書籍目録

「日本 南部(沿海図): 同縮尺にて二枚の海図に編纂された日本列島」

英国海図出版社イムレイ

「日本 南部(沿海図): 同縮尺にて二枚の海図に編纂された日本列島」

1870年 ロンドン刊

Imray, F. James. (compiler)

JAPAN. [SOUTH PART.] The Islands of Japan are comprised in two charts, each of which is on the same scale.

London, James Imray and son (, 89 Minories & Tower Hill London.), 1870. <AB201794>

Sold

Rolling sheet chart, 108 cm x 205 cm,
イムレイ社特有の青の厚紙による裏打ちと短辺両端を木片に編み込んだ補強がなされている。図面の一部に刊行当時の航海で記されたと思われる航路を示す書き込みあり。

Information

幕末明治初期の日本に影響をもたらした英国水路部版とは異なる重要海図

 幕末期から明治初期にかけて日本に来航した諸外国にとって、日本沿海の水路情報を正確に把握することは、極めて喫緊の課題でした。ペリー来航以前の19世紀はじめから既に複数の外国船が日本近海を航海し部分的な測量を始めていましたが、1858(安政5)年の条約締結以後は、開港の決まった長崎と横浜への安全な航路を把握するために、イギリスを中心とした列強諸国が本格的な日本沿海の測量の必要性を幕府に求めていきます。

 英国水路部が作成した海図は、こうした要請に基づいて作成、改訂されていった海図の中で最も中心的な役割を果たしたことが知られており、英国の海図、並びに測量技術の大きな影響、協力なくして日本の海図作成の歴史は語ることができません。水路部作成の海図には、その対象地域ごとに番号が振られており、当時の日本の主要領土であった本州(当時外国ではNiponと呼ばれていました)、九州、四国を中心に、朝鮮半島沿岸を含めた広域全体を示した2347号と呼ばれる海図は、幕末から明治初期にかけて作成された海図の中でも最も有名な海図の一つです。2347号海図は、日本を対象とした英国水路部作成の海図の中では最も古い歴史を有しており、その最初は1828年にまで遡ります。これは、日本近海を航海し部分的な測量を行ったクルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern, 1770 - 1846)の成果に基づく地図帳の日本図を元に作成されています。2347号海図は改訂を重ね、1855年、1861年、1862年とに出されていますが、大きな変化は1863年の改訂で、この年の5月と11月の二度にわたって大きな改訂が施されており、この改訂は、水路部が幕府より提供を受けた伊能図に基づいてなされたことで非常によく知られています。
 
 当時の英国水路部による海図は英国内外に広く提供されるという極めて高い公共性を有すると同時に、一方では専売代理会社(Stationary)によって独占的に出版されるという出版形態をとっており、1873年9月にこの制度が終了するまで、ロンドンのPotter社がその任を務めていました。制度終了後もPotter社は依然として最有力な海図出版社であり続けたためため、英国で刊行された日本沿海の海図と言えば、Potter社によるもの、というある種の常識が形成されているほどです。

 しかしながら、当時の英国ではPotter社と並ぶ強力な海図出版社が存在しており、しかもその出版社が現存して活動しているということは、ほとんど知られていないと言ってよいでしょう。ここにご案内する海図の出版社こそが、その出版社であるイムレイ社です。

 イムレイ社は、ジェームズ・イムレイ(James Imray, 1803 - 1870)が何人かの協力者と共に1835年に設立した海図出版社で、一時は先に述べた英国水路部作成海図の専売代理会社でもありました。1843年の財政難(破産)によって専売代理会社の指名からは外れるものの、イムレイ社は精力的な海図作成、出版活動を継続し、専売代理会社Potter社を脅かすほどの競争力、影響力を有し続けました。

 イムレイ社の海図は、英国水路部作成の最新の海図を巧みに組み合わせ、より使いやすく独自の構成、編集を行って作成されており、そのため実用性においては専売代理会社Potter社が作成する海図よりも優っている点が少なくなかったと思われます。また、Potter社との差別化を図るために、裏面を特徴的な青い厚紙で裏打ちして補強を施していたことで知られ、「青く裏打ちされた海図(blue-backed charts)」と言う言葉が、Potter社のものでないイムレイ社の優れた海図のことを指す通称として用いられていたほどです。

