書籍目録

「1921年カレンダー・ポスター」

東洋汽船株式会社

「1921年カレンダー・ポスター」

[1920年] 東京(三間印刷)刊

Toyo Kisen Kaisha.

Calendar poster for 1921.

Tokyo, Mitsuma, [1920]. <AB2024124>

Sold

60.0 cm x 90.0 cm, 1 rolled colored lithograph poster,
著しい褪色などもなく、良好は状態。裏面に幾つかの補修跡と「OAKLAND PUBLIC LIBRARY DEPARTMENT OF FINE, ARTS」という(かなり古い年代と思われる)押印が3箇所あり。

Information

東洋汽船を代表するポスター・カレンダー

 このポスターは、東洋汽船のポスターとして最も有名な作品の一つと言えるもので、1921年のカレンダーを備えていることから1920年末に作成、頒布されたものと思われます。印象的なデザインの下部には北米航路と南米航路の寄港先と就航する船舶の概要、同社の東京本社、横浜営業所を中心とした営業ネットワーク網が日本語で紹介されており、その左右に1921年のカレンダーが半年ずつに分けて配されています。当時の海運会社によるポスターの基本的な形式を踏襲しつつも、当時流行のいわゆる「美人画」スタイルを採用しない非常に印象的なデザインを採用しており、印刷物に並々ならぬ情熱をかけた東洋汽船らしいユニークな作例となっています。

 外国汽船会社や他社との厳しい競争に勝ち抜くために、積極的な投資や斬新なアイディアに基づいた事業展開を行なったことで知られる東洋汽船は、同時に秀逸な意匠を凝らした英文での定期刊行物や案内書といった印刷物の発行にも特に力を入れていたことで知られています。明治期後半から、最新の印刷技術であった石版多色印刷を用いた大型ポスターの製作は、厳しい国際競争において国内外から乗客と貨物を安定的に集めるための効果的な広告メディアとして日本郵船や東洋汽船といった大手海運会社がいち早く手がけていました。東洋汽船は、1910年頃から国内外向けに毎年カレンダーを備えたポスターを製作しており、当初は当時の流行に応じていわゆる「美人画」を基調としたデザインとしていましたが、1916年頃から徐々に独自の意匠を追求するようになり、自社の誇るべき船舶だけを大胆に描いたものや、社旗である紺を背景に据えた日の丸扇を強調したものなど、競合他社に先駆けてユニークなポスターを次々と製作したことで知られています。

 1921年用のカレンダーを備えたこのポスターは、こうした東洋汽船独自のポスター製作活動のピークを示す代表的な作例とも言えるもので、同社による最も有名な作品に数えられているものです。この時期の同社は、1916年の地洋丸の座礁による損失がありつつも、これや丸、さいべりや丸の購入と新造船建造を積極的に進めていたところ、第一次世界大戦終結後の深刻な不況に見舞われており、次第にその経営が傾き始めていました。それでも安田銀行による融資を受けるなどして経営の立て直しを図り、日本郵船との合併も視野に入れて再生の道を積極的に模索しており、このポスターは当時の東洋汽船の意気込みが象徴的に表現された作品とも言えるのではないかと思われます。このポスターの印刷を担ったのは、高度な技術を要する石版多色印刷に秀でていたことで当時著名であった三間印刷で、社主の三間隆次はドイツをはじめとした海外の最新印刷技術の導入に極めて積極的なパイオニア的人物であったことが知られています。こうした三間隆次の姿勢は、東洋汽船を率いる浅野総一郎にも通づるところが感じられることから、印刷物についてはその品質追求のためサンフランシスコの会社に任せることも多かった同社が、このポスターの製作を三間印刷に依頼した理由の一つではないかと推測されます。

 このポスターを世に出したのちの東洋汽船は、残念ながら1923年の関東大震災の影響もあって単独でのサンフランシスコ航路の維持が不可能となり、ついに1926年に日本郵船との(吸収)合併へと至ることになったため、東洋汽船によるポスター製作はおそらくこの作品が最後になってしまったのではないかと思われます。その意味でも、このポスターは同時代のポスター文化を牽引した東洋汽船による最も重要で記念すべき作品とみなすことができるでしょう。

 なお、このポスターは著しい褪色などもなく、比較的状態の良いものと思われますが、裏面に幾つかの補修跡が見られます。また裏面には、「OAKLAND PUBLIC LIBRARY DEPARTMENT OF FINE, ARTS」という(かなり古い年代と思われる)押印が3箇所みられます。