集を行うためには、それが必要だった。
全くの回り道だが、ほとんどなにもない時期にはこのような困難な道を選択するほかなかった。だが彼らには、基本を押さえた強みがあった。収集品が体系的に整理されるにつれ、当初は大雑把に見えた歴史も細部が補強された。それによって価値判断の基準となる尺度の信頼性が増すと、選りすぐりの品物を効率的に収集できるようになり、事態は加速度的に好転した。
収集品の体系的な整理作業のなかから必然的に、ひとつの歴史観が生まれた。このようにして日本美術史が芽吹き始めるのだが、それは彼らの純粋な学問的興味化や情熱からうまれたというより、効率的な収集を可能にする確固たる拠り所を求める、彼ら一流の実利的な要請から構想されたとかんがえるほうが、はるかに実態に近かったというべきだろう。」
(鈴木廣之「誰が日本美術史をつくったのか?ー明治初期における旅と収集と書き物ー」お茶の水女子大学『比較日本学研究センター研究年報』第4号、2008年所収、104-105ページより)
「近代日本美術は近代に作られた。当然だ。しかし『日本美術』と『日本美術史』も近代に作られた、となると、説明が必要だろう。もちろん過去の作品が近代に作られたという意味ではない。『日本美術』『日本美術史』という概念と歴史認識の体系が、近代にできあがったという意味だ。
作品じたいは、確かに古くからあった。『日本美術』『日本美術史』がそれを語ったものであることもまちがいない。しかし『日本美術史』という歴史体系じたいは、ことばによって記述されたものである。そのことばの体系が、近代日本に作られたのである。同時にそれは史実を体系として構築する際の支柱となる、新たな歴史観と世界観の成立も意味していた。」
(佐藤同信『〈日本美術〉誕生:近代日本の『ことば』と戦略』筑摩書房、2021年、9ページより)
アンダーソンによる日本美術研究は、おそらく朋友サトウの強い影響もあって極めて体系性と歴史性を重んじるもので、個別のテーマをバラバラに論ずるのではなく、その背景にある文化や思想、歴史を丹念に、しかもできる限り日本語の資料を読解しながら調査して、ここの作品の体系的、歴史的位置付けを一つ一つ確定させていくというものです。彼が収集した日本美術のコレクションの内容については、すでに多くの研究蓄積があり、近年では大英博物館でコレクションを丹念に調査し、そのコレクションの構築だけでなく、アンダーソン没後の充実過程、構成の変化といった点まで明らかにした彬子女王による一連の研究がよく知られています。
「そのコレクションの内訳は、986点の掛幅、95点の画巻、12点の画帖、3点の屏風、そして残りはまくりの作品で3040点が存在する。(中略)アンダーソンはあらゆる分野の絵画を蒐集しており、コレクションには数多くの異なった画派の絵画が含まれている。アンダーソンは、周文や雪舟といった室町時代の水墨画は雪舟派として別に分類しているが、巨勢金岡、門人画、南蘋派など、中国絵画の影響のある画家たちをまとめて ‘Chinese School’(中国派)と称している。(中略)全体の内訳は狩野派が一番多く、全体の23.6%を占めており、中国派、浮世絵、円山四条・岸派と続く。時代別には、江戸時代後期の作品が多く、平安、鎌倉、室町時代の作品はほとんど含まれていない。
アンダーソンはこのように各分野の作品を平均的に蒐集する傾向があり、狩野派の作品が他に比べてやや突出している以外は、その数に特に大きな差は見られない。遠藤望氏が指摘されているように、アンダーソンは日本美術史を体系として例示できる作品の蒐集を行っており、また時代背景も関係したその蒐集方法は極めて博物学的であるといえる。
3000点にも及ぶコレクションを作り上げるために、日本美術史の概念がまだ確立していなかった当時の日本で、アンダーソンは広範な調査を行わなければならなかった。そこでアンダーソンは、著作の参考文献として画人伝や画論など邦語資料を同時に蒐集、活用したようである。当時日本美術史全体について言及した文献は、未だ邦語でも欧語でも出版されておらず、彼がこれらの書物と作品を通して一から日本美術史の研究を進めなければならなかった状況がうかがえる。
この研究の集大成といえるのが、このコレクションを基にまとめられ、1886年に出版された A Descriptive and Historical Catalogue of a Collection of Japanese and Chinese Painting in the British Museum(『大英博物館蔵日本・中国絵画カタログ』)と The Pictorial Arts of Japan (『日本の絵画芸術』)である。1896年に The Pictorial Arts of Japan は翻訳され、美術史が確立していなかった当時の日本では画期的なものであると評価された。」