 本図は、イムレイ社がその力を遺憾なく発揮して作成した、短辺108センチ、長辺205センチにもなる巨大な日本沿海を描いた海図で、江戸以西を中心に朝鮮半島南部までをその範囲としています。表題は、「日本南部」とされており、副題から読み解く限りでは、同じ縮尺の「日本北部」と題されたもう一枚の海図と対になり、日本周辺全体をカバーする海図となったと思われますが、店主の管見の限りでは後者についてその存在を確認することができませんでした。

 本州、四国、九州、朝鮮半島の輪郭については、伊能図に基づいて作成された英国水路部海図2347号に準じていると思われますが、その大きさは前者よりもかなり大きいことは言うまでもありません。また、英国水路部は、江戸湾、瀬戸内、長崎など航路上重要な各地域の部分海図を複数作成、出版していましたが、本図では、これらの部分図を別図として一枚の中に巧みに収めており、これは実際の利用の便に資するところが大きかったと思われます。部分図は、開港場として船舶の往来が多かった、長崎、兵庫(大阪)、江戸(横浜)、紀伊水道が掲載されており、非常に細かく水深や陸上の目印となる地形が記されています。また、灯台関連施設については、赤く彩色した上に灯台の光を表す黄色でも塗られています。安全な航路を選択する上で重要となる海底の地質についても、略記を用いて岩礁帯、砂質等の区分を記してあります。地図に関連する簡単な日英対訳彙集(Glossary)も地図上に貼り付ける形で設けられており、航海者にとっての実用性を高めています。裏面は先に述べたような、青い厚紙で裏打ちして補強されている他、短辺両端は木片に編み込まれており、ロール上から開く際に傷みやすい部分を補強しています。こうした補強もPotter社には見られないイムレイ社特有のアドバンテージであったことは間違い無いでしょう。


 さて、これまでほとんど顧みられることがなかったと思われるこの海図ですが、大変興味深いことに、明治初期に日本にもたらされていたことは、確実なようです。海上保安庁水路部が1971年に水路業務100年を記念して刊行した『日本水路誌 1871〜1971 HYDROGRAPHY IN JAPAN』には次のような記述があります。

「海軍の整備と艦船建造を急務としたわが国は、それに必要な図誌の供給を求めていたが、当初は海図や水路誌の調整なお緒に着かず、やむなく外国艦船の測量を許可し、その刊行による外国版海図・書誌に依存せざるを得なかった。そこでイギリス水路部刊行の英版海図やゼームス・イムレー会社出版の図誌を入手して艦船に供給していた。」(55頁)

 イムレイの海図は、明治初期の海図の製図を担当した大後秀勝(おおじり・ひでかつ)が海図作成における表現法の習得に際して、英国水路部の海図と並んで参考にされたと言われています。実用上においても明治初期の水路寮作成の海図は、「なお寮版海図にしても履版海図にしても、当時の大部分のものは図積の小さい港湾図が多かった。これは、製版技術上、四分の一版以上の銅板を作ることが容易でなかったためで、これでは実用性に乏しいから英版海図のように大図積のものに改版するよう、艦隊からの要求として海軍省から注意を受けた」(同書58頁)とされていますので、本図のような大判海図は、実際の利用に供するために用いられたものと思われます。長辺2メートルを超える本図は、「英版海図のように大図積のもの」を代表する海図であったであろうことは容易に想像できます。70年代の日本における英国製海図の重要性は、横山伊徳氏の論文でも次のように指摘されており、イムレイの海図もこうした事情を背景に、当時の日本にもたらされたものと推察されます。

「むしろ、70年代の水路寮は、測量=製図とともに、英国製海図の謄写をその本質的な機能としていたと考えられる。すなわち、水路寮は、70年代後半幾度かイギリス製海図の大量購入を上申したが容れられず、結局幕末以来各艦が個別に集積していたり、横浜の商社などがたまたま取り寄せていた英国製海図を大量に複製したのである。73年秋から始まった水路寮雇外国人はこれらイギリス製海図・水路誌の調査のために雇われた(後略)」横山伊徳「19世紀日本近海測量について」黒田日出男他編『地図と絵図の政治文化史』東京大学出版会、2001年所収、319頁)

 また、本図は、海図本来の利用目的とは異なるものの、明治政府の外交実務にも活用されていたことが上西勝也氏の研究論文「明治初期の神奈川県における外国人遊歩規定測量」(『地理学評論』81号、2008年所収)で紹介されています。国立公文書館に残存している横浜の外国人遊歩規定の範囲を示す絵地図が3種類あることを紹介された後に、上西氏は次のように述べられております。

