書籍目録

「日本:千島列島、日本からカムチャッカ半島まで:クルーゼンシュテルン、シーボルト、ブロートン、ロシア製海図による」(2405海図)

英国海軍水路部 / 高橋景保(伊能忠敬)

「日本:千島列島、日本からカムチャッカ半島まで:クルーゼンシュテルン、シーボルト、ブロートン、ロシア製海図による」(2405海図)

1855年12月30日刊行、1859年、1862年10月、1863年12月、1864年6月改訂 1864年 ロンドン刊

British Admiralty (Hydrographic Office) / Takahashi, Sakusaimon(Kageyasu)(Ino, Tadataka)

JAPAN. THE KURIL ISLANDS FROM NIPON TO KAMCHATKA FROM KRUSENSTERN, SIEBOLD, BROUGHTON AND THE RUSSIAN CHARTS…

London, (Sold by) J.D. Potter (Agent for the Admiralty Charts), 1864. <AB2024127>

Reserved

(Published according to Act of Parliament at the Hydrographic Office of the Admiralty Dec. 30th 1855. Corrections 1859. June 1862. Dec. 1863 June 1864)

67.0 cm x 122.5 cm, 1 rolling chart, Contemporary linen-backed.

Information

シーボルトを経由した伊能図を一部に採用した日本北方海図の新出版

 本図は英国海軍水路部によって作成された、日本沿海を対象とした海図(航洋図)を代表するものの一つで、2405号海図と呼ばれているものです。副題に記されているように、現在の北海道、千島列島、樺太、沿海州を対象とした海図で、シーボルトをはじめとした同域についての地図を製作したり、実際に航海を行った主要人物らによる情報をもとに作成されています。また、高橋景保からシーボルトが提供を受けた伊能図もその情報源の一つとなっています。

 幕末期から明治初期にかけて日本に来航した諸外国にとって、日本沿海の水路情報を正確に把握することは、極めて喫緊の課題でした。ペリー来航以前の19世紀はじめから既に複数の外国船が日本近海を航海し部分的な測量を始めていましたが、1858(安政5)年の条約締結以後は、開港の決まった長崎と横浜への安全な航路を把握するために、イギリスを中心とした列強諸国が本格的な日本沿海の測量の必要性を幕府に求めていきます。本図が対象としている区域は、17世紀から西洋人による測量が行われていたにもかかわらず、長らくその正確な地理情報が不足しており、世界中の地理情報をくまなく収集し続けた西洋世界における「最後の空白地」を代表する区域となっていました。さらに、クリミア戦争においてロシアと交戦し、その南下政策に極めて敏感になっていたイギリスにとって、この地域の正確な地理情報を得ることは喫緊の課題でもあり、この地域に特別な関心が寄せられていました。

 英国海軍水路部作成の海図には、その対象地域ごとに番号が振られており、この図は「2405号」と呼ばれるものです。この2405号海図は、遠洋航海時に用いられる広範な区域を対象とした「航洋図」と呼ばれる海図で、これと並んで英国海軍水路部がほぼ同時期に作成した日本近海の航洋図として、本州、四国、九州、朝鮮半島を対象とした「日本:本州・九州・四国・朝鮮海岸の一部に関する予備的海図」(2347号海図)があります。当時の世界における水路科学、実務分野で最も秀でていた英国海軍水路部が作成した海図は、欧米各国で製作される海図の手本として翻訳されて広く用いられましたので、その意味ではこの2405号海図と2347号海図は、幕末から明治初期にかけて欧米諸国の船舶が日本沿海を航海する際に、必携となる最重要の航洋図として広範な影響力を有したということが言えます。また、明治初期以降、明治政府が自身による海図作成を進めていく際にも、自国沿海の最も優れた海図として大いに参照されることにもなりました。

