書籍目録

『1601年日本年報』

パシオ

『1601年日本年報』

(第2版) 1604年 ヴェネツィア刊

Pasio, Francesco.

LETTERA ANNVA DI GIAPPONE Scritta nel 1601. è mandata dal P. Francesco Pasio V. Prouinciali. Al M.R.P. Claudio Acuauiua Generale della Compagnia di Giesù.

Venetia(Venice), Gio. Battista Giotti, MDCIIII(1604). <AB202544>

Sold

(2nd ed.)

8vo (9.2 cm x 14.4 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-34, 36(i.e.35), 36-72, [73], 74-77, Later morocco brown leather.
やや後年のモロッコ革装丁で小口は三報とも箔押し。旧蔵者によるメモの貼り付けあり。[JL-1604-KB5]

Information

関ヶ原の戦い後の混乱する日本社会各地の状況、細川忠興によるガラシャの追悼式の様子などを詳述

 本書は、1601年9月30日付、長崎より発信されたパシオ(Francesco Pasio, 1554? - 1612)による書簡で、「1601年日本年報」とされているものです。関ヶ原の戦い後の多大な混乱の中にありながらも、イエズス会が情報収集と布教体制の立て直しを懸命に図ろうとする様子が克明に描かれており、結果的に当時の日本社会の状況を多面的に記した貴重な記録となっています。

 パシオはイタリア出身のイエズス会宣教師で、ヴァリニャーノのもとで会計係を務めるなどの要職を経て、本書執筆当時は準日本管区長を務めていました。1600年に起きた関ヶ原の戦いは、イエズス会にとってもその存亡に関わる大事件で、特に最大の庇護者であった小西行長が敗れた西軍の将として斬首されたことは同会に大きな衝撃を与えていました。本書には当時このような混乱の中にあったイエズス会が、最新の政治情報を入手しようと様々なネットワークを通じて働きかけていたことや、その結果得られていた当時の政治状況や各地の社会状況に関する貴重な情報が散りばめられた内容となっています。

 この書簡の前半(pp.3-21)で詳述されているのは、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、斬首された小西行長の所領、特に大村、有馬と天草の処遇をめぐって、寺沢広高と有馬晴信、大村喜前との間で生じた確執に関する出来事で、中でも家康によるキリシタンに対する不審と大村、有馬における聖堂破壊、ジョアン・ロドリゲス、オルガンティーノによる家康への働きかけ、ヴァリニャーノと寺沢との交渉などは、彼らの存続に直接関わる重大事だけに極めて詳細に報告されています。ここでの記述からは、イエズス会が大きな混乱の最中でも驚くほど正確な情報収集と政治交渉を行なっていたことを垣間見ることができると同時に、イエズス会の視点から見た当時の不安定な政治状況を知ることができます。

 これらの記述に続いては、通常の日本年報の形式に従ってイエズス会の拠点があった日本各地の状況が地域別に整理されて報告されています。具体的には、長崎のコレジオと教会関連施設の状況、肥後、佐賀、筑前、筑後、五島への布教(pp.21-39)、大村の修道院と司祭館(pp.40-44)、有馬の修道院と司祭館(pp.44-49)、大坂と京都の修道院(pp.49-68)、山口(と広島)、豊前の司祭館(pp.68-77)という項目に沿って記述されています。ここで展開されている記述はイエズス会関連施設と布教に関する出来事が中心ですが、それと合わせて各地の政治、社会状況も記されており、当時の日本各地の社会状況をこれらの記述から読み解くこともできます。

 特に興味深い記述としては、細川忠興による京都で細川ガラシャの葬儀、ならびに豊前での追悼式の実施に関する記述で、イエズス会にとって存在感の大きかった細川ガラシャが誉高きキリスト教徒として盛大に弔われたこと、しかもそれが異教徒である細川忠興による強い意向のもとで実施されたことが詳述されており、ガラシャ没後の彼女をめぐる社会状況を知るための重要な記述となっています。また彼女の葬儀、追悼式と合わせて、小西行長の追悼式も実施されたことも記されており、イエズス会が家康によるキリスト教に対する不信感の高まりに危機感を募らせながらも、このような儀式が盛大に行われていたこと、また多くの参列者があったことに驚かされます。それ以外にも、加賀の前田利長の下で滞在していた高山右近の動向など、本書には興味深い記述が散りばめられており、関ヶ原の戦い後の日本各地の社会状況を知るための貴重な史料となっています。

 本書は1604年にヴェネチアで刊行されたものですが、初版は1603年にローマで刊行されており、本書と同年にはマインツでラテン語にも翻訳されて刊行されています。このような本書の広がりによって、当時の日本の状況が克明にヨーロッパの読者に伝えられるとともに、細川ガラシャや高山右近のような著名な日本のキリシタンに関するイメージも広がっていったものと考えられます。なお、本書には後年のラテン語を底本とした邦訳(松田毅一(監訳)『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第I期第4巻』同胞舎出版、1988年所収)もあります。