書籍目録

『死の接吻』

フロウハ / アダメク

『死の接吻』

第4版 1933年 プラハ刊

Hloucha, Joe / Adámek, Rudolf.

Polibky smrti.

V Praze (Prague), Zemědělské knihkupectví, 1933. <AB2024205>

Sold

4th ed.

18.0 cm x 24.8 cm, pp,[1-2(blank), 3(Half Title.)-5(Title.)-10], 11-174, 1 leaf, colored plates: [10], Original pictorial cloth.
一部の用紙にしみが見られるが、概ね良好な状態。

Information

ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちくださいませ。

「アンナ・ブラッシーやヨーゼフ・アレクサンダー・ヒューブナー伯爵などの旅行記に魅了されたフロウハは、早くから海外の土地や文化に関心を持つようになり、大叔父ヨゼフ・コシェンスキーの『世界周遊の旅』(1896年)を読んだ後はとくに日本に惹かれるようになる。まだ10代後半の頃に日本美術のコレクションをはじめ、手あたり次第日本関連の本を読み、コジェンスキーや旅行家エミル・ホルプ、エンリケ・スタンコ・ヴラース、ヴォイチェフ・ナープルステクのボヘミア工業博物館を訪問し、ナープルステクのコレクションの清掃と分類を手伝う。また日本語を学び、馬の繁殖を研究するためにボヘミアに派遣された日本人将校ナンブエイタロウ男爵との会話などで語学力を磨く。彼の処女作『嵐の桜』(1905年)の成功により、1906年、初の日本旅行のための資金を獲得。自動車製造会社ラウリン&クレメント社の代理人であり日本美術のコレクターだったカレル・ヤン・ホラの助言を得ながら東京と京都に滞在し、横須賀、大阪、奈良を訪問、富士山に登頂した最初のチェコ人となる。短期間ではあるが、日本人女性を囲い、その理由についてピエール・ロチ著『お菊さん』に触発されたため、また、日本文化研究を深めるためだったと後に説明している。1908年、プラハのチェコ商工会議所によって開催された皇帝フランツ・ヨーゼフ1世治世60周年記念展では、日本式喫茶室を設け、一年後にはプラハノルツェルナ宮殿に喫茶室「ヨコハマ」を開店、第一次世界大戦まで続いた。フロウハはコレクションを充実させ続け、1923年、プラハ北部ロストキに日本式に装飾されたサクラ邸を建設。1926年、2度目の日本旅行に出て、上海、香港にも寄港し、日本では神戸、広島、横浜、東京を訪れた。帰国後、展覧会を開催し、中国、シャム、ビルマ、チベット、トンキン、ペルシア、アフリカ、オセアニアの美術作品などのコレクションの一部を売却。(中略)その後もフロウハは講演を行い、日本を舞台にした小説や日本文化研究書を執筆し続ける。国立美術館およびナープルステク博物館に協力し、1955年にチェコスロヴァキア政府に8700点を超えるコレクションを売却する。晩年を自身のコレクションの目録作成に費やし、プラハにて没。」
(ジャン=ガスパール・パーレニーチェク「ジョー・フロウハ」西山純子ほか(編)『ミュシャと日本、日本とオルリク』国書刊行会、2019年、304ページより)