書籍目録

『日本:その建築と美術、美術製品』

ドレッサー

『日本:その建築と美術、美術製品』

1882年 ロンドン / ニューヨーク刊

Dresser, Christopher.

JAPAN: ITS ARCHITECTURE, ART, AND ART MANUFACTURES.

London / New York, Longmans, green, and Co. / Scribner and Welford, 1882. <AB2025133>

In Preparation

8vo (15.8 cm x 22.3 cm), pp.[i(Half Title.)-iii(Title.)-v], vi-xi, pp.[1], 2-467, Original decorative cloth.
図版の一部にヤケが見られるが刊行当時の原装丁を保っており良好な状態。

Information

西洋人デザイナーとして初めて来日し、イギリスにおけるジャポニスムに多大な影響を与えた名著

 本書は1876年に西洋人デザイナーとしては最初となる来日を果たしたドレッサー(Christopher Dresser, 1834 - 1904)が、日本での滞在経験と日本美術と建築、それらのデザイン研究の成果をまとめたもので、イギリスにおけるジャポニズムの展開に多大な影響を与えたことが知られている作品です。

 イギリスにおける日本美術の受容は、一般によく知られているフランスのジャポニスムとは異なり、当初から産業デザインの改革という問題意識のもとで進んだことが指摘されています。高度な産業技術を有しているにも関わらず、フランスをはじめとした他国に比べデザイン力が極めて貧弱であることが19世紀半ばのイギリスでは大きな問題となっており、デザイン改良運動の一環として工芸家、デザイナーのために製作の参考となる資料の収集が進められていきました。1855年に装飾美術館(現在のヴィクトリア&アルバート・ミュージアム)が創設されたことは、こうした当時のイギリス産業界の状況を背景としています。さらに、1862年にロンドンで開催された万国博覧会で、イギリスの初代駐日公使オールコックが日本で収集した数々の美術品が展示されたことは、これまでにない規模で日本美術を一般の人々が実際に目にする機会を提供することになり、日本美術への関心を飛躍的に高めることに貢献しました。新たしいデザインのためのリソースとして参照されたのは、中世ゴシックや東洋美術といった、時間的にも空間的にも遠く離れた美術工芸作品で、中でも日本の美術品や工芸品はその最も有力なリソースの一つとして注目を集めました。

「まずヴィクトリア朝の建築・デザイン理論にとってのジャポニスムの役割を調査する時に、意外に思われることは、初期の日本美術崇拝者たちのほとんどがゴシック・リヴァイヴァル信奉者たちだったことである。ここでもう一度1862年のロンドン万博に戻ってみたい。前述のように、このときイギリスのデザイン論者たちによって、日本美術が初めて広く議論された。建築家、デザイナーであり著述活動もしたウィリアム・バージェス(1827−1881)は万博の日本部を評して、『日本部はまさに本展覧会の中で最も中世的な部門である』と言った。彼は自身、生涯中世主義をすてることはなく、この万博でも中世部門の設計に参加していたことを考えると、これは非常な賞賛である。しかしこうした日本美術と西洋中世とを結びつける考え方は、バージェスに限られたものではなかった。
 1851年のグレート・エキシビジョンとも言われるロンドン万博は大成功を収めたが、そこに出品されたイギリス・デザインに関しては、担当者の間からも批判が続出し、技術的には産業改革のトップを走るイギリスではあったが、デザインの面では遅れをとっていると評価された。ゴシック・リヴァイヴァリストたちにとっては、このイギリスのデザインの退廃の起源をルネッサンスにさかのぼって見出していた。そして中世の理想社会の工芸・デザインを範とすることによって、改革を推進しようとした。ルネッサンスによって道を誤った西洋に比べて、東洋は中世の伝統を保っていると評価したのである。西洋中世と東洋を同一視した、かなり乱暴な議論ではあるが、当時は純粋にそう信じられていたのである。1850年代にはこうした東洋崇拝主義がデザイン論者の間に広まり、有名なオーエン・ジョーンズ(1809−84)著『グラマー・オヴ・オーナメント』(1856)にはルネッサンスからロココに至るデザイン例がほとんど不在で、東洋の例が圧倒的な数を占めていた。
 こういった中で1872年万博に本部は、デザイン批評家たちに衝撃的なインパクトを与える。」
(渡辺利夫「イギリスーゴシック・リヴァイヴァルから日本風庭園まで」ジャポニスム学会(編)『ジャポニスム入門』思文閣出版、2000年所収、82ページより)

