書籍目録

「1854年3月8日、ペリー提督と艦隊士官が(日本)帝国委員との面会のために横浜に上陸する図(ペリーの横浜上陸図)」

ハイネ / ブラウン

「1854年3月8日、ペリー提督と艦隊士官が(日本)帝国委員との面会のために横浜に上陸する図(ペリーの横浜上陸図)」

(超大型彩色リトグラフ)(『日本遠征画集』全6作品のうちの1枚) 1855年 ニューヨーク刊

Heine, Wilhelm / Brown Jr., Eliphalet M.

LANDING OF COMMODORE PERRY, OFFICERS & MEN OF THE SQUADRON, TO MEET THE IMPERIAL COMMISSIONERS AT YOKU-HAMA, JAPAN MARCH 8TH 1854. To Commodore M. C. Perry, Officers of men of the Japan Expedition...

New York, E. Brown Jr, 1855. <AB2020291>

In Preparation

(Illustrations of the Japan Expedition)

66.5 cm x 91.0 cm, Elephant folio hand colored lithographic print,
右下余白に一部破れ、上部(空のあたり)に破れの補修跡あるが、全体として良好な状態。

Information

「ペリーの日本遠征の様子を今日に伝える最も有名な場面のひとつ」を描いた巨大彩色リトグラフ

 本作品は、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)による日本遠征における最大のハイライトの一つである横浜上陸の場面を描いた超大型の彩色リトグラフで、教科書でもお馴染みの作品です。遠征隊に随行した画家ハイネ(Wilhelm Heine, 1827 - 1885)による水彩画をもとにして、同じく遠征隊に随行した写真家で優れた石板印刷(リトグラフ)技師であったブラウン・ジュニア(Eliphalet M. Brown, Jr., 1816 - 1886)が彩色リトグラフで製作したものです。ペリーによる日本遠征を描いた印刷作品として最大のもので、遠征を記念してペリーと士官のためにわずか100部のみが制作されたことが記録されていて、極めて有名な作品である一方で、現在では入手が著しく困難な作品としても知られる貴重な一枚です。

 本作品に描かれている「横浜上陸」の場面は、1853年7月に江戸湾に侵入し、久里浜に上陸しての親書受け渡しに成功したペリー艦隊が、その返答を受け取りに再度来日、1854年3月8日に応接所の設けられた横浜に上陸して、応接所へと向かう場面を描いたものです。

「ペリーが望んでいた応接地の条件は、江戸近辺であることはもちろん、沖合に艦隊を整列させて威容を誇れること、上陸地が艦船の砲弾の届く距離であること、汽車の模型などの贈り物を展観できる広さのあることでした。横浜はこの条件を満たすことが判明し、到着から2週間後、ようやく応接地が決まりました。
 応接地が決まると、幕府は浦賀に用意していた建物を移築し、10日足らずで横浜の近辺に応接所が完成します。2月10日(陽暦3月8日)、ペリーは将兵約500名を率いて、初めて横浜に上陸しました。日本人への効果を計算したその威容は、石版画や絵巻に克明に描かれています。
 一行のうち約30名が応接所に入り、日本側応接掛と対面ののち、別室でいよいよ交渉が開始されました。艦隊到着からすでに一ヶ月近くがたっていました。この日を初回として、約3週間後の条約締結に至るまで、4回の会談と書面による交渉が行われることになります。」
(伊藤久子「日米会談」横浜開港資料館編『ペリー来航と横浜』横浜開港資料館、2004年、26頁より)

 本作品は上記で指摘されているような、艦隊の威容を余すことなく表現した作品ということができるでしょう。

 ペリーは日本遠征に際して、外交上の成果を上げることはもちろん、のみならず遠征中にあらゆる分野の学術調査を行い、それらを公開することも目的としていました。遠征による成果は、アメリカ議会の公式文書として刊行された有名な『日本遠征記 (Francis Lister Hawks(ed.). Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China seas and Japan,... 3 vols. Washington, 1856)』において余すことなく公開され、国内外に広く伝えられました。この『日本遠征記』は、同じ内容で上院版と下院版との2種類が印刷され、その発行部数については議論がありますが、概ね3万部から4万部とは言われていることからもわかるように、アメリカの国家プロジェクト出版物として大量に刊行されました。このような出版物の刊行は、当時の欧米において国家的プロジェクトとして遂行された航海に際して頻繁に刊行されていて、こうした出版物の公刊において、その航海と実施国の航海を遂行するだけの高度な技術力、外交力に加えて、文化的、学術的水準の高さが競われる状況にありました。ペリーの日本遠征に、ハイネやブラウン・ジュニアといった画家、写真家が随行していたのも、帰国後の遠征成果の公表において不可欠な、各地の風景、人物、出来事を描いた図版を制作するためで、彼らの作品は、上述の『日本遠征記』第1巻を彩る数多くの図版において見ることができます。

