書籍目録

『とある高潔な日本の舞台劇集(能楽集):アーネスト・フェノロサの手稿より』

フェノロサ / エズラ・パウンド(編)/ ウィリアム・イェイツ(序文)/ クアラ・プレス

『とある高潔な日本の舞台劇集(能楽集):アーネスト・フェノロサの手稿より』

350部限定出版(うち334番) 1916年 ダブリン刊

Fenollosa, Ernest / Pound, Ezra(ed.) / Yeats, William Butler (intr.)

CERTAIN NOBLE PLAYS OF JAPAN: FROM THE MANUSCRIPTS OF ERNEST FENOLLOSA, CHOSEN AND FINISHED BY EZRA POUND, WITH AN INTRODUCTION BY WILLIAM BUTLER YEATS.

(Churchtown Dundrum)Dublin, The Cuala Press, MCMXVI(1916). <AB202565>

Sold

No.334 of 350 limited copies.

Small 4to (14.5 cm x 21.2 cm), 2 leaves(blank), 1 leaf, Title., 1 leaf(blank), pp.I(on verso)-XVIII, [XIX], 1 leaf, pp.[1], 2-48, [49], [50], 1 leaf(colophon), printed with black and red ink, Original half cloth on card boards.
旧蔵者の蔵書票の貼付あり。良好な状態。

Information

西洋のみならず近代日本における本格的な能研究の嚆矢となった私家版

 本書は、日本美術の西洋社会への紹介において偉大な功績を残したフェノロサ(Ernest Fenollosa, 1853 - 1908)が遺した『錦木』をはじめとした能の謡曲の英訳草稿を、モダニズム詩人として名高いエズラ・パウンド(Ezra Weston Loomis Pound, 1885 - 1972)が独自に編訳し、パウンドが敬愛するアイルランド文芸復興運動の担い手であった詩人イェイツ(William butler Yeats, 1865 - 1939)が長い序文を付した上で、1916年にダブリンで刊行された作品です。この出版を手掛けたのは、イェイツの妹であるエリザベスが運営していたクアラ・プレス(Cuara Press)で、この出版社は、アイルランド文芸復興に関する重要著作を多数出版し、しかも、いずれの作品もこの運動そのものを体現するような美しい書物として世に送り出されたことが知られており、本書もそうした作品の一つとして350部限定で出版されたものの1冊です。

 本書が出版される契機となったフェノロサの遺稿とは、次のような経緯で執筆されたものでした。

「フェノロサの日本滞在は、最初が1897年(明治11年)から1890年までの約13年間であり、2回目は、1897年から1901年の約4年間であって、あわせて約17年という長期の滞在であったといえる。この間における能との出会いは、まず、1883年(明治16年)のこと、同じようにお雇い外国人教師として来日していた、モース(Edward S. Morse, 1838-1925)とともに、初代梅若実に入門したのがはじまりであった。結局は、2月20日から6月13日まで12回程の稽古で中断してしまっていたようであるが、再度の日本滞在中、1898年(明治31年)11月18日、能楽研究の志を立直して、梅若実のもとに再入門することになる。今回は、平田禿木を介添役としてである。その結果が、謡曲の英訳および研究ノートとなって残されることになるのである。
 しかしそのフェノロサは、1908年、ロンドンにおいて客死。1912年、彼ののこした東洋美術館系の遺稿の一部が未亡人メァリー(Mary McNeil Fenollosa, 1865?-1954)の編によって、『中国・日本美術史綱』(The Epochs of Chinese and Japanese Arts)としてロンドンのハイネマン社より上梓される。そして、その改訂版が、1913年10月に出ることになり、その前後の時期に、メァリー・フェノロサとパウンドとの最初の出会いがあり、彼女が若いアメリカの詩人パウンドを亡夫の遺稿の管理人として指名し、更に能の翻訳の完成を託するということがあったと考えられる。」
(長谷川年光「フェノロサ、パウンド、イェイツ:能の伝播と同化をめぐって」京都大学教養学部英語教室(編)『英文学評論』第52号所収論文、56、57ページより)

 本書には、能作品のうち『錦木』『熊坂』『羽衣』『景清』の英訳が収録されています。パウンドがフェノロサの遺稿にあった英訳に大胆な、時に創作とまで評されるような手を加えたことはよく知られていますが、地道な日本研究に基づいてなされたフェノロサの草稿に優れた詩人であったパウンドが手を加えたことで、この英訳は大きな反響を呼ぶことになりました。特にその研究段階において、パウンドが敬愛して止まないアイルランドの詩人イェイツは、日本の能に魅せられ、自身が感じていた西洋演劇の行き詰まりを打破するための光明を日本の能に見出したとされています。

「1913-14年の冬、「1914-15年の冬、そして1915-16年の冬に、パウンドはストーン・コティジに滞在し、イェイツのいわば秘書の役割を続けていたのである。そしてこの3年にわたる冬の季節に、パウンドはフェノロサの謡曲翻訳を完成させ、一方、イェイツは、パウンドの能への熱中・傾倒に刺激されて、能に基づいた新しい演劇の創造の試みへと足を踏み出すのである。これらの冬のストーン・コティジが生みだした最初の見事な結実が、'Noh' or Accomplishmentの出版であり(あるいは『日本の高貴なる戯曲集』(Certain NoblePlays of Japan, 1916)の出版であり)、1916年4月2日の『鷹の井戸』のロンドン初演だったのである。」
(前掲論文61,62ページより)

