書籍目録

『嵐の中のサクラ』

フロウハ / 梶原緋佐子

『嵐の中のサクラ』

第8版 1932年 プラハ刊

Hloucha, Joe / Kadzivrary, Hisako.

Sakura ve vichřici : útržek deníku z cesty po Japonsku.

V Praze (Prague), Zemědělské knihkupectví, 1932. <AB2024204>

Sold

8th ed.

17.5 cm x 24.7 cm, pp.[1-2(blank), 3(Half Title.)-6(Front.), 7(Title.), 8], 9-177, [178], 1 plate leaf(portrait of Kajiwara),1 leaf, colored plates: [10], Original pictorial cloth with an original dust jacket.
紙表紙の余白部に破れが見られるが、全体として非常に良好な状態。[NCID: BB13986543]

Information

プラハと京都という遠く離れた地の2人のアーティストによる稀有なコラボレーション作品

 本書は、1906年に初めて来日して以来、幾度も日本に滞在して滞在期や日本を題材にした小説、御伽噺の翻訳など、日本関係書をチェコ語で積極的に刊行し続けたフロウハ(Joe Hloucha, 1881 - 1957)が、来日前に手がけた最初の日本を題材にした小説です。1905年に初版が刊行されて以降、ベストセラーとして何度も再版されていて、本書は1932年に刊行されたもので、京都出身の絵師梶原緋佐子が手がけたカラー挿絵が表紙や本文中に多数収録されているという、プラハと京都の2人のアーティストによるコラボレーション作品となっている大変興味深い一冊です。

 フロウハについては、今では知る人も多くありませんが、佐藤雪野「チェコの日本びいきフロウハと日本のおとぎ話」(東北大学大学院『国際文化研究論集』第26号所収論文)において、彼の生い立ちや著作について紹介されており大変参考になります。同論文によると、チェコは醸造職人の父のもとで生まれ、世界旅行を行った叔父の影響で、学生時代から日本に対する憧れを抱き、1906年に初来日を果たして以来、何度も日本に滞在しながら、日本を題材とした著作とチェコ語で次々と刊行して、20世紀前半のチェコ語圏内における日本紹介に多大な貢献をなしました。日本美術や書物のコレクション構築にも努め、後年に売却されることになったもののプラハに日本風の邸宅まで建てており、当時のチェコを代表する「日本びいき」であったと言える人物です。

 本書は、彼がまだ来日していない1905年に、あたかも実際に日本に滞在したかのような形式で執筆された小説で、当時のフロウハの日本に対する憧れが結実したような作品となっています。来日前の作品であるにも関わらず、彼の作品の中でも最も人気を博したようで、初版刊行から30年以上にわたって再版され続けるベストセラーとなりました。

「(前略)フロウハの「日本もの」作品のうちの小説は、私小説的で、自身の日本での体験を題材に小説として描かれている。一番普及した処女作『嵐の中のサクラ』は、日本旅行の日記の体裁をとっており、途中の版から日本画家梶原緋佐子(1896-1988)の絵が入るようになった。」(前掲論文58ページ)

 フロウハは、「保呂宇波」という印象を製作して著作のタイトルページにあつらえるほどの日本びいきでしたが、日本の画家たちとの交流もあったようで上掲文でも言及されているように、本書では京都画壇で活躍した絵師である梶原緋佐子が表紙から見返し、本文中の挿絵全てを担当しています。いずれも彩色が施された非常に美しい挿絵ばかりで、フロウハと梶原とが綿密な打ち合わせの上で本書の構成を練り上げたことや、そうした共同作業を行うだけの信頼関係があったことがうかがえます。梶原緋佐子については、下記のように京都画壇史において一定の評価を受けている絵師ではありますが、チェコという京都から遠く離れた地において彼女の作品がベストセラー小説の挿絵として親しまれていたということについては、これまであまり知られていないのではないでしょうか。