 ペリーによる日本遠征に関係する記録、図版の出版は(実際にはそれを逸脱する出版物が頻発したとはいえ)原則として、全てペリーによる公式の許可を得ない限り公刊することが許されていませんでした。従って、遠征中の記録としては、アメリカ議会による公式の報告書である『日本遠征記』がほぼ独占的な地位を占めることになっています。ただし、関係者が個別にペリー(並びにアメリカ議会)の許可を得ることができた際には、独自に出版物を刊行することも可能で、画家であるハイネは自身の10作品をリトグラフで再現した画集『日本遠征石版画集(Graphic Scenes in the Japan Expedition. New York, 1856)』を独自に刊行しています。このハイネの『日本遠征石版画集』は、『日本遠征記』よりもその発行部数ははるかに少なかったものと思われますが、それでも現在の古書市場でもしばしば目にすることがありますので、一定流布したものと思われます。

 本作品も、Entered according to Act of the Congress in the year 1855 by Heine & Brown in the Clerk’s Office of the District Court of the Southern District of New York. と記されていることからもわかるように、ブラウン・ジュニアがペリーと議会の許可を得た上で1855年に刊行されたものですが、そのサイズがべらぼうに巨大、かつ細部は極めて精密に描かれている、他の出版物とは一線を画した異色の作品です。『日本遠征記』も四つ折り版 (約22 cm x 30 cm)と立派な書物で、多くの彩色リトグラフを収録した非常に豪華な出版物として知られ、先に述べたハイネの『日本遠征石版画集』も約51 cm x 37 cm という大型の彩色リトグラフ集でしたが、本作品は、約66 cm x 91 cmという規格外のサイズを誇っています。これだけ巨大なリトグラフを制作するためには、原画であるハイネの水彩画を石版の原版に落とし込み、それを印刷、さらに精密な手彩色を施すという、途轍もない技術とコストを必要とするため、当時の印刷技術力としての限界に挑戦するような試みだったのではないかと思われますが、本作品の出来栄えと圧倒的な迫力を見る限り、その試みは大きな成功を収めたということができるでしょう。

 ただし、このように非常に高度な技術力とコストを要するこの作品が、数万部が発行された『日本遠征記』のように大量に製作することは到底不可能で、また「日本遠征記』よりは大幅に発行部数が少ないと思われるハイネの『日本遠征石版画集』に比べても、一層少ない製作数であったということは、容易に想像できます。しかも、ブラウンは、本作品だけではなく、他にも下記の5作品(いずれも本作品と同じ巨大なサイズ)をひとまとめとして、全6作品からなる『日本遠征図集(Illustrations of the Japan Expedition)』として刊行していますので、そのコストが膨大なものだったことは間違いなく、大量に印刷して一般に流布させることを目的として、本作品が制作されたものでないことは明白です。

1. 「琉球首里城訪問からの帰還」(Return of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron from an Official Visit to the Prince Regent at Suri, Capital of Lew Chew, June 6th 1853)
2. 「ルビコン川を渡る(江戸湾侵入)」(Passing the Rubicon, Lieut. S. Bent in Mississippi’s First Cutter Forcing His way Through a Fleet of Japanese Boats While Surveying the Bay of Yedo, Japan, July 11th 1853)」
3. 「久里浜上陸」(First Landing o Americans in Japan, Under Commodore M. C. Perry at Gore-Hama July 14th 1853)
4. 「下田上陸」(Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron to Meet the Imperial Commissioners at Simoda, Japan June 8th 1854.)
5. 「下田の寺院での演習」(Exercise of the Troops in Temple Grounds, Simoda, Japan in Presence of the Imperial Commissioners, June 8th 1854.)

