本書は、日本語の古写本から翻訳されたと謳い、北京において皇帝陛下専属の外国語印刷局から刊行されたと称するフランス語の著作で、英語やドイツ語にも翻訳されてヨーロッパ各国で読まれたことが知られているリベルタン文学を代表するベストセラー作品です。どこにも著者名は記されていませんが、18世紀のフランスにおけるリベルタン文学を代表する作家であるクレビヨン(Claude-Prosper Jolyot de Crébillon, 1707 - 1777)によるものです。
本書の著者クレビヨンは、同名の劇作家である父(Prosper Jolyot de Crébillon, 1675 - 1762)の息子という意味でクレビヨン・フィスと呼ばれています。彼が数多く手がけたリベルタン文学というジャンルは18世紀フランスにおいて広く流行したもので、キリスト教の教義体系に縛られずに思索を深めようとする(従って教会関係者から見ると宗教的放蕩、逸脱とみなされた)「自由思想家」のことを「リベルタン」(libertin)と17世紀頃から呼び始めたことに由来するものです。
「17世紀のリベルタンの訳語として形容詞では「自由思想の」、また名詞では「自由思想家」が使われるが、ここでいう「自由」とはキリスト教のスコラ哲学からの逸脱と深くかかわっている。17世紀の終わりから18世紀になると、「リベルタン」という語には「放縦な」、「放蕩な」、「卑猥な」という意味の形容詞、および「放縦な者」、「放埒な者」、「放蕩者」という名刺が付加される。キリスト教思想の逸脱から、キリスト教の道徳規範にとらわれない者へ、そして道徳規範の逸脱から性的モラルの逸脱へと変化し、「放蕩者」の意味になる。こうした変化からは、「リベルタン」という語にしだいに性的な意味が加わっていくことがわかる。」
「(前略)リベルタン文学とは、「性を内包した、反逆的な文学」と定義できる。この定義は非常に大まかではあるが、18世紀フランスに、とりわけクレビヨン・フィスの作品を単著として生まれ、サドによって終結する文学の流れに対して、その雑多性、よく言えば多様性を考慮するなら、こうした大まかな定義を作用するのが賢明だと思われる。」
(関谷一彦『リベルタン文学とフランス革命』関西学院大学出版会、2019年、23、25ページより)
上記のように定義されている「リベルタン文学」は、教義によって本来は包み隠されるべきものであるセクシャルな事項を赤裸々に暴露することによって、人間の欲望を思うままに開花させると同時に、秘匿されたものの神秘性を暴くことによって、政治的、宗教的権威の虚構性を鋭く批判するという体制批判、社会批判を孕んだもので、こうしたジャンルの作品の流行がフランス革命勃発の引き金の一つとして作用したという指摘もなされています。
「現在から見ると、必然性はともかく、18世紀にはリベルタン文学が生まれる条件が揃っていたように見える。(中略)18世紀前半の時代の雰囲気、また『テレーズ』が明らかにしているキリスト教への懐疑、教権批判がリベルタン文学開花の背景にある。聖職者によるスキャンダル、イエズス会とジャンセニストとの対立、宗教的弾圧に対する反発、こうした教権の綻びがリベルタン文学を生み出した背景だと考えられる。したがって、こうしたリベルタン文学が開花した18世紀フランスはよく言われるような「理性の世紀」だけではなく、「快楽の世紀」とも言える。
(前掲書、211ページより)
クレビヨンはこのように評される「リベルタン文学」の端緒を切り拓き、かつこのジャンルを代表する作家で、主著『ソファ』など複数の作品が日本語にも翻訳されて古くから親しまれています。こうした作品の多くは政治的、宗教的権威に対して極めて批判的な内容を含んでいたため、著者名や出版社名を匿名にしたり、あるいは偽った表記を採用するといった偽装工作が頻繁になされました。本書もまさにこうした事例を代表するもので、出版地を「北京」とし、その出版社を「Lou-Chou-Chu-la」という中国語の音声をもじったような奇妙な名称とし、さらにその肩書きとして「中国皇帝陛下の外国語印刷局」というもっともらしい説明まで加えています。偽装工作もここまであからさまなものになると最早それ自体が権威に対するある種の挑発、嘲りとなる意図が込められていると言えます。
「リベルタン文学」に限らず、18世紀のフランスにおいては、フランスから時間的、空間的に遠く離れた舞台設定を採用し、あたかも彼の地についての批評を行う体で実際にはフランス王家や教会関係者を批判するというスタイルの作品が数多く見られました。中でも本書が非常にユニークなのは、この作品が日本の古い写本から翻訳されたものであることや、その由来や数奇な歴史について、わざわざ冒頭の1章を割いて長々と読者に説明していることです。著者は当時のフランスでも流行していた孔子を引き合いに出し、この作品は孔子の作品と伝えられるほどの名作であるが、実際には孔子よりも10世紀以上も前に活躍した「Kiloho-éé」という当時の中国で最高の官職にあり、歴史、政治、道徳について数多くの名著を著した人物よるものだと述べています。ただし、その起源は古い日本語で書かれた物語で、それが「Chéchianien」語に翻訳され、そこから古代中国語に重訳されたのだと言います。そして、この写本を南京に滞在していたオランダ人が語学学習の一環としてオランダ語に翻訳し、その稿本をヨーロッパへと持ち帰り、さる高明な学者によってラテン語へと翻訳されてニュルンベルクで出版されるはずだったが、不幸なことにペストに襲われるという災厄のため実現されなかった。この未刊に終わったラテン語訳は、別の人物によってヴェネツィア語(イタリア語)へと翻訳され、それをさらにフランス語へと翻訳したものが本書である。著者は、このようにして長々といかにもあり得そうなこの作品の具体的な来歴を詳らかにしています。しかしながら、(過剰なまでに詳細に)ここで述べられているこうした来歴は全て架空のもので、おそらく当時の読者もそのことをはっきりと意識しつつも、苦笑しながらこの記述を読んだものと思われます。
