書籍目録

「中華王国とその保護領域(満州人とモンゴル人の領地、東トルキスタンとチベット)ならびに日本帝国地図」

ヴァイランド / キーペルト / ワイマール地理局

「中華王国とその保護領域(満州人とモンゴル人の領地、東トルキスタンとチベット)ならびに日本帝国地図」

(『一般地図帳』からの抜粋) 1855年? ワイマール刊

Weiland, Carl Ferdinand / Kiepert, Heinrich.

Das CHINESISCHE REICH mit seinen SCHUTZSTAATEN (den Ländern der MANDSCHU und MONGOLEN OST TURKISTAN und TÜBET) und das KAISERTUM JAPAN.

Weimar, Verlag des geograph(isches): Instituts, c1855?. <AB2024140>

Reserved

(Extracted from Allgemeiner Hand-Atlas)

55.0 cm x 69.4 cm, 1 colored map,

Information

当時のドイツ語圏で製作された地図に特有の明確な彩色と凡例を備えた東アジア図

 本図は1855年頃に製作されたと推定される中国と日本を中心に描いた東アジア地図で、優れた彩色図版出版で知られていたワイマール地理局から出版されたものです。19世紀前半からドイツ語圏で製作された地図に特徴的な、各国、地域の領域を明確に色彩によって塗り分け、その凡例を明記されており、当時のワイマール、並びにドイツ語圏における同地域の地理認識を知ることができる地図となっています。

 ワイマールの公国産業社(Landes Industrie Comptoir)は、18世紀後半から19世紀初めにかけて同国の文化、文芸、出版等の様々な分野において活躍し、多くの教育機関や出版社、産業機関を設立したことで知られるベルトゥーフ(Friedrich Justin Bertuch, 1747 - 1822)によって1791年に設立された会社で、ワイマールにおける技芸と出版産業の保護、発展を目的として多くの職人や画家、地図製作者を雇用して様々な出版物を製作、刊行していました。1804年には、地理学研究と地図製作、出版を専門的に担う部署として地理局(Weimar geographisches Institut)を発足させ、地球儀や地図帳、個別地域図などを精力的に製作、販売し、ドイツ語圏における地図出版社として屈指の勢力と高い評価を獲得しました。

「1791年にフリードリヒ・ユスティーン・ベルトゥーフがヴァイマルに設立した公国産業社(Landes-Industrie-Comptoir)は、当初から出版業に重点をおいていたが、1800年頃以降は、紙や絵具の製造や活字の鋳造から、書籍の印刷、図版の描画や版画の作成と彩色、製本、配送など、出版にかかわるあらゆる仕事を一箇所に集約し、多様な分野の書籍や雑誌を刊行する出版社として成功をおさめた。また、1804年には地図や地理学関係の書籍や定期刊行物の出版を専門とする地理局(Geographisches Institut)が一般の書籍部門から分離するかたちで設立され、19世紀前半にはこの学問分野の主要な出版社のひとつとなった。
 図像というメディアの力を重視していたベルトゥーフがひきいる公国産業社の出版物は、挿絵や図版を豊富にそなえていることを特徴とし、それらは彩色されていることもすくなくなかった。(中略)そして、地理局から刊行された地図も、しばしば彩色をほどこされていた。
 そして、それらの図版や地図の彩色をおこなうために、公国産業社には印刷所や彫版工房、版画印刷工房などのほかに彩色工房も設けられていた。彩色工房における仕事の進行状況はつねにベルトゥーフに報告され、工房の責任者は彩色職人を厳しく監督し、秩序を保つように指示されていたように、前章で見たシュミットの著書で述べられていたとおり、規律や効率が追求されていたと考えられる。また、1802年に公国産業社の地図の製作体制の構想として書かれた文書では、「彩色指示書の作成者」、「彩色者」、「彩色点検者」という三段階の担当者が設定されていることから、厳格な品質管理体制の整備が計画されていたこともうかがえる。」
(濱中春「科学と工芸:ゲーテ『色彩論』の図版の彩色」法政大学社会学部学会『社会志林』第69巻第1号、2022年所収論文、24ページより)

 ワイマール地理局で製作された本図が出版されたのは、上記引用文で言及されている19世紀初頭の状況から半世紀ほど後のベルトゥーフ没後のことですので、必ずしも同様の状況であったとは一概には言えませんが、同局における地図出版が本図のように鮮やかに、そして明確な意図を持って彩色されているのは、こうした伝統を踏まえてのことであったということは間違いありません。19世紀に欧米各国で製作された様々な地図には、銅版画で印刷された上で手彩色が施されていることが多いですが、彩色のあり方については必ずしも明確な意図と正確性が重視されていないことが多く、同じ地図でも塗り分けが大きく異なっていることも珍しくありません。それに対して、本図をはじめとしてドイツ語圏で製作された地図には、本図に見られるような具体的な凡例を備えた上で、地図製作者の明確な意図を反映した塗り分けがなされていることが多いことから、当時の地理認識のありようを理解する手助けとしても活用する地図となっています。(とは言え、必ずしも彩色の品質管理が徹底されていなかったことや、その困難については上記引用論文で詳細に論じられています。またゲーテ『色彩論』とワイマール公国産業社との密接な関わりといった非常に興味深い指摘がなされており、19世紀の彩色図版製作と出版の背景事情を理解する上で非常に参考になります。)。

 本図はワイマール地理局が手がけていた大型の地図帳(Allgemeiner Hand-Atlas. 名称は版によって微妙に異なる、後述)に収録されていたと思われるもので、同局の地図製作において中心的な役割を果たしていたヴァイランド(Carl Ferdinand Weiland, 1782 - 1847)が製作し、当時のドイツ語圏における地理学者、地図製作者として最も権威ある人物の1人であったキーペルト(Heinrich Kiepert, 1818 - 1899)が校閲、監修をしたことが明記されています。ワイマール地理局が手がけた地図帳は、同時代のドイツ語圏を代表するシュティーラー社の地図帳と並んで高い評価と人気を得ており、しかもシュティーラーの地図帳と比べて2倍近くの大きさを誇った当時最も影響力のあった地図帳の一つに数えられています。この地図帳は版ごとにタイトルが微妙に異なっており、またその版の変遷も非常に複雑であることから、本図が収録されていた版を特定することは容易ではありませんが、1855年に刊行された第41版(Allgemeiner Hand-Atlas der ganen Erde)の第49図として収録されていた地図ではないと思われます。1860年に刊行された第42版(Hand-Atlas der Erder und des Himmels)では本図は採用されておらず、本図とは異なる範囲を描いた日本を含む東南アジア図が収録されていることから、少なくとも1860年以降の地図ではないことは確かです。(第41版と第42版の収録図の比較については、Atlassenという19世紀以降の様々な地図帳の書誌情報を詳細に紹介している次のウェブサイトが参考になります。https://atlassen.net/atlassen/geog_inst/allha42/allha42v.html#azie)