書籍目録

『東洋汽船月報:東洋汽船会社客室部との提携による、東洋への旅と発展についての月刊誌』

東洋汽船会社 / [キング・スティール]

『東洋汽船月報:東洋汽船会社客室部との提携による、東洋への旅と発展についての月刊誌』

1914年6月号(第3巻第2号) 1914年 サンフランシスコ / 東京刊

Toyo Kisen Kaisha / [King Steele, James] (eds.).

T.K.K. Topics: Published Monthly in Connection with the PASSENGER DEPARTMENT of the TOYO KISEN KAISHA (ORIENTAL S.S.CO.)

San Francisco / Tokyo, Our Navy Pub. Co, 1914. <AB2024125>

Reserved

June, 1914(Vol.III, No.2)

17.5 cm x 25.5 cm, pp.1-64, Original pictorial paper wrappers.
表紙の一部に傷みが見られるが、概ね良好な状態。

Information

東洋汽船が刊行していた英文雑誌の貴重な最初期号

 本書は、東洋汽船が発行し英文月刊雑誌で、後年に日本郵船に吸収合併されてからも1930年代まで刊行が続いたことが知られる雑誌のかなり早い時期の号に当たるものです。タイトルにある「T.K.K.」とはToyo Kisen Kaisha(東洋汽船会社)のことで、副題に「A monthly magazine of Oriental travel and development published in connection with the passenger department of the Toyo Kisen Kaisha」(東洋汽船会社客室部との提携による東洋への旅と発展についての月刊雑誌)とあるように、東洋汽船が毎月発行していたと思われるもので、1914年6月号である本書は、第3巻第2号(Vol. 3 No.2)となっています。

 この英文雑誌を発行した東洋汽船は、明治から昭和にかけて日本の旅客業界の中心の一角を担っていた海運会社です。現在の商船三井である大阪商船と日本郵船と並ぶ国際海運会社として大型客船や太平洋航路の運営などを行い、積極的な経営方針と海外旅客の誘致に熱心であったことで知られ、創業者である浅野総一郎は、紫雲閣と名付けた自身の邸宅に海外からの主要な旅客を招いて宴会を催したりもしています。浅野総一郎は、ジャパン・ツーリスト・ビューローの活動にも尽力し「亡くなられる迄殆んど欠かさずビューローの総会に出席され、われわれを大いに激励された」とビューロー25周年回顧録に記されているほどです(山中忠雄『回顧録』ジャパン・ツーリスト・ビューロー、1937年)。残念ながら東洋汽船の旅客部門は、1926年に日本郵船へと売却されてしまいますが、本誌は全く同じ体制と頻度で刊行を継続しています。


 本誌は英文で発行された日本観光関連雑誌としては極めて早い時期のもので、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立以前の1910年に創刊された旨が記された号も存在しますが、正確な創刊時期は明らかではありません。1917年6月号として刊行された号は、「旧シリーズ」(Old Series)の「第6巻第2号」(Vol.VI, No. II)、「新シリーズ」(New Series)の「第1巻第1号」(Vol.I, No.I)とされていることから、この号がリニューアル創刊号であることがわかります。この号が「旧シリーズ」の第6巻とされていることに鑑みると、実際の創刊時期は1912年頃ではないかと推測されます.これらの情報から類推すると、東洋汽船による英文月刊誌の最初期の変遷は下記の通りになるのではないかと思われます。

T.K.K.Topics(Toyo Kisen Kaisha Topics)
:A monthly magazine of Oriental travel and development published in connection with the passenger department of the Toyo Kisen Kaisha(Oriental S.S. Co.)

1912年5月〜1913年4月:第1巻第1号〜第1巻第12号*
1913年5月〜1914年4月:第2巻第1号〜第2巻第12号*
1914年5月〜1915年4月:第3巻第1号〜第3巻第12号*
1915年5月〜1916年4月:第4巻第1号〜第4巻第12号*
1916年5月〜1917年4月:第5巻第1号〜第5巻第12号*
1917年5月:第6巻第1号
1917年6月:第6巻第2号=新シリーズ第1巻第1号(下記)

*実際には12号まで毎月刊行されなかった可能性もある。

Japan
: An illustrated magazine of Oriental travel and development. Published monthly by Toyo Kisen Kaisha, succeeding T.K.K.Topics.

1917年6月〜(新第1巻(通算第6巻)第1号〜

 この「新シリーズ創刊号」は、誌名を『Japan』とあらためて「第1巻第1号」とされていますが、その後は旧シリーズからの巻(vol.)表記を引き継いだものと思われ(ただし号(no.)表記は一旦リセット)、1917年6月号を「第6巻第1号」として、以降も表記が継続されているように見受けられます。ただし、この後も不規則な発行であった可能性が高く、例えば「1918年12月号」は「第8巻第4号」とされていることが確認できるため、毎月発行であったとすれば、明らかに巻、号表記のいずれも齟齬が生じてしまいます。こうしたことに鑑みると、「Japan」と誌名を変更してからしばらくは変則的な刊行が続いたものと思われ、実際に現物を確認しない限りその変遷を辿ることはできないと言えそうです。