 能に対する西洋社会の関心のが高まっていくのは、明治初期の外交場面で観能の場がしばしば設けられた頃を始まりとし、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850 - 1935)による紹介を経て、実際にその関心の高まりが本格化していくのは、能楽画を数多く手がけた月岡耕魚の木版画作品が、イギリス人ブリンクリー(Francis Brinkley, 1841 - 1912)による『日本の芸術:第1巻 絵画芸術』(ART OF JAPAN. VOL I: PICTORIAL ART ILLUSTRATED. Boston, 1901)が出版された世紀末転換期頃ではないかと推測されます。1913年にはマリー・ストープス(Marie Stopes, 1880 -1958)によって『古き日本の劇、能』(Plays of Old Japan, the No. London: William Heinemann Ltd, 1913)が刊行され、謡曲の英訳とその解説がなされています。本書は、同時代においてすでに偉大な詩人として高く評価されていたイェイツによる長文の序文(解説)が添えられた上で、新進気鋭の詩人パウンドが独創的な編訳がなされたことで、同時代のヨーロッパ(特に英語圏)の文芸、演劇の世界に直接大きな影響力を与えたことに大きな特徴があるといえます。

「謡曲の翻訳の正確度という問題を別にすれば、フェノロサおよびパウンドの功績の最も大きな点は、能に対するアプローチにあるといってもよいと思う。それは、一言でいうならば、能というものを世界にすぐれた舞台芸術として見ていることであり、謡曲というものを、いわゆる「つづれ錦」のパスティーシュではなくて、文学的価値の高い詩劇としてみていることである。
 能が演劇芸術であり、そのテキストである謡曲は文学であって、真面目な研究対象とするに価するものだという考え方。これは、今から考えれば、まことに当然すぎる話しであって、ここに取り立てていうほどのことではないと思われるであろう。しかしながら、このような能へのアプローチが、19世紀末から20世紀初頭においてなされ、またその成果が出版されたのが1916-17年出会ったことに注目し、更に日本における能および世阿弥についての研究の歴史の中において考えてみるならば、その価値と意義がおのずとあきらかになるであろう。」
(前掲論文、62ページより)

 このように、西洋社会に対して本格的な詩劇として能を紹介したとして、非常に高く評価されている本書ですが、その刊行直後には早くもその内容を増補拡張した別作品(Noh: Or, Accomplishment: a study of the classical stage of Japan. London: Macmillan, 1916)が刊行され、より一層大きな影響力を与えていくことになっていきます。本書が後続の増補拡張された作品と異なっているのは、この作品がイェイツの妹たちが手がけていたアイルランド文芸復興運動の担い手となっていた出版社「クアラ・プレス」から出版されているということです。

「1908年、イェイツの妹のエリザベスとスーザンがダン・エマー・プレスから分離独立して、新しくクアラ・プレスを設立した。クアラとは、その建物があるCountyの古代アイルランド名であった。これを機に、イェイツ自身編集に携わり、弟のジャック・イェイツも挿絵や木版画部門を担当するようになった。かくして、当時の文芸復興運動に参画した作家達の初版本のほとんどがこのクアラ・プレス社から発行された。この77巻の出版物のどれもが、スリムな四つ折り版で、特別に手漉きで製造されたアイルランドの紙にキャズロンタイプの活字で印刷され、自然素材のリネンの背をつけた青または灰色の紙での装丁が施されている。」
(吉津成久「アイルランド文芸復興運動とクアラ・プレス:母なるものへの回帰」梅光女学院大学英米文化学会(編)『英米文学研究』第36号所収論文、160ページより)

 本書に続いた著作がロンドンやニューヨークの大手出版社が手掛けていたのとは異なり、本書はイェイツ自身がその出版物の編集に関与し、アイルランド文芸復興運動の中核を担っていた地元アイルランドの「スモールプレス」から出版されているという点に、大きな意義があります。『ケルトの薄明』(The Celtic Twilight)という散文集を出版するほどにアイルランドのアイディンティとしてのケルト文化に傾倒していたイェイツが、自身と(そしてアイルランド、ひいては近代西洋演劇全体の)行き詰まりを打破する可能性を、パウンドを介してフェノロサが紹介した能に見出していたこと、そしてその出版が自らの拠点ともいえるクアラ・プレスによって行われたということは大いに注目すべき点であると思われます。書物として非常に丁寧に作り込まれており、用いられる用紙や装丁、活字とその配置に至る隅々にまで細心の注意が払われていることが実感できる本書は、書物それ自体がアイルランドの文芸復興運動の姿勢を体現したものと言えるものであり、能を介した(時に幻想や誤解も含めた)東西交流を象徴するような1冊であると言えるでしょう。