書籍目録

『日本のこどものおとぎ話:古い木版画と写真に基づく51枚の挿絵を添えて』(『昔ばなし』)

フロウハ(保呂宇波)編

『日本のこどものおとぎ話:古い木版画と写真に基づく51枚の挿絵を添えて』(『昔ばなし』)

初版、著者直筆献辞本 1926年 プラハ刊

Hloucha, Joe (ed.)

Pohádky japonských dětí: S 51 obrazy dle fotografií a starých dřevorytů

V Praze (Praha), A. Neubert, 1926. <AB2024117>

Sold

First edition, Author's dedication copy with his autograph.

18.2 cm x 24.7 cm, pp.[1(Half Title.), 2(Front,), 3(Title.), 4], 5-86, 1 leaf(colophon), folded colored plate: [1], Printed on folded leaves, bound in Japanese style, tied.
表紙の一部にかすれや傷みが見られるが概ね良好な状態。[NCID: BB22708042]

Information

日本を愛したチェコ人作家が数多くの木版画や写真の複製を添えて手がけた日本昔ばなし集

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「(前略)フロウハの「日本もの」作品のうちの小説は、私小説的で、自身の日本での体験を題材に小説として描かれている。一番普及した処女作『嵐の中のサクラ』は、日本旅行の日記の体裁をとっており、途中の版から日本画家梶原緋佐子(1896-1988)の絵が入るようになった。日本旅行後の「日本もの」作品は、旅行記風のものと小説風のものとがあり、日本の昔話の翻訳も含め、文中に日本語の単語や短文を挟み、エキゾチシズムを鼓舞した。
 旅行記風の作品に、『日本の思い出』『日本の子供のおとぎ話』、『神と鬼の間』、『微笑みの売り子』、『日本のかわいい女たち』、小説風の作品に、『私の「菊夫人」』、『見知らぬ人の手紙』、昔話の翻訳に、『死の接吻』、『恐怖の館』、『日本の子供のおとぎ話』、『日出る国おとぎ話』がある。
 『日本の子供のおとぎ話』は、1926年の第2巻日本旅行の結果で、同年に和紙風の表紙、和綴の体裁で出版されている。2015年に復刻出版された。
 単なるおとぎ話の収集・翻訳だけでなく、日本の家族の生活、家族の中の子供の地位、息子と娘の差異、家族愛を説明している。おとぎ話については、ヨーロッパのものと大きな違いはなく、英雄、お姫様、お化けが登場し、動物が擬人化されるとしている。
 前半の日本事情を説明している部分にも、様々な物語が紹介されているが、源頼政、源頼光、金太郎(坂田金時)、源義経、弁慶、忠臣蔵など実在人物に関する物語が中心である。
 おとぎ話として、紹介されているのは以下のとおりである。こちらにも実在人物に関する物語も存在する。

 1. キチベイとキサブロウ
 2. 兆殿司
 3. ネンゴ滝
 4. 雪女
 5. 浦島太郎
 6. 嫉妬深い隣人(花咲爺)
 7. ミケンジャク(眉間尺)
 8. 姫ーほたる
 9. 桃太郎
10. 文福茶釜
 11. シカヤ・ヴァソビヨイェ
 12. おしゃべるカタツムリ
 13. はちかづき姫
 14. こぶとりじいさん
 15. 舌切り雀」

(佐藤雪野「チェコの日本びいきフロウハと日本のおとぎ話」東北大学大学院国際文化研究科『国際文化研究論集』第25巻、2019年所収、58, 59ページより)

「アンナ・ブラッシーやヨーゼフ・アレクサンダー・ヒューブナー伯爵などの旅行記に魅了されたフロウハは、早くから海外の土地や文化に関心を持つようになり、大叔父ヨゼフ・コシェンスキーの『世界周遊の旅』(1896年)を読んだ後はとくに日本に惹かれるようになる。まだ10代後半の頃に日本美術のコレクションをはじめ、手あたり次第日本関連の本を読み、コジェンスキーや旅行家エミル・ホルプ、エンリケ・スタンコ・ヴラース、ヴォイチェフ・ナープルステクのボヘミア工業博物館を訪問し、ナープルステクのコレクションの清掃と分類を手伝う。また日本語を学び、馬の繁殖を研究するためにボヘミアに派遣された日本人将校ナンブエイタロウ男爵との会話などで語学力を磨く。彼の処女作『嵐の桜』(1905年)の成功により、1906年、初の日本旅行のための資金を獲得。自動車製造会社ラウリン&クレメント社の代理人であり日本美術のコレクターだったカレル・ヤン・ホラの助言を得ながら東京と京都に滞在し、横須賀、大阪、奈良を訪問、富士山に登頂した最初のチェコ人となる。短期間ではあるが、日本人女性を囲い、その理由についてピエール・ロチ著『お菊さん』に触発されたため、また、日本文化研究を深めるためだったと後に説明している。1908年、プラハのチェコ商工会議所によって開催された皇帝フランツ・ヨーゼフ1世治世60周年記念展では、日本式喫茶室を設け、一年後にはプラハノルツェルナ宮殿に喫茶室「ヨコハマ」を開店、第一次世界大戦まで続いた。フロウハはコレクションを充実させ続け、1923年、プラハ北部ロストキに日本式に装飾されたサクラ邸を建設。1926年、2度目の日本旅行に出て、上海、香港にも寄港し、日本では神戸、広島、横浜、東京を訪れた。帰国後、展覧会を開催し、中国、シャム、ビルマ、チベット、トンキン、ペルシア、アフリカ、オセアニアの美術作品などのコレクションの一部を売却。(中略)その後もフロウハは講演を行い、日本を舞台にした小説や日本文化研究書を執筆し続ける。国立美術館およびナープルステク博物館に協力し、1955年にチェコスロヴァキア政府に8700点を超えるコレクションを売却する。晩年を自身のコレクションの目録作成に費やし、プラハにて没。」
(ジャン=ガスパール・パーレニーチェク「ジョー・フロウハ」西山純子ほか(編)『ミュシャと日本、日本とオルリク』国書刊行会、2019年、304ページより)

「チェコでは1860年代以降、美術館や博物館が展示を介して、あるいはプラハの輸入品展メゾン・スタニェクが展示・販売を通じて日本美術の紹介に貢献したという。だがジャポニスムの動きはフランスやイギリス、ドイツに比して遅く、1887年春の「マーネス美術家協会」設立に象徴される、アカデミズムを否定して新たな美術を志向する流れのなかで、1890年代より本格化した。ジャポニスムの道筋は実に複雑で、日本美術からの直接の影響のほか、ウィーンやミュンヘン、とりわけパリにおける成果を窓口に、アール・ヌーヴォーに融合した日本美術の手法を吸収する間接的な例も数多く存在した。また日本美術への愛好が長く、1940年代まで続いた点も特徴的である。」
(西山純子「めぐるジャポニスム:展覧会「ミュシャと日本、日本とオルリク」へのみちあんないとして」前掲書所収、9ページより)