 上記引用文にあるオーエン・ジョーンズを師とする本書の著者ドレッサーも1862年のロンドン万博で展示された日本美術に強い衝撃を受けた一人です。ドレッサーは、公立のデザイン学校でデザインを学んだものの、植物学への関心を深めていき1860年にはイェナ大学で植物学の博士号を取得しています。その後、再びデザインの世界へと舞い戻り新たな活動を模索していたまさにその時期に、ロンドン万博で日本美術に出会いました。日本美術に大きな衝撃を受けて独自に研究と資料収集を開始して、1863年には日本美術に関する講演や論文執筆を行っています。1872年に岩倉使節団がロンドンを訪問した際には翌1873年に開催が予定されていた、明治政府として最初の公式参加となるウィーン万博での出展に関して相談を受けたとされており、1873年には日本美術の輸入商社としてロンドス商会を立ち上げています。さらに、1876年に上野に新設される帝国博物館(現在の東京博物館)の展示品充実のために、先に触れた装飾美術間の後継館であるサウスケンジントン博物館からイギリスをはじめとしたヨーロッパの工芸、美術品が寄贈されることになった際(明治政府は1872年のウィーン万博で多数のヨーロッパの工芸美術品を購入していたが、それらを積載した汽船が沈没するという不幸に見舞われていた)にその責任者となり、国賓待遇で来日を果たしました。また、帰国後の1879年には、イギリスにおけるデザイン改良運動の中心を担うことになる雑誌『ステューディオ』誌(The Studio)を1878年に創刊したチャールズ・ホーム(Charles Holme, 1848 - 1923)と共同で、「ドレッサー・アンド・ホーム社」を立ち上げ、日本美術をはじめとした東洋美術商社として、イギリスに数多くの日本美術をもたらすことにも貢献しています。

「顧みれば、ドレッサーの日本に対する関心は、1860年代初期に装飾モティーフ単体(絵画的要素)から生じ、70年代にはデザイン総体への研究へと段階的に拡大した。これには、官立デザイン学校で教育を受けた後、植物学研究者となり「芸術植物学」を同校で教授、産業デザインを実践した彼自身のキャリアが関係する。こうして彼の日本研究は、工芸の装飾性にある自然の表象から出発し、デザイン理論の構築と製作を伴い展開していった。」
(竹内有子「クリストファー・ドレッサーのジャポニスム序説:旧蔵資料に着目して」『デザイン理論』第77号、2021年所収論文、7ページより)