 ブラウン・ジュニアによる『日本遠征図集』が一体どれほどの部数が制作されたのかについては、はっきりとした記録がないようで、ブラウン・ジュニアが公刊許可を得るに際して、ペリーに100部を贈呈し、それらがペリーを通じて士官に配布されるものと約したという記録があるのみと言われています。このペリーに贈呈した100部以外にも制作されたのかについては、全く不明のままですが、その作りを見る限り、制作されなかったか、制作されたとしても極めて少部数であったのではないかと思われます。『日本遠征図集』は本作品と上掲6作品からなりますが、G. W. Lewis とSarony & Co.、Boell & Michelin という3つの異なる印刷会社が作品ごとに分担して印刷を担っていることがわかっており、このことからも一つの印刷会社で全ての作品の印刷を担えないほどの労力を必要とする作品であったことは明らかで、こうしたことにも鑑みますと、やはり発行部数は100部ほどだったと考えるのが妥当ではないかと思われます。

 このように非常に貴重な本作品ですが、日本国内の研究機関においては、店主の知る限りでは印刷博物館が本作品を含む『日本遠征図集』全6作品を、横浜開港資料館が本作品と「久里浜上陸図」を、江戸東京博物館が本作と同じ「横浜上陸図」を所蔵しています。これ以外に一体どれだけの所蔵機関があるのかについては、不明ですが公式記録である『日本遠征記』、ハイネの『日本遠征石版画集』と比べても著しく少ないのではないかと思われます。その意味でも、本図は非常に貴重で重要な一枚ということが言えるでしょう。

「他の日記と同様に、ハイネの絵も公式記録『日本遠征記』編集のために提出することを義務づけられていましたが、大きすぎた水彩画はブラウンの手元に残すことが許可されました。ブラウンは帰国後、政府の許可を得てそれを大判の石版画にし、日本遠征記より一足早く1855年に出版しています。このハイネの絵による『日本遠征画集』Illustrations ofg the Japan Expedition の内容は、「首里城訪問からの帰還」「ルビコン川を渡る」「久里浜上陸」「横浜上陸」「下田上陸」「下田了仙寺境内における軍事演習」の6点で、それに表紙絵がついていました。このなかで日本遠征記に類似の絵が見られるのは久里浜上陸の図だけです。
 ブラウンは出版の許可をペリーに申請したとき、100部をペリーのために用意すると述べています(アメリカ国立公文書館蔵「東インド艦隊書翰」(RG45, M89/7-8))。現在では6点ともそろった完本は希少となっていますが、『ペリー日本遠征随行記』(新異国叢書)の口絵に掲載されています。当館では「久里浜上陸」「横浜上陸」の2点を所蔵しています。原画の水彩画のうち5点は長くアメリカ人の個人蔵となっていましたが、現在、4点(ルビコン川、久里浜上陸、横浜上陸、下田上陸)は明星大学図書館が所蔵しています。」
(伊藤久子「ハイネの石版画集」横浜開港資料館編『ペリー来航と横浜』横浜開港資料館、2004年、76頁より)

「ペリーの日本遠征の様子を今日に伝える最も有名な場面のひとつが、この横浜上陸図である。嘉永7(1854)年に再来航したペリー艦隊は、浦賀沖を通過して金沢沖の『アメリカ投錨地』に集結、その後さらに羽田沖まで進んでいった。この思いもよらぬ行動に慌てた幕府は、神奈川宿はずれの横浜村において交渉を行うことを提案した。その結果、横浜村には急遽応接所が設けられ、和親条約締結交渉のための正式な会談が行われるに至った。500人の武装水兵に護衛されたペリーが会談に臨むべく、横浜に上陸し、画面左手に見える応接所へと向かう場面が大きな石版画に活写されている。」
(印刷博物館編『開国150年記念展「西洋が伝えた日本/日本が描いた異国」図録』印刷博物館、2004年、148頁より)

「ペリー艦隊随行画家ハイネが描いた、横浜に上陸するペリー艦隊を描いた石版画。中央で米国の国旗を掲げ、左手の交渉場所となった横浜応接所に向って行進している人物がペリー。この横浜応接所で日米和親条約の会談が開始された。整然と並ぶ儀仗兵の後には、多くの見物人が野次馬として詰めかけている様子も描かれている。右手に描かれている巨樹は、現在も横浜開港資料館の中庭にある『玉楠の木』として伝えられている。」
(田中裕二「ペリー横浜上陸の図」東京都江戸東京博物館編『特別展 ペリー&ハリス〜太平の眠りを覚ました男たち〜』東京都江戸東京博物館、2008年、120頁より)

*ブラウン『日本遠征図集』については、日米関係の古書専門家であるGeroge Baxley氏による下記の解説も非常に参考になります。

Illustrations of the Japan Expedition: "Elephant" Folio of Six Lithographs and Lithograph Cover Sheet. Published by Eliphalet M. Brown, Jr. in 1855

http://www.baxleystamps.com/litho/brown_folio.shtml

66.5 cm x 91.0 cmという超巨大な彩色リトグラフ。右下余白に一部破れ、上部(空のあたり)に破れの補修跡あるが、全体として良好な状態。