「海図2405 ‘The Kuril Islands’は北海道、サハリン南部、千島列島、カムチャッカ半島南端及び沿海州を包含する海図である。切り出し部を除いた図郭は、左下北緯40度40分、東経133度00分右上北緯51度56分東経158度00分、縮尺は1:2,000,000(北緯50度)である。図の左下に東経128度までの切り出し部がある。沿海州ではカストリーズ湾、ビクトリア湾、日本列島では函館が区域内にあり、カムチャッカ半島のハバロフスキーカムチャッキーの直ぐ南までである。ビクトリア湾の部分は切り出し部となっている。1862年改正の海図には、カストリーズ湾口の灯台が表示され、黄色の縁と中心の赤点の彩色がされている。」
(菊池眞一「幕末から明治初年にかけての日本近海英国海図:日本水路部創設前の海図史」『海洋情報部研究報告』第43号、2007年所収論文、11ページより)

 この2405海図は1864年6月改訂という表記を有するものですが、その原版となっているのは1855年に刊行されたもので、基本的にこの1855年版に採用された海岸線を踏襲しつつ、細かな改訂が施されています。同時代に刊行された2347号海図と比べると、明らかに北海道の海岸線が不正確となっていますが、これは当時はまだ欧米諸国による正確な測量がなされていなかったことを反映しています。北海道や樺太描いた地図としては、1852年にシーボルトが主著『NIPPON』の付図として刊行した地図が、それまでの西洋製地図を刷新する画期的な地図を公刊していましたが、その知見は本図にておいて一部にしか採用されていません。シーボルトは高橋景保から譲り受けた、最上徳内による測量調査を反映させた伊能図を原図として、自身の「蝦夷と日本領地千島図(Die Insel Jezo und die Japanischen Kurlien.)を刊行し、この図は西洋で刊行された同地域を描いた地図として最も正確なものでした。

「シーボルトが、研究成果をまとめた著書『日本』に収録されている「蝦夷」の地図。この地図は、衛生写真のような正確な描写が特徴的である。原図は「伊能図」の写しであるが、シーボルトはこの原図が「伊能図」であることを知らずに高橋作衛門(後の景保)の名前を記載した。右下には、副図として津軽海峡と厚岸湾の拡大図が記載されている。この2つの副図に関しては、北方探検家、最上徳内が原図提供者であることが地図上の名前から見てとれる。徳内はシーボルトに「樺太」の地図を貸したり、江戸参府の際に小田原まで見送ったりと特に親しくしていた。」
(ゼンリンミュージアム『地図に描かれた日本の歴史』2020年、64ページより)

 このシーボルトによる「蝦夷図」と比べると本図における北海道の海岸線は著しく正確性を欠いていますが、これには当時の英国海軍水路部における海図作成の厳格な手続きが災いしたことが指摘されています。1829年から55年にかけて英国海軍水路部長を務め、胴部における海図作成と水路学の基礎を確立させたボーフォート(Francis Beaufort, 1774 - 1857)は、海図製作にあたって極めて高い正確性を要求し、実際の測量成果の綿密な検討を経ない限り、公式の海図として出版しないという手続きを定めていました。このボーフォートによる厳格な手続き設定は、英国海軍水路部による海図の正確性を飛躍的に高めることに成功した一方で、西洋諸国による実際の測量情報が存在しない区域についての海図製作に遅れが生じることにもなりました。この方針のもとでは、シーボルトよりも、自ら測量を行い、しかも当時のヨーロッパにおいて水路学者として高名であったクルーゼンシュテルンの方が信頼性が高い情報源であるとみなされ、それが故に北海道の海岸線はシーボルトによる最新で正確な地図ではなく、ひと世代前のものと言えるクルーゼンシュテルンによる地図が採用されることとなってしまったようです(この間の事情についても前掲菊池論文を参照)。

