書籍目録

『1596年日本年報補遺』

フロイス

『1596年日本年報補遺』

初版 1599年 ローマ刊

Frois, Luigi(Luis).

TRATTATO D’ALCVNI PRODIGII OCCORSI L’ANNO M.D.XCVI. NEL GIAPPONE. Mandato dal P. Luigi Frois, della Compagnia di Giesù. Tradotto in Italiano dal P. Francesco Mercati Romano della stessa Compagnia.

Roma, Luigi Zannetti, M.D.XCIX.(1599). <AB202543>

Sold

First ed.

8vo (9.7 cm x 14.6 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-88, Modern vellum, rebound.
近年に施されたと思われるヴェラム装丁。タイトルページ補修跡、本文に染みなどが見られるが判読に支障はなく概ね良好な状態。[JL-1599-KB7-239-142]

Information

文禄・慶長の役の最中に破綻した和平交渉や、慶長伏見、豊後大地震による甚大な被害を詳述

本書は、ルイス・フロイスによって執筆された1596年9月18日付、京都発書簡と、同年12月28日付、長崎発書簡の2書簡を1冊にまとめてイタリア語で刊行された日本年報で、1599年にローマにおいてザネッティ社から刊行されたものです。いわゆる「1596年日本年報補遺」として知られる作品で、『1596年日本年報』であるフロイスによる1596年12月13日付、長崎発書簡を補う重要な内容を多数含んでいます。

 本書の前半(pp.3-51)に収録されている1596年9月18日、京都発書簡は、文禄・慶長の役の最中で和平交渉に奔走していた小西行長等の尽力によって秀吉のもとに派遣されることになった明の施設等の動向とその背景についての解説から始められています。小西行長が奔走していた和平交渉はよく知られるように、明に対してはあたかも秀吉が服従の意を示したかのように繕い、秀吉に対してはその逆に民が服従の意を示したかのように繕うことでかろうじて実現したものでしたが、この9月所管の時点ではその矛盾はまだ顕在化しておらず、明が服従の意を示す使節を送ってきたものと理解した秀吉が、小西行長の功を大いに讃える一方で、その政敵である加藤清正を遠ざけたことが記されています。

 また、その使節の受け入れに際して、自らの権力がいかに強大なものかを誇示するために急いだ大坂城天守閣や千畳敷と呼ばれる広大な広間や能舞台のことが、その豪華絢爛さと共に詳細に報告されており、それと同時にその普請のために膨大な数の人々が動員されたことも記されています。フロイスは秀吉の権力や金銭欲などを終始批判的に記しつつも、彼による統治によって国内の治安状況が劇的に改善されたことや社会が安定化しつつあることも報告しており、その背景には武力による統一と同時に先述したような大規模な造営を相次いで行うことで有力諸侯の財力を削ぎ弱体化させてきたことを指摘しています。

 この書簡の後半では、執筆直前に発生した慶長伏見地震について記されており、その発生以前に見られた不吉な予兆(京都市中に降灰や白雨、大きな彗星があったこと)に続いて起きた大規模な地震によって生じた甚大な被害が報告されています。先述した大坂城の千畳敷や城郭の一部が倒壊したことや、それによって数百人の人命が失われたこと、近隣の寺院の多くが倒壊したこと、伏見や京都で多くの人命が失われると共に、三十三間堂や著名な方広寺の大仏が倒壊するなどの壊滅的な被害があったことを、同地にいた司祭や関係者からの報告によりながら記されていて、この地震による被害がいかに甚大であったのかを生々しく知ることができる内容となっています。また尼崎や、兵庫、淡路、長門といった西日本各地の地震による影響も記されていて、この地震による被害が広範囲に及んでいたことも知ることができます。

