書籍目録

『御遠足』

トマ・ローカ(ロシェ・ポアダーツ)(文)/ トゥシェ(絵)

『御遠足』

増補改訂版、限定110部のうち第7番、著者直筆献辞と修整直筆草稿4葉、デッサン集冊子2冊ほか付属 専用箱入り 1928年 パリ刊

Raucat, Thomas (Poidatz, Roger Alfred Emmanuel) (text) / Touchet, J(acques). (illustrations).

L’HONORABLE PARTIE DE CAMPAGNE.

Paris, Bibliophiles du Papier, 1928. <AB2020288>

¥242,000

Revised & enlarged ed. No.7 of limited only 110 copies.

4to (20.3 cm x 26.0 cm), pp.[1, 2, 3(half title.), 4, 5(dedication number stated), 6, 7(Title.), 8], 9- 281, [282], 3 leaves, Unbound with a special box.
未製本、未裁断の状態。

Information

「驚嘆すべき『独創的な新形式』」を用いて、「異国日本の風情」を写し出した名作の増補改訂決定版

 本書は、フランス軍士官である著者が日本滞在時の経験をもとにして、1922年の東京と横浜を舞台に描いたフィクション作品です。今日の日本ではほとんど知られることのない作品ですが、1924年にパリで初版が刊行されてから大いに好評を博し、幾度も再版されている他、英語訳版、ドイツ語訳版、ノルウェー語版、そして日本語訳版までもが刊行されたベストセラー作品です。本書の特徴は、フィクション作品として著されている一方で、当時の日本の人々の姿や、考え方、習慣といった日常生活の実に細やかな部分を、外国人の視点から実に生き生きと活写していることで、大上段に構えた日本論には見られない、当時の日本の姿を垣間見ることができます。また、本書は限定110部という極めて限られた部数しか発行されなかった、彩色挿絵がふんだんに採用された豪華本ですが、おそらく唯一の、そして最後の著者自身による改訂増補版であることに大きな意義があります。加えて、著者直筆の修正草稿が4葉付属していることから、おそらく著者がさらなる改訂のために関係者に贈呈した1冊だったのではないかと思われるものです。

 本書の著者として記されている「トマ・ローカ(Thomas Raucat)」という名前は、実は日本語の「とまろうか」にかけて考案されたユニークな筆名であることが分かっています。著者の本名は、ロジェ・ポアダッツ(Roger Alfred Emmanuel Poidatz, 1894 - 1976)で、フランス軍大尉として、マルセル・ジョノー少佐ほかととも「1921年(大正10)年9月から9カ月間、東京と所沢で陸海軍双方の関係者に対する一連の講演を行い、航空術の編成と利用法を」日本軍関係者に教授し、「下志津で航空写真撮影の教習」を行なっています(後述書より)。このポアダッツらフランス軍の航空技術を専門とする派遣団の来日の背景とその内実については、クリスチャン・ポラック氏にの詳細な研究によって明らかにされていて、本書刊行の背景を理解する上で非常に参考になります(クリスチャン・ポラック / 鈴木真二編『日仏航空関係史:フォール大佐の航空教育団来日100年』東京大学出版会、2019年、をはじめとするポラック氏の著書を参照)。ポラック氏の研究によりますと、第一次世界大戦の終結と戦後情勢を見据えたフランス軍関係者が、かねてから日本からの航空技術取得のために派遣された日本軍士官の受け入れを行なっていたこともあり、第一次世界大戦末期に当時最新の軍事技術として注目されつつあった航空機製造技術、ならびに運転、運用を含めた総合的な人材育成を、本格的に日本に対して行うことが決められました。この取り決めに従って、1918年にフランス遣日航空教育軍事施設団が派遣され、フォール中佐(のち大佐に昇格、Jacques Anne-Marie Vincent Paul Faure, 1869 - 1924)を中心としたフランス軍関係者50名が、1920年まで日本に滞在して、航空技術とのその運用に関する各種教育、技術移転に尽力しました。このフォール使節団は、「知識、ノウハウ、技術移転の質の高さと日仏両国の人的関係強化」(前掲書74頁)に成功して大きな成果を収め、「より一般的に日本におけるフランスの影響力と産業上の利益の観点から、その効果を持続させる」(同上)ために、これに続いて1921年9月に派遣されたのが、本書の著者であるポアダッツを含めたジョノー使節団でした。ポアダッツが来日した時期は、詩人としても名高い親日家クローデル(Paul Claudel, 1868 - 1955)が日本大使として着任した時期にあたり、日仏関係の強化が緊密に図られた時代でもありました。従って、ポアダッツの日本軍関係者への航空技術教授という任務は、今後の日仏関係を盤石にするための極めて重要な、軍事・外交任務であったといえます。

 このように非常に重要な任務を帯びて日本にやってきた著者であるポアダッツは、一方で単なる軍人としてだけでなく、好奇心旺盛な、そして観察眼に優れた著作家としての才もあったようで、このもう一つの才能が結実した作品が本書であるといえます。この作品は当時日本でもすぐに注目を集めたと見えて、高瀬毅の翻訳によって『御遠足』という邦題で、1927年に空前社から出版されています。この邦訳本の巻末にある「訳者ノート」によりますと、この邦題は、高瀬が独自に設けたものではなく、「原作者自身の和訳執筆」によるものだとされていて、ポアダッツが日本語訳版の刊行にも大いに関心を持っていたことが伺えます。この邦訳本には原著に掲載された推薦文も邦訳されていて、その評によりますと「此の物語は、小説と紀行との中間を狙ったもの」で、「驚嘆すべき『独創的な新形式』」を用いた作品として「『小説における構想の新境地』を発見、開拓した」作品として、高く評価されていて、その内容を次のようにまとめています。