本書に見られるように(架空の)日本を舞台として文学作品に仕立てるのは当時の流行の一つで、その背景には1727年から1728年にかけてロンドンで刊行された、西洋人による日本研究の金字塔である、ケンペル『日本誌』とその各国語への翻訳出版があります。ケンペル『日本誌』は、実際に日本に滞在した経験を有する西洋人が網羅的に行った日本研究として大きなインパクトを与え、当時の知識人、作家の日本についての知見や日本観は、この作品から大きな影響を受けていることがわかっています。従って、本書が刊行された当時は、このように西洋人から見た日本像が広く流布している最中にあったといえ、日本に対する関心が高まっていた時期にありました。おそらくクレビヨンはこの流行を敏感に察知し、あたかも日本の古典作品が新たに見出されたかのように偽装するという本書のアイディアを思いついたのではないかと思われます。本書の物語の舞台は当然古代の日本とされていて、タンザイとネアデルネという二人の人物をめぐる物語として展開されていますが、実際にはルイ14世の義理の娘であるメーヌ夫人(Louise Bénédicte de Bourbon, 1676 - 1753)を後者のモデルとして批判的、風刺的に描いたものと言われています。
「ヨーロッパの著述家は理想郷的で現実離れした島への憧憬に没頭するためにデフォー Defoe の『ロビンソン・クルーソー』(Robinson Crusoe を利用したが、その間に、島国日本はヨーロッパ批判の脈絡に取り入れられた。このことは日本がその政治的・社会的状況においてヨーロッパに近いと見られたことを物語る。(中略)つまり、日本はヨーロッパの苦境を東アジアで体験した存在として様式化される一方、ヨーロッパが全く形無しになる場なのである。」
(ペーター・カピッツア / 岡野薫(訳)「エンゲルべルト・ケンプファーとヨーロッパの啓蒙主義:18世紀における『日本誌』の影響史をめぐって」『東北ドイツ文学研究』第52号所収論文、122ページより)
このように、本書はフランス革命に影響を与えたとも評される「リベルタン文学」の先駆者である著者による作品で、かつ日本を題材にとって北京を出版地に仕立てるという大変興味深い作品と言えるものです。本書は1734年の初版刊行以降、すぐに大人気作品となったようで、出版禁止の対象となったにも関わらず何度も版を重ね続け、フランj酢革命後の1786年頃まで再版本が出版されたことを確認することができます。また、初版刊行の翌年には、英語訳版(The skimmer; or, The history of Tanzai and Neadarne. London: F. Galicke, 1735)が刊行され、同年には出版地をロンドンと謳ってタイトルをわずかに変更(L’ecumoire, Histoire Japonoise)したロンドン版も刊行され、このバージョンはは1770年にオランダのマーストリヒトでも刊行されています。さらに、1785年にはドイツ語訳版(Wilhelm Christhelf Sigmund. Mylius(tr.). Tanzai und Neadarne oder der Schaumlöffel. Eine japanische Geschichte. Berlin: Friedrich Mauer)も刊行され、ドイツ語訳版は20世紀になってから改めて繰り返し刊行されていることから見ても、今なお人気の高い作品と言えます。
このコレクションは、初版と目される1734年版本と1740年の再版本、そして口絵と挿絵を付した1758年の再版本という3つの異なる諸本をセットにした大変貴重なものです。初版本はフランスで、1740年本はスイスで、そして1758年本はルーマニアでそれぞれ見出したもので、この作品のヨーロッパ中への広がりをそのまま表したような来歴を有しています。
なお、各版の書誌情報下記の通りです。
[1734 edition]
8vo (9.8 cm x 16.6 cm)
vol.1: 1 leaf(blank), pp.[i(Title.)-iii], iv-xx, 2 leaves(TABLE), pp.[1], 2-96,(NO DUPLICATED PAGES) 89-266, 1 leaf(blank) / vol.2: 1 leaf(blank), Title., 12 leaves(TABLE), pp.[1], 2-155, 256(i.e.156), 157-436, 1 leaf(advertisement), 1 leaf(blank).
Contemporary brown leather.
何葉かに破れ、第2巻Rv(pp.201/202)に余白の切り取りが見られるが、それ以外は良好な状態。
[1740 edition]
Small 8vo (8.2 cm x 13.9 cm)
vol.1: 1 leaf, pp.[i(Title.), ii], iii-xix, 2 leaves(TABLE), pp.[1], 2, 3, [4], 5-274, 1 leaf(blank) / vol.2: 1 leaf(blank), Title., pp.[1], 2-242, 2 leaves(TABLE), 1 leaf(blank).
Contemporary brown leather.
[1758 edition]
Small 8vo (9.0 cm x 15.5 cm)
vol.1: Half Title., pp.[1(Title.)], 2], Front., pp.[3], 4-154, Plates: [2] / vol.2: Half Title., pp.[1(Title.)-3], 4-139, Plates: [2].
Contemporary paper wrappers.