書籍目録

ウィリアム・ビーチー / イギリス海軍水路部

アルゾビスポ、あるいはボニン諸島の一つであるピール島の西岸にあるロイド港」(小笠原諸島父島二見港図)(海図)

ウィリアム・ビーチー / イギリス海軍水路部

初版 1833年(5月7日) ロンドン刊

Beechey, William / British Admiralty (Hydrographic Office)

PORT LLOYD, On the Western side of PEEL Island, one of the ARZOBISPO OR BONIN ISLES,...

London, (published according to Act of Parliament at the) Hydrographical Office of the Admiralty, (May 7th,) 1833. <AB202577>

Sold

First edition

1 sheet map (50.5cm x 65.8 cm),

Information

イギリス海軍水路部創設期にして最初期の日本近海海図

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「無人島」(ボニンアイランド)としてケンペル、レミュザラによって西洋に伝えられた小笠原諸島の父島にある二見港を中心とした海図である。当時水路局長ボーフォートの下で海図政策、発行のシステムを急速に発展させつつあったイギリス海軍水路部による最初期の海図であるだけでなく、同水路部が作成した日本近海について独自測量に基づいて発酵した最初の海図と思われる非常に重要な海図。これまでの研究等でほとんど(あるいは全く)知られていないのではないかと思われる極めて珍しい海図である。本図刊行の2年前(1831年)に刊行されたビーチーによる航海記にも、小笠原諸島の海図は収録されているが、本図よりも小型の簡易版なものであり、イギリス海軍水路部の公式海図として刊行されたより実用性の高い正式な海図はは本図である。ビーチーによる1827年の調査に基づくとされており、刊行されたのは1833年。のちに見られるようなイギリス海軍水路部の海図番号はまだこの時点では採用されおらず、本図には振られていない。

「19世紀に入ると、イギリスとロシアの探検調査船があい次いで日本近海に達している。1827年6月8日、イギリス海軍の探検調査船ブロッサム号(艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチー)がこの無人島に到着した。この船は備砲26門、乗組定員122名(この航海では備砲16門、乗組員100名)の軍艦で、太平洋の探検調査のほかには、北西航路の探検中に行方不明になったウィリアム・パリーやジョン・フランクリンの探検船の捜索も目的の一つであった。こうしてブロッサム号は2年前の1825年5月19日、イギリスのサウザンプトン近くのスピットヘッドをあとにした。途中タヒチやサンドウィッチ諸島(ハワイ)に寄港し、ベーリング海峡に到達したが、彼らに出合えず、この年1827年(文政10)年5月に中国のマカオを経て琉球に到着した。
 ブロッサム号は5月25日那覇を出帆して、東へと針路をとった。ビーチー艦長は、ケンペルの『日本誌』やレミューザの論文などで、当時その存在だけは知られていたものの、まだ正確な位置が確認されていなかったボニン・アイランズを求めて航海を続けたのであった。(中略)
 ビーチーの一行はこの島(父島)に6月15日まで滞在するが、彼はサプライ号の寄港したことを確認すると「これらの無人の島々を領有することは、いまや単に形式上の問題に過ぎない」として、国王ジョージ四世の名においてこれらの島々の領有を宣言し、その旨を記した銅板を現在の洲崎の海岸の樹に釘付けにした。また、このとき彼は主な地名も命名している。すなわち現在の二見港港にはオックスフォードの前の主教の名にちなんでポート・ロイドと名づけ、父島には内務大臣サー・ロバート・ピールのなからピール・アイランド、巽湾には地理学協会の元会長フィットン博士の名をとってフィットン・ベイ、母島には前の天文学会長の名からベイリイ・アイランド、聟島列島には彼が北太平洋の探検航海について指導を受けた水路学者故パーリー氏に敬意を表してパーリー・グループなどとそれぞれ命名した。
 ビーチーはあたかも自分が最初の発見者であるかのように地名を付け、領有を宣言したが、彼は150年以上前に日本人が発見した無人島のことをしらないわけではなかった。ただ、彼はケンペルの『日本誌』やレミューザの論文にある無人島は、彼が上陸したこの島とは別の島である、と少々強引に解釈したのであった。(中略)
 いずれにしても、このビーチーの領有宣言は、後にみるようにイギリス政府から正式に承認されることはなかった模様である。」
(田中弘之『幕末の小笠原』中央公論社、1997年、24-30ページより)