 また、この雑誌の後年のものでは後述する編集者キング・スティールの名が記されているのに対して、本書では具体的な編者の名前は記されていません。そもそも後年の号に見られる編者によるコラム記事が本誌にはまだ存在しておらず、本文記事冒頭ページ(11ページ)に書誌情報が記載されているだけです。誌面構成も後年の号とはやや異なっており、特集記事(本書では「ハワイの砂糖についての物語」と「フィリピンの原生林」「日本概観」など)のほかは、当時就航していた船舶の名前(春洋丸、地洋丸、天洋丸、日本丸、香港丸)をとった記事が各1ページずつ掲載されています。後年の号に見られるような署名入りの寄稿記事や、著名な乗船客の紹介といった記事は見られず、その一方で「詩」(”Surfing” by John M. Gilles)が見開きで掲載されるなど後年の号には見られないような記事も見受けられます。最初と最後に多くの広告が掲載されているのは後年の号と変わりありませんが、全部で64ページと雑誌の分量そのものがやや小さくなっているようです。また、出版社として「By Our Navy Pub. Co.」という後年の号には見られない記載がありますが、これがどのようなことを意味しているのかははっきりしません。出版地としては、サンフランシスコと東京とあって、これは後年の号と同様です。

 本誌創刊当時の日本における英文観光発行物としては、ビューローの前身にあたる喜賓会によるガイドブックやガイドマップ、日本郵船によるガイドブックなどがありましたが、月刊での英文雑誌としては、帝国ホテル内で発行されていた「武蔵野」(Musashino)と並んで最初期のものと言えます。しかも本誌は、日本で発行されていた「武蔵野」と違い、サンフランシスコで発行されていたたと考えられるため、アメリカをはじめとした国外への配布網が当初からかなり充実していたものと思われます。本書にはその配布先として、アメリカ、ホノルル、日本、中国、そしてフィリピンの旅行会社や代理店が挙げられており、毎号5,000部を発行している旨も記されていますので、その影響力は小さくなかったのではないかと思われます。また、同時代の観光関係英文出版物に見られる広告のほとんどが日本国内企業によるものであるのに対して、アメリカの鉄道会社、ホテルなどの在米企業の広告が多くを占めていることも大きな特徴と言えます。


 本誌の創刊から1930年3月号までの20年にわたって編集を務めていたと考えられるのは、キング・スティール(James King Steele, 1875 - 1937)で、サンフランシスコを拠点にして日本を中心としたアジア諸国の情報をアメリカの人々に伝えることを目的に掲げ、精力的に編集活動に取り組み、自身もたびたびその筆をふるっています。キング・スティールが観光促進事業のためにフィリピンに招聘されてからはルーカス(Leonard J. Lucas)が編集を引き継いでいます。キング・スティールについては、カリフォルニアのHuntington LibraryのArt Collectionsに書簡や文書類のアーカイブがJapmes King Steele papers, 1909-1936(全2箱)として保管されている他、同じくHuntington LibraryのManuscripts Departmentにも James King Steele and travel-related ephemera collection(全5箱)というアーカイブが存在していることから、これらのアーカイブの収蔵されている資料を調査することによって、本誌編集や発行の背景、出版の変遷などをより詳細に辿ることができるのではないかと思われます。

 本書では「T.K.K. Topics.」とある雑誌名は、先に見たように新シリーズに移行当初は『ジャパン:東洋旅行と交易発展の絵(写真)入り雑誌』( "Japan" - An Illustrated Magazine of Oriental Travel and Trade Development)とされていましたが、1924年から25年はじめごろにかけての時点で、『ジャパン:海外旅行雑誌』(JAPAN. Overseas Travel Magazine)へと変更されています。店主自身は変更が行われた号を未見のため、確かなことはわかりませんが、店主の見る限り誌面構成や編集方針に大きな変更点はないように見受けられます。また、前述の通り、当初の発行主体であった東洋汽船の旅客部門が1926年に日本郵船会社へと売却されてからも、本誌は従前と大きな変更もなく刊行が継続されています。

 

 毎号工夫を凝らした意匠のカラー表紙と、本文中にふんだんに掲載されるモノクロ写真からすぐにわかるように、本誌は、当初からビジュアル面において大変魅力的な紙面構成をとっていることが特徴です。特に日本各地の風景を撮影したスナップ写真は、撮影者の作為性が過度に感じられないもので、被写体となった人々の自然な表情や雰囲気が伝わってくることから、日本への旅客誘致という目的においては、非常に効果的だったのではないかと思われます。現代の視点から見ると、日本をはじめとした近隣アジア諸国に人々の生活風景を伝える貴重な写真資料としても魅力的なものです。こうした誌面構成の特徴は、本書のような最初期の号から終刊まで一貫して変わらなかったように見受けられます。

 「T.K.K. Topics」と題されていたこの雑誌の最初期の号については、所蔵している研究機関は国内外でもほとんど確認できませんが、ニューポートにある The Marinners’ Museum and Parkの所蔵資料目録に、「第3巻第9号:1915年1月号」(Vol.3, no.9(Jan. 1915))、第5巻第2号:1916年6月号」(V.5, no.2(june 1916))という記載があることをかろうじて確認できます。国内では所蔵期間がないように見受けられることから、本書は同誌の最初期の内容、特徴を明らかにする手がかりとなる貴重な1冊と言えるでしょう。