「梶原緋佐子 1896-1988
 京都の裕福な造り酒屋に生まれた緋佐子は、明治42年(1909)に京都府立第二高等女学校へ入学し、同校の図画教師を務めていた日本画家千種掃雲に指導を受ける。大正3年(1914)に同校を卒業し、菊池契月塾に入り研鑽を積んだのち、大正7年(1918)には第一回国展に《暮れゆく停留所》と《昼すぎ》を出品し、前者が選外佳作として展示された。翌年の第二回国展には《酔ひ》を、次の第三回国展にも《活動写真の午後》を出品しているが、落選したとみられる。国展には他にも契月塾の女性画家が出品しているが、緋佐子は陳列を果たした唯一の女性として注目される。大正期には、社会の片隅で生きる女性たちの姿を生々しいまでに描写した作品を多数残している。当時、「緋佐子によって京都の閏秀画家は漸く一人の小さきレアリストを得たるが如し」とも評された(『新京都』9-2)。
 第三回以後国展への出品は確認されず、大正9年(1920)の第二回帝展に初入選したのちは、戦後まで官展を中心に出品を続けた。昭和に入ると作風を転換させ、主に両家の女性を描いた。」
(藤本真名美「梶原緋佐子」植田彩芳子ほか『近代京都日本画史』求龍堂、2021年、148ページ)

 本書の最後には梶原のポートレートが特別に収録されていて、第8版とされている本書において彼女の絵が加えられることになった旨が明記されており、フロウハが彼女に対して多大な尊敬の念を持っていたことがうかがえます。フロウハと梶原がどのような縁で出会い、どのようなきっかけで本書を共同で作成することになったのかについては(少なくとも店主には)不明ですが、その解明もまた大変興味深いテーマであると言えるでしょう。

 本書は京都とプラハのアーティストによる稀有なコラボレーション作品と言えるもので、プラハにおける日本ブーム(ジャポニスム)が、パリなどとは異なるユニークな展開を見せていたことを示唆する大変興味深い作品です。梶原が手がけた美しいクロス装丁と、破れて欠損してしまうことが多い紙カバーも保持している本書は、大変貴重な一冊と言えるでしょう。


「アンナ・ブラッシーやヨーゼフ・アレクサンダー・ヒューブナー伯爵などの旅行記に魅了されたフロウハは、早くから海外の土地や文化に関心を持つようになり、大叔父ヨゼフ・コシェンスキーの『世界周遊の旅』(1896年)を読んだ後はとくに日本に惹かれるようになる。まだ10代後半の頃に日本美術のコレクションをはじめ、手あたり次第日本関連の本を読み、コジェンスキーや旅行家エミル・ホルプ、エンリケ・スタンコ・ヴラース、ヴォイチェフ・ナープルステクのボヘミア工業博物館を訪問し、ナープルステクのコレクションの清掃と分類を手伝う。また日本語を学び、馬の繁殖を研究するためにボヘミアに派遣された日本人将校ナンブエイタロウ男爵との会話などで語学力を磨く。彼の処女作『嵐の桜』(1905年)の成功により、1906年、初の日本旅行のための資金を獲得。自動車製造会社ラウリン&クレメント社の代理人であり日本美術のコレクターだったカレル・ヤン・ホラの助言を得ながら東京と京都に滞在し、横須賀、大阪、奈良を訪問、富士山に登頂した最初のチェコ人となる。短期間ではあるが、日本人女性を囲い、その理由についてピエール・ロチ著『お菊さん』に触発されたため、また、日本文化研究を深めるためだったと後に説明している。1908年、プラハのチェコ商工会議所によって開催された皇帝フランツ・ヨーゼフ1世治世60周年記念展では、日本式喫茶室を設け、一年後にはプラハノルツェルナ宮殿に喫茶室「ヨコハマ」を開店、第一次世界大戦まで続いた。フロウハはコレクションを充実させ続け、1923年、プラハ北部ロストキに日本式に装飾されたサクラ邸を建設。1926年、2度目の日本旅行に出て、上海、香港にも寄港し、日本では神戸、広島、横浜、東京を訪れた。帰国後、展覧会を開催し、中国、シャム、ビルマ、チベット、トンキン、ペルシア、アフリカ、オセアニアの美術作品などのコレクションの一部を売却。(中略)その後もフロウハは講演を行い、日本を舞台にした小説や日本文化研究書を執筆し続ける。国立美術館およびナープルステク博物館に協力し、1955年にチェコスロヴァキア政府に8700点を超えるコレクションを売却する。晩年を自身のコレクションの目録作成に費やし、プラハにて没。」
(ジャン=ガスパール・パーレニーチェク「ジョー・フロウハ」西山純子ほか(編)『ミュシャと日本、日本とオルリク』国書刊行会、2019年、304ページより)