「北海道の海岸線は、寿都以北の日本海沿岸及びオホーツク海沿岸がクルーゼンシュテルンの地図によるもので現実の海岸線と大きく異なっている。一方、寿都以南の日本海及び釧路以西の太平洋岸は海岸線が現代の地図とよく一致し、水深を記載している箇所もある。海岸線が正確な区間は水系も内陸部まで正確に描画されていることから、シーボルトの地図を使用しているものと推定される。
 また、表題記事の末尾にT.S. Takahasi Sakusaimon 1826 Astronomr Yedo.の記載がある。」
「海図2405の北海道東岸及び南岸の正確な海岸線が描画されている部分は、ブロートンや米国海岸が測量した海域である。ブロートンの測量成果はスケッチ測量のレベルであり、米国海軍による測量期間から見て、海図の海岸線をシーボルトの地図を参考にしたものと考える。海図2405の記事はシーボルトの地図を採用した区域を特定していないが、北海道のこの海域がそれに含まれる可能性が高い。
(中略)日本政府の精度の高い地図を入手できるまでは、欧米諸国海軍の水路測量による検証を条件としてシーボルトの地図を海図に採用したものと考える。ボーフォートによって測量資料により海図を編集するやり方が確立していたので、シーボルトが収集した地図を直ちに採用することができなかったと考える。」
「海図2347 Japan(1863年5月改版)は伊能図を採用した海図として広く知られている。一方、海図2405 The Kuril Islandsがシーボルトの地図、すなわち、日本人測量家が作成した地図を採用した海図であることは従来の研究において重視されていなかった。しかし、英国海図2347及び2405において外国測量艦の測量成果と比較して正確さを確認できた海域に限って日本人測量かの作成した地図が採用されていたことを示すことができた。」
(前掲論文、10、13、14ページより)

 上記で言われているようにこの2405号海図は、もう一つの日本沿海の航洋図である2347号海図と並んで、当時の西洋社会で最も強い影響力を持った海図として知られていますが、その情報源の一部にシーボルトを経由した伊能図が採用されていたことについて改めて注目が集まっています。その一方で、2405海図や2347号海図は、国内は言うに及ばず国外の主要な研究機関においてもその所蔵が極めて限られているが故に、その改訂や変遷についてはこれまでほとんど知られることがなく、同時代の毛利家による収集品である山口県文書館毛利家文庫所蔵図がほとんど唯一の現存図として研究や展示等において用いられてきました。本図は、前掲菊池論文でも2405号海図について1862年の改訂以降の変遷については不明とされている空白期に該当する「1855年12月30日刊行、1859年、1862年10月、1863年12月、1864年6月改訂」とされているもので、これまで研究されたことがない新出版ではないかと思われます。

「海図幕末期に刊行された日本近海の小縮尺英国海図はTable4に掲げる海図5図である(①航洋図2405号:The Kuril Islands. [1 : 2,00,000] / ②航洋図2347号:Japan. [1 : 1,800,000] / ③航洋図2412号:Islands Between Formosa and Japan. [1 : 1,540,000 / ④航海図2875:Seto Uchi or Inland Sea. [1 : 447,000] / ⑤航海図358号:The Western Coast of Kiusiu and Nipon including Tsuchima. [1 : 536,000] のこと:引用者)。国内でこれらの海図所在を調査したが、19世紀の地図は古地図収集の対象とされておらず、その数は極めて乏しい。国内所蔵海図では山口県文書館所蔵のものが最も早い刊行時期のものと考える。それ以外に確認できたのは、海図2347(1876年改版、92年まで改正:東京大学総合図書館所蔵)だけであった。」(菊池前掲論文、7ページより)

 本図は裏面が厚手のリネンによって裏打ちされており大きな破れや欠損もなく良好な状態を保持しています。リネンによる裏打ちは当時の海図に多くみられた措置で、航海における実用面での耐久性を高めるためになされたものと思われます。

 なお、本図は別掲の2347号海図と共に同じ所有者から入手したもので、両者は同じリネンを用いた仕立てがなされていることから、2枚とも同じ当時の航海者が用いていたものではないかと推測されます。