 本書の後半(pp.52-87)でもこの地震の被害についての報告がさらに詳述されていて、堺や長崎における状況が論じられています。また、この地震の前日に生じた慶長豊後地震についても報告されており、この地震によって引き起こされた津波による被害が極めて具体的に報告されています。この書簡の後半では、先述の和平交渉が失敗に終わり、明からの使節が秀吉の怒りと侮辱を持って追い返されたことや、それまで絶賛されていた小西行長が一転して激烈な叱責を受け、対照的に加藤清正が寵愛を取り戻したことなどが記されており、目まぐるしく変化する政治状況が臨場感を持って報告されています。キリシタンにとって最大の庇護社であった小西行長をめぐる政治状況は、イエズス会にとっても最大の関心事でしたが、フロイスはこの一件がかえって小西行長が信仰を深める契機になったのではないかとし、また朝鮮での戦争が続行されることによって結果的に転封などの処罰が行われなかったため、キリシタンにとっては大きな災厄をもたらさなかったとして、楽観的に状況を分析して書簡を締め括っています。

 本書は、冒頭で述べたように、同年に刊行された『1596年日本年報』(Lettera annua del Giappone dell’anno M.D.XCVI. scritta dal P. Luigi Frois, …Roma, 1599)を補足するものですが、その分量は90ページ迫るという少なくない分量で、フロイスによる饒舌さを差し引いたとしても、この時期の日本社会を取り巻く状況の変化がいかに激しかったのかを物語っています。本書にフロイスは自身の見聞だけでなく、各地の司祭や日本の関係者かも情報を収集しており、(もちろん批判的な検証が必要なことは言うまでもありませんが)驚くほど詳細で多彩な記述を残しています。このような詳細な記述がわずか数年の間にローマにもたらされていただけでなく、公刊されることで当時のヨーロッパの読者に知らされていたことには改めて驚かされます。

 なお、本書は当時ローマでイエズス会関係書を数多く刊行していたザネッティ社から刊行された初版ですが、同年にパドヴァ版(1599年)などの異版が刊行されており、また後年にはラテン語訳などの翻訳版も刊行されており、その内容が広く長くヨーロッパで伝えられたこともわかっています。また、後年のラテン語を底本とした邦訳(松田毅一(監訳)『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第I期第2巻』同胞舎出版、1987年所収)もあります。

「内容は、1596年度のイエズス会日本年報(フロイス執筆、1596年12月3日付、長崎発信。ARSI, Jp.Sin. 46, ff.274-297v; Jap. Sin. 52, ff.179-230v)を補う書簡である。フロイスが執筆し、1596年12月28日付で長崎から総長に宛てている(ポルトガル語原文は、ARSI, Jap.Sin. 46, ff.298-317v、スペイン語原文は、Jap.Sin. 52, ff.231-250v)。まず、1596年9月18日付、ミヤコ発信の書簡を収録し、「堺について」と「豊後について」の項目を立てている。9月18日付の書簡で、日本の政情一般について述べる。関白秀次殺害後の状況、ついで、2年以上も紛糾を重ねていたシナ王国の太閤への使節派遣問題が小西行長の尽力で解決を見、その結果、使節一行の随員である遊撃沈惟敬が来日したこととその饗応の模様、大坂城および伏見城の造営のこと、太閤が徳川家康らに子息秀頼への奉公と忠誠を誓約させたこと、秀頼が入洛、参内して叙爵されたこと、などを伝えている。「堺について」では、9月4日の地震の模様と、同地に滞在していた有馬晴信や、同地の最古参のキリシタン日々屋了珪の消息を、「豊後について」では、豊後で起こった地震と津波の様子と、イエズス会の宣教が始まって40年以上を経過する府内や、高田、湯布院の状況を伝える。堺と豊後での地震のほか、7月22日、ミヤコとその周辺に細かな灰が多量に降った、など日本全土に起こった不思議な兆候をいくつか伝えている。
 なお、この書簡は、イタリア語訳された本書のほかに、ラテン語訳されてIonne Hayo, Antverpiae, 1605(ジョン・ヘイの『イエズス会書簡集』)にも納められている。」
(高祖 敏明『ラウレスキリシタン文庫データベース』中の本書ミラノ版(JL-1599-KB8)解説文より)
(https://digital-archives.sophia.ac.jp/laures-kirishitan-bunko/view/kirishitan_bunko/JL-1599-KB8)