本書はこのように、日本だけでなく、世界で初めて「日本美術史」を本格的に体形づけた作品と言えるもので、近代西洋の概念と思考法と歴史観でもって日本美術の歴史が論じられた記念すべき作品です。アンダーソンの著作は、序文にその協力者として謝意が述べられている末松謙澄によって1896年にいち早く邦訳がなされて日本にも紹介しれるなど、イギリスや西洋諸国だけでなく日本においても大きな影響を与えました。ケンブリッジ大学に留学中でのちに外交官などとして多方面で活躍することになる末松謙澄は、『源氏物語』の英語訳を1882年に刊行するなど、日英交流史においても多大な貢献をなしたことが知られていますが、アンダーソンの著作の邦訳にはただならぬ苦労があったこと、それにもかかわらず日本語に翻訳してより多くの人々に知らしめる価値があると確信したことなどが邦訳書序文では述べられています。
これだけの画期的な仕事を成し遂げたアンダーソンですが、本書の存在とその意義については比較的近年になるまであまり知られていませんでした。その理由の一つとして、日本政府が1900年のパリ万博のために刊行した日本美術史である『Histoire del ’art du Japon』の存在が大きかったのではないかと思われます。
「『HISTOIRE DE L’ART DU JAPON』は、1900年第5回パリ万博に合わせて製作された日本最初の官製美術史で、その翌年に刊行された日本語版と、建築之部を加えた東京帝室博物館御所蔵版があり、その後の縮刷本は日本美術史の基本となった。美術史の形成は、国の歴史観・国家観にかかわり、近代国家の威信をかけた事業であった。」
(小倉学氏による同書解説、八戸市美術館『ロートレックとベル・エポックの巴里ー1900年』展示リストより)
ここで「国の歴史観・国家観にかかわり、近代国家の威信をかけた事業」と指摘されているように、いかに明治政府によって招聘された公人であるお雇い外国人であったといえどもイギリス人による「日本美術史」が決定版と目されることに対して、明治政府が強い懸念を抱き、むしろそれを刷新する目的で上掲本を刊行し、そのことによって本書はより積極的に忘却されるような時代背景に翻弄されたのではないかと思われます。とはいえ、近年になってアンダーソン自身や彼が構築した日本美術コレクション、そしてそれらが与えた影響についての研究がさまざまな角度からなされるようになってきており、2026年夏には東京都美術館100周年記念の特別展として、彼のコレクションを一つの中核とした「大英博物館日本美術コレクション:百花繚乱:海を越えた江戸絵画」の開催が予定されるなど、アンダーソン再評価の機運が高まってきています。
アンダーソンによる『日本の絵画芸術』は1886年にロンドンで刊行されていますが、当初は4冊の分冊本として刊行され、その後それらをまとめた1冊本として刊行されました。初期に刊行された分冊本の中でもさらに極初期のものは、Artist’s Proof Copy として番号が記されており、タイトルページと各章冒頭にアンダーソン自身の直筆署名が添えられています。これらはアンダーソンが関係者や親しい人物らに贈呈するためにおそらく100部のみが製作されたものと思われる大変貴重なものですが、本書は90番という番号が付されています。
なお、各巻の書誌情報は下記のとおりです。
Vol.1: 1 leaf(blank), pp.[i(Half Title.,)-iii(Title.)-v], vi-xix, Section Title. pp.[1], 1-114, 1 leaf(blank)
Vol.2: 1 leaf(blank), Section Title. pp.[115], 116-163, [164], Section Title., pp.[165], 166-181, [182], Section Title., pp.[183], 184-252, Section Title., pp.[253], 254-276, 1 leaf(blank)
Vol.3: (some colored) 39 numbered plates with each explanatory leaf (No.1-40, No.11/12 on the same leaf).
Vol.4: 81(some colored) numbered plates with each explanatory leaf (No.41-80, No.80 in 2 leaves), 1 leaf(contents).