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「ガラシャの元侍女の霜が主人の最期をつづった覚書。忠興夫妻の孫光尚の諮問を受け、正保5年(1648)に提出されたものである。
文面は、忠興と石田三成の対立を知っていたガラシャが、西軍の人質提出要求が一番最初に細川屋敷へくると予測し、家臣に対応を協議させる場面からスタートする。当初、西軍は知人「ちゃうごん」を通じてガラシャに屋敷を出るように働きかけたが、慶長5年(1600)7月16日に「おもてむきのつかひ」を立て、ガラシャを人質に出さなければ「おしこミ候て取」と恫喝。これを受けて細川屋敷では、人質を出すことなく自害すると方針決定し、西軍が邸宅に迫ると、ガラシャは長男忠隆の妻千世を呼び、彼女がすでに退去したことを知ると、小笠原小斎の解釈で「御力なく」命を絶った。なお、侍女の霜と「をく」は、忠興と忠隆宛の手紙を託され、忠興に最期の様子を伝えるようガラシャから指示を受けた。2人が退去した時には屋敷は燃え、大勢の人が集まっていたが、西軍の軍勢はすでにいなかったという。
半世紀後の回顧録だけに記憶違いもあろうが、当事者が語ったガラシャ最期の様子として、たいへん貴重な証言。細川家において彼女が「神聖化」されていく根拠となり、明治24年(1891)に『史学会雑誌』23号で史料紹介された後は、近代におけるガラシャイメージの展開にも影響を与えた。」
(熊本県立美術館(編)『細川ガラシャ』細川ガラシャ展実行委員会、2018年、160,161ページより)