「まず外務省旧蔵の『神奈川外國人遊歩規定圖』として保存されているものは神奈川県庁を中心として40kmを円で描いており「明治八年十一月 外務省灌小録 河野雪巌 外国人遊歩規定甲乙圖附言」として注記がある。この地図は、昔年、伊能忠敬の『大日本実測圖』を元に内務省が選定したものであり外務中録 室田義文がこの図を利用して遊歩規定調査の任にあたったこと、また遊歩規定の範囲に異論があり確定した図はないと記述されている。この図には「ジェームスイマレーエンドソン日本南部圖』の模写図が添付されている。「Japan [South Part] 日本 南部 London 龍動 Published by James Imray and Son 89 Minories and Tower hill ジェームスイマレーエンドソン出 1873年」の注記があるが「Imray」は「Murray」の転記誤りと思われる。」(上掲論文662頁)

「1875年(明治8)年の公文録によると外務卿寺島宗則から太政大臣三條實美あて40kmの制限距離が厳密な定義と精密な測量によるものでないため外国公使などからも苦情があり西の限界は酒匂川でなく、さらに西の早川を境界にすべきではないかとの検討依頼があった。太政大臣から内務卿は伊能忠敬の実測図や英国の出版図面などにより定めたもので神奈川県庁から直線40kmの酒匂川を境とするのが正しいとした。英国の出版図面については公文書には英人ジェームスイマレーエンドソン(出版社J. Murrayと思われる)と記述、当時J. Murray社は駐日英国公使サトウとホーズ大尉の共著で日本旅行案内を出版しており、この添付図ではないかと思われるが同書の1884年版には載っていない。」(同663頁)

 上西氏は「Imray」「イマレー」と書かれているのを、転記の際の誤りとされてしまっていますが、これは言うまでもなく、本図の出版社であるImray社に相違なく、従って当時の転記は正しいものです(J. Murray社は上西氏指摘の通りサトウなど当時の来日英国人著者との関係が極めて深く、また世界的にも名声の高い出版社でしたので、「Imray」「イマレー」と聞いて、J.Murray社を最初に連想することはむしろ自然なことではありますが)。ここからは、少なくとも本図、あるいはその模写図が明治初期の政府機関に所蔵されていただけでなく、外国人遊歩規定という極めて大きな外交上の問題の解決にあたる上で活用されていたことを読み解くことができます。

 当時の明治政府が英国水路部の専売代理会社であったPotter社が出版した海図だけでなく、その強力なライバル会社であったイムレイ社の海図をも視野に入れて整備、分析していたということは、幕末明治初期の日本沿海の海図作成の歴史を研究する上で、これまでほとんど研究されてこなかったと思われる(本図の所蔵機関が国内に存在しない、あるいは認識されていないことによるものと推察されます)ことから、本図は極めて重要な研究資料としての価値を有するものと思われます。
 

 

短辺108センチ、長辺205センチにもなる巨大な日本沿海を描いた海図である。
「南部日本」とあるのは、当時の英国を中心とした外国人の独特な日本地理の把握の仕方を示すもので、実際には江戸以西の広範な地域を指す。本図とついになる「北日本」図も当時存在していたと思われるが、店主にはその痕跡を確認できず。
(英国水路部の海図専売会社であるPotter社とは異なる)イムレイ社による(独自の)編集であることや、略記表記の説明などが記されている。水路部による海図にはHYDROGRAPHIC OFFICEと記された紋章が描かれるが、本図はその代わりにイムレイ社の紋章が描かれている。
地図下部には出版社表記。子午線には当然グリニッジを採用している。
地図真中下部に貼り付けられた日英対訳語彙集。
長崎周辺
兵庫と題された別図は、居留地を擁する神戸、大阪をはじめとした要所を描く。入港可能な船舶の大きさなども記してある。
最重要航路の一つであった紀伊水道
言うまでもなく最重要航路である江戸湾周辺図については、特に情報量が多い。
当時実際に用いた際のものと思われる書き込みが複数ある。
イムレイ社特有の青の厚紙によって裏打ちされ、ロール状に丸められている。記載されている当時の価格は10シリング。英国水路部版の各種海図よりもかなり高価(同時期の英国水路部版の海図は小さなもので1.5シリング前後、大きなものでも3.5シリング前後)であるが、その分実用性における高品質を売りにしていたものと思われる。
短編両端は写真のように木片に編み込まれており補強されている。