「初代海軍水路局長ダルリンプル(在任1795〜1808)は、1779年からイギリス東インド会社水路部長であった。このことからもわかるように、18世紀(後半の)イギリス独自の海図作成・蓄積は、むしろイギリス東インド会社が先行していた。当時イギリスでは、オランダなどと同じように、軍艦にせよ商船にせよ寄港地の測量結果を報告することは慣習的義務であった。しかし、測量する主体が先述のような状況だったので、これらの報告(地図や日誌、報告書など)の多くは不備であった。このとき彼は自ら測量に従事し、また、太陽高度による緯度観測、月距法による経度算出などを行なった。帰国後、この航海で得た知識をもとに海図の研究・出版を志し、会社の援助を得て A Collection of Plans of Ports in the East Indies(1774〜75)を自家出版した。彼は会社の水路部長(ハイドログラファー)に任命されると、会社船のために航海報告を整理し、印刷して供給するというシステムを構築しようとした。こうして、ダルリンプルの努力により、東インド会社の海図作成体制へ徐々に整備されていった。18世紀を通じてイギリス海軍の海図作成管理体制は、東インド会社のそれより不十分であった。1795年ダルリンプルの初代水路局長(ハイドログラファー)就任は、海軍のもつ海図情報を選択・編纂して、海軍軍艦に提供する体制を整えることを意味したのである。私が注目したいのは、彼が自家出版の経験を通じて海図の印刷まで実践した点である。つまり、彼は水路測量の理論、実践、海図の作成から印刷まで全体システムとして理解して指導しうる人物だった。
 こうしてイギリスに、海図を作成・管理・流通させていく海軍水路局という国家的組織が誕生した。イギリス海軍はナポレオン戦争中に海図の不備を痛感し、戦後積極的に海図整備を図るボーフォート局長(在任1829〜55)の許で、海図作成は急速に発展した。7つの海へのイギリスの制海権確立は、同局による海図の世界的規模での作成・頒布という体制の形成と表裏をなすものであった。海軍士官による測量データの蓄積により海図が印刷され、航海士は海図とクロノメータを用いて世界各地を航海し、今日我々が地球と大陸に対してもつイメージが形成されてきたのである。また、測量に伴う各港湾に関する海路・気象上のデータにより水路誌編纂も行われ、Pilot (Sea Directory)として水路局から出版された。」
「(前略)ビーチーもベルチャーも、ボーフォート局長時代の最優秀の測量士官であり、19世紀世界探査史には必ず登場する。彼らは世界中の測量を行ない、その一環として琉球列島に来航した。彼らの航海は表1にある航海記(ビーチーよるものについては、Narrative of a Voyage to the Pacific and Beering Strait, performed in H. M. S. Blossom in the years 1825, 26, 27 (London, 1831)(邦訳『ブロッサム号来航記』;引用者注)によって知られるが、これらは単なる旅行記ではなく、多くの測量図とともに、水路情報(各港に関するノートや観測結果[風景や博物画なども含む]、航海・気象日記など)を含んでいる。つまり、彼らは、みずから収集した測量海図とこれら水路情報を、水路局を通じて、出版海図と水路誌としてデータを蓄積していくのと同時に、航海記を出版し、その成果を社会に広めたのである。」
(横山伊徳「19世紀日本近海測量について」黒田日出男 / M.E.ベリ / 杉本史子(編)『地図と絵図の政治文化史』東京大学出版会、2001年所収論文、273-275ページより)