この手書き手稿は1868年初めに生じた「神戸事件」に関する一連の動向を簡単に報じたものと思われる内容で、筆者であるエモリーについての詳細は不明ですが、当時神戸に居合わせた人物ではないかと思われます。記されている内容を簡単に訳しますと次の通りとなっています。
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W(illia)m Emory’s letter dated U.S. Legation Hiogo Japan. March 2(n)d / (18)68.
(ウィリアム・エモリーの1868年3月2日付、兵庫アメリカ領事館発書簡)
On the 2d Feb / 68 left Osaka Japan in the “Iroquois” having on board the American, Italian and Prussian ministers besides a huge number of foreigners.
(1868年2月2日、イロキス号はアメリカとイタリア、そしてプロイセンの公使、並びに多数の外国人(居留民)を乗せて、日本の大阪を出発した。)
Tycoon’s castle and English Legation in a blaze as well as a large part of the town.
(大君の城とイギリス公使館は街の大部分と同様に炎に包まれた。)
On the night of their arrival at Hiogo, W(illia)m Emory was ordered with ten men to occupy the Custom House where the ministers took up quarters.
(夜に兵庫に到着した際、エモリーは10名の人員と共に公使たちが止宿していた税関を占拠するように命じられた。)
On the 4th / Feb a large body of Japanese troops passing through the place, some of them armed with Enfield rifles when opposite to the foreign reservation began an indiscriminate fire on all foreigners.
(2月4日、大規模な日本軍部隊がその場所を通過し、その際エンフィールド銃で武装した幾人かの兵士が、外国人居留地の反対側で全ての外国人に対して無差別発砲を開始した。)
The French, English, Emory’s ten men out first and taking the lead were turned out.
(フランス人、イギリス人、そしてエモリーの10人の人員たちは最初に外に飛び出て先陣を切って行った。)
Emory having so few men resolved to make a dash which he executed with great gallantry, advanced upon the Japanese at double quick…
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…and upon arriving near enough deployed his men as skirmishers, arriving within 75 yards, charged upon them at double quick with the bayonet.
(エモリーはごくわずかな兵士と突進させることを決断し、日本兵の2倍の速さですばやく前進させ、日本兵まで十分な距離まで近づかせると、陣営を迅速に展開させて銃剣でもって日本兵を蹴散らさせた。)
Japs consisting of 200 men ran leaving their field pieces and baggage.
(200名からなる日本兵は彼らの装備を残したまま走って立ち去って行った。)
Chased the Japs three miles to the mountains, and then tell back.
(日本兵を3マイルほど山に向かって追跡してから、(エモリーは兵士たちに)戻ってくるように命じた。)
Meanwhile the English & French about 50 each, who had taken possession of the field pieces & baggage on their retrograde march.
(一方、それぞれ50人からなるイギリスとフランスの兵士たちは、日本兵たちが残して行った装備品を回収した。)
Mikado, in a few days sent an envoy to say he had ordered the Tycoon resign and that the Tycoon was abolished wished the Troops should be withdrawn, promised to keep the old treaties in force granted the request that an apology should be made for the recent attack and that…
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…the head of the men who ordered the firing should be publicly cut off.
(数日ののち、ミカド(帝)は使節を(我々の元に)派遣して、タイクーン(大君)に辞任を命じたこと、タイクーンは廃絶されたこと、(したがって外国の)軍隊は撤収されるべきことを望んでいることを伝えさせ、これまで締結された諸条約が保証されることを約束するとともに、先日の(日本兵による)襲撃を謝罪し、かような襲撃を命じた者たちは公開斬首に処せられべきであるという(諸外国からの)要請に応えることを伝えさせた。
Trade was resumed.
(かくして交易は再開された。)
「神戸事件」とは、今ではあまり知られていませんが、明治新政府が、幕府に代わって外交主権を代表する当事者として初めて対応を余儀なくされた外交事件で、日本の近代外交史にとって極めて重要な意味を有する事件です。この事件は、明治政府による出兵要請を受けた備前藩が、海外列強諸国に開港したばかりの兵庫を通過する際、行列を横切ろうとしたフランス人と小競り合いとなり、そこから居留地予定地の見聞中であった列強公使への発砲が偶発し、列強諸国との銃撃戦、神戸の列強諸国による占領という深刻な事態をもたらしたものです。この事件は、列強諸国からの極めて強い反発を惹起し、ようやく戊辰戦争によって政権を確立しつつあった明治新政府にとって極めて慎重な対応が求められることとなりました。そもそも、この事件が勃発した1868年2月4日時点では、外交主権が旧来の将軍による幕府側にあるのか、あるいは天皇を擁立した明治政府側にあるのかが定かではなく、列強諸国に対して、日本の外交主権が明治政府にあること、並びに列強諸国と友好関係を持つ意思があることを正式に宣言する(2月8日)ことから、対応しなければなりませんでした。
備前藩がとったフランス人に対する制止要請と威嚇は、当時国内で効力を有していた武家諸法度において、大名行列の横切り(いわゆる共割)に対する行動として合法的なものでしたが、列強諸国側にとっては開港したばかりの兵庫に在留する外国人の安全保障に対する重大な侵害行為として受け止められ、日本側の事件当事者に対する厳しい処罰要求と補償とが、明治政府に対して突きつけられることになります。国内において合法であった行動、しかも主君のためにとった行動で、一人の死者も出していないにも関わらず、当事者を処罰(すなわち切腹させる)することに対しては、国内において相当の反発がありましたが、ようやく政権を確立したばかりの明治政府にとって、列強諸国との深刻な衝突は何としても避ける必要があるとの思惑、並びに外交主権者としての自身の地位と方針を明確にする必要から、基本的に列強諸国側の要求を受け入れ、備前藩の護衛部隊を率いていた滝善三郎の列強諸国立ち会いのもとでの切腹を行うことで、この事件を解決しました。結果的に滝善三郎の死によって、明治政府は外交主権者としての地位を列強諸国から認められ、また開国和親の立場を明確にすることで、信頼に足る主権者としての承認を列強諸国から得ることに成功しました。
ところが、この「神戸事件」は奇妙なことに、事件勃発当時から、その詳細についての情報が極めて錯綜しており、負傷者数やその国籍、事件の推移といった基本的な情報についても一致を見ておらず、しかもそれぞれの情報が錯綜したまま後代に伝えられることになりました。 国内の記録に対して、もう一方の当事者であった列強諸国側でも、この事件に対する報告を各国が行なっており、それらは一様に外国人に対する日本人の敵意に端を発するいわゆる「攘夷事件」としてこの事件を扱っています。この手稿は公式の外交文書ではないと思われますが、記されている内容から見る限り、現場ないしは近隣に居合わせた人物が当時の状況をリアルにまとめたものであると思われることから、貴重な史料になりうるものではないかと思われます。