 本書は、ドレッサーが1876年12月から1877年4月までの日本滞在中の出来事と、その際に確認した数多くの日本美術についての考察をまとめたものです。ドレッサーはイギリスからの貴重な寄贈品を携えていたことに加えて、当時のイギリスにおける屈指のデザイナーとして明治政府から助力を求められていたこともあって、日本では国賓待遇並みの厚遇を受け、当時はまだ外国人の立ち入りがそれほど自由でなかった、奈良、京都の寺社仏閣の訪問と収蔵品を確認する機会が豊富に与えられ、正倉院の宝物を実見する機会にも恵まれました。また、京都をはじめとする各地の100以上もの工房を訪れて、日本の工芸品が製造される現場を具に観察することもできました。ドレッサーの来日した当時すでに数多くの西洋人が日本を訪れており、少なくない数の日本見聞記も出版されていましたが、序文でドレッサーが強調しているように、建築とデザインの専門家として日本を訪れ、彼ほど貴重な機会に存分に恵まれた者はいまだかつてありませんでした。したがって、既存の日本見聞記とは異なり、通常の旅行者や滞在者が気づくこと(あるいは知ることすら)ができないような日本の美術や建築の特徴を、専門的な見識に基づいて紹介、分析することが本書の主眼となっています。序文において、ドレッサーは自らが東洋美術の研究にこれまで30年以上を費やしてきたものの、来日経験を経ることによってイギリスをはじめとした西洋社会は日本美術、日本建築についてあまりごく僅かなことしか知らなかったのだということを痛感した旨を述べています。これは裏返せば、建築とデザインの専門家であるドレッサーこそが、初めて日本美術と日本建築の本質を解明し得たのだという強い自負を示しています。

「ドレッサーの日本での扱いについて佐野常民か町田久成が内務卿大久保利通に進言したと推測される。大久保はドレッサーに博物館長顧問という称号を与えて、視察旅行の一切の費用を政府で賄うように取りはからった。内務省の役人石田為武が視察先にドレッサーを案内し、通訳の坂田春雄とともにつねにドレッサーに同行するよう命じられた。このように、ドレッサーの視察旅行は事実上内務省の管理下に置かれることになったのである。
 視察はまず横浜から船で神戸に向かい、そこから淡路島に渡った後、再び神戸から奈良、大阪、京都、伊勢、四日市、名古屋、瀬戸、多治見、岡崎、静岡、箱根を通って横浜に戻り、さらに日光に足を伸ばすという道順を辿った。この間ドレッサーは各地で陶器、織物、金物、木工、紙などの製造業を視察し、多くの工芸品の見本や製法に関する情報を入手した。一方で、ドレッサーは訪れた各地の製造業者に、彼らの製品が海外輸出に適するか否かの点や、新しい産業の可能性などについて多くの助言を与えた。さらに、ドレッサーは奈良の正倉院や京都にある皇室のコレクションを見学するという特別な機会も与えられた。彼は政府の特別な計らいと準備により、寺院建築の装飾部分や古美術品など、興味を持ったものは何でも希望すれば間近で観察することができたのである。このように、来日後にドレッサーが明治政府の高官たちと交友関係を築き、彼らの手厚いもてなしを受けることができたのは、ドレッサーを有能な人物として推薦したサウス・ケンジントン博物館館長オーウェンの後ろ盾があったからである。」
(川村範子「クリストファー・ドレッサーと明治政府の高官たち:そのプロソポグラフィを中心に」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第2号、2011年所収論文、31, 32ページより)

 本書は全2部16章という構成となっており、第1部はドレッサーの日本滞在記と各地での観察が記されており、第2部は日本美術と建築に関する考察の各論となっています。ドレッサーは日本滞在中に腕のよいカメラマンを同行しており、滞在中に1000枚もの写真を撮影し、自社仏閣などの建築物についてはその全体像はもちろんのこと、建築上の特徴を表すものとドレッサーが考えた細部についても写真を多数撮影して本書の研究素材としました。また、各地で自らスケッチも行っていたようで、本書には随所にこれらの写真やスケッチをもとにしたと思われる図版が収録されており、さらにドレッサーが収集したさまざまな日本の書物から模写されたデザイン画も多数収録されています。これらの図版は、いずれも単なる物珍しさから採用されたものではなく、本書におけるドレッサーの考察に欠かせない資料として挿入されている点に大きな意義があると言えます。本書の構成と、第2部で展開されている日本の美術や建築、工芸品に対するドレッサーの分析については、上掲竹内論文で詳細に論じられており、本書に収録されている図版の原典が日本のいずれの作品であったのかについても、ドレッサー旧蔵書調査に基づいて精緻に解き明かされており、本書を理解する上で大きな手掛かりとなります。

「第二部は、日本の諸芸術をテーマごとに考察する内容である。一章が「宗教と建築」、二章「類似と象徴」、三章「漆製品」、四章「陶磁器」、五章「金工品」、六章「布地パターンの製法」、七章は「その他の製品」として小間物が観察されている。」

「さて、同署に所収される図は全部で202点ある。掲載された解説図はドレッサーの描いたものではない。彼は、『私は、木版用の解説図を描き骨折り仕事をしてくれたハンドレー氏と、著名な木版彫師のピアソンに感謝する』と付言する。他方、日本の建築物や文化を紹介すべく、ドレッサーは日本の板本から図を借用している。さりとて、採用した版本や日本絵師の名前は一切記載していない。概して図の用途は、日本で見た事物・風俗・文化を紹介するものと、日本画の紹介に分かれる。(中略)現存する旧蔵書からは発見されていないが、『北斎漫画』が満遍なく図に引用されている。」

「ドレッサー曰く、『日本の芸術家は、表現において簡潔で、自然においては様式的である。それらの作品の他国に勝る特質とは、植物、鳥、昆虫、魚の描写に生命感を与えていることであり、どの国の人も日本人のように素描を生き生きとしたものにできない』。その源が、筆の『タッチがこざっぱりしている』ことと、『尖ったような線のタッチ』にあると彼は考えた。ここで注目すべきは、対象の生気や律動を生み出す源を、光琳画に特徴的な鋭い筆線だとドレッサーが看破したことである。一方、光琳らの植物の偶有性に基づく有機的な表現は、彼の植物形態学論からは逸脱している。しかしドレッサーは、日本人の『自然と芸術に対する強い愛』が、活気ある生命感という特徴を生み出すのだと論じた。続けて、『芸術はそれを創る人々の感情を表すべきだ』と述べたことから、東西の芸術表現に係る相対的な理解をより究めたと考えられる。果たして彼の評価は、日本画家が不可視の自然の生命力と詩情を簡素さで掴みとり、翻案した点に収斂する。すなわち、日本の素描が対象を写実性に拠らず、事物の本質を抽象し形象化したことを高く評定したのであった。」

「(前略)ドレッサーが『日本』(本書のこと:引用者注)で版本を取り上げた企図は、それが工芸の『図案』として機能するからであった。事実、彼は日本画を『素描』と呼び、絵画作品とは見ていない。また、掲載された図版は動植物等の自然の事物が主体であり、それは自ずと装飾モティーフになる対象でもあった。
 『日本』が所収する日本画の主要図版は、ドレッサーの蔵書ーウェルカム図書館所蔵の旧蔵品ーに由来していた。その旧蔵書が示す版本の種類は幅広く、彼が日本の伝統的な画法に加え、日本的主題のありようを意欲的に調べたことを表す。これまで、ドレッサーにおける光琳の受容は明示されてこなかった。だが、彼は光琳を日本一の芸術家として扱い、『光琳新選百図』を最も重要な図案集とみなしていた。ドレッサーはとりわけ、光琳の絵画性を構成する特質を『鋭い筆線』に見出し、その筆使いが自然の情趣と生気を表す源であるとした。ここにおいて日本画に、空間構成を含めた簡潔性と自然の抽象化が讃えられた。」
(竹内前掲論文、10, 11, 13,16ページより)

 本書は、このようにイギリスのジャポニズムにおいて大きな役割を果たしだけでなく、明治初期の日本の美術工芸の現場にも多大な貢献を成した著者による著作として、高く評価されている作品と言えます。八つ折り本という当時の標準的なサイズで刊行されており、当時は相当の部数が発行されたものと思われますが、残念ながら現在では入手が難しい希少本となっており、特にドレッサー自身の考えが存分に反映されていると思われる刊行当時の原装丁を保っているものは極めて希少です。