「単なる回想録に非ず、日記に非ず、自叙伝に非ず、備忘録に非ず、事件の報告書に非ず、冒険小説に非ず、手紙小説に非ず−異国日本の風情を写すに、いかに斬新、警抜なる表現様式を、作者は用いたか!
 小説の主題は極めて簡単《日本における遊興の一情景》である。それぞれ相異なる8人物を拉し來り、彼等によって洩らされる各人各様の独白に新形式を藉りて、前後いささかの重複、混雑の虞れなく、極めて自由奔放に、有機的に演繹しつつ機能しつつ、読者を導いて、当方の遊興に遊ばしむ!」

 本書の筋書きは、国際連盟から派遣されたスイス人が、上野で開催されていた平和記念東京博覧会の会場に来ていた二人の若い日本の女性を江ノ島への旅行に誘い、そこにたまたま居合わせたスイス人の知人である日本の実業家とその友人たちが、それぞれが異なる思惑を持ちながら江ノ島旅行に出かけるという、大変シンプルなものです。ただし、その物語の展開のさせ方が非常にユニークで、全8章各章で、物語の視点、語り手が全て異なり、各人の異なる視点から物語が立体的に展開していくという形式を取っています。また、作品に登場する人物が非常に多彩であることも大きな特徴で、幼児を連れた母親、時計屋の娘とその友人、江ノ島の旅館の女将、江ノ島の芸者、新聞記者、大学教授、学生、駅長、警察署長といった、実に様々な人物の視点から物語が紡がれています。著者はそのいずれの人物に肩入れするわけでもなく、国際連盟から派遣されて帝国ホテルに滞在しているスイス人も含めて、それぞれの人物を相対的に、時にシニカルに描き出しています。日常生活の実に細かな部分まで描かれていることも本書の大きな特徴の一つで、日用品やお土産物の買い物の場面、着物の流行りと装いに関する悩み、友人を接待する際の作法と見栄など、当時生活していた市井の人々の様子や、考え方などが生き生きと描かれています。

 例えば、「妙齢の娘」である時計屋の娘が、スイス人から江ノ島旅行に誘われて、その準備に勤しむ場面は、次のように描かれています。。

「実を言えば、毎日でも着物を着替えるのが本当なんでしょうけれども、あたしみたいな貧乏者には、そんなこと、とても、できっこないですもの。それでも、出かける折には、せめて、どこかひと所なりともこの前のと違った服装をして行くように、いつも心懸けているにはいるんですけど。」(邦訳書14頁、現代仮名遣いに修正)

 彼女は江ノ島旅行に誘ったスイス人その人には、ほとんど関心がないのですが、友人と江ノ島旅行に出かけられることが楽しみで、またその際の装いをどうすべきかに大いに頭を悩ませています。

 ところが、出発前の準備の不手際で彼女を含めた女性3人の一行は、スイス人と約束した予定の汽車に乗り遅れてしまいます。一方、待ち合わせの時間に彼女らの姿を見つけられないまま汽車が発車してしまったことに焦るスイス人の視点からは、その心情が次のように描写されています。

「先づ、彼女がエノシマ行を断念している筈はなかった。なぜって僕をたしかに愛してたのだから。」
「ことさら着物なんか着替えて来るというのがそもそも間違いのもとだ。外出する毎に衣装を違えて行くというこの国の婦人の愚かしい風習は僕の了解に苦しむところである。」
「乗客の中にも、この前の土曜日に会合を約したムスメさんの姿は見当たらない。あそこにいるではないか!いやあれは彼女の友達だ、昨日と同じ着物を着ている。いやいやあれも人違いだ。」(邦訳書93, 95, 96頁、同上)

 当時西洋白人男性が、日本の女性を「ムスメ」と呼んで大いに憧れたことを反映させて、二人の心情の正反対ぶりをシニカルに描き出しています。

 実はこのスイス人、日本での友人である実業家からも同じ江ノ島旅行に誘われていたのですが、女性一行と出かけるために、実業家一行と約束した汽車の時間をわざと一本遅らせていたのでした。この実業家は、麦藁帽子を製造している会社経営者で、国際連盟から派遣された「高貴なる人物」であるスイス人を、友人らと共に江ノ島旅行へと招待して接待するするという「国際的儀礼」を果たさんという熱意に燃えています。彼は、自社で雇用している若者(彼は、夏にしか売れない麦藁帽子を冬にも売れるよう改良した「防水防寒両用の麦藁帽子の発明に従事していて、彼の発明により会社が莫大な利益を将来あげることを実業家は目論んでいる)、尊敬する東京帝国大学のドイツ法学史の勅任教授である亀井教授、友人である弁護士にして新聞記者、時折政府の仕事も引き受けているという男性を誘って、「スイス人の先生」を駅で待ち合わせすることを約束していたのでした。ところが、「万病一切に効験ある『仁丹』」をはじめとする汽車内での「夢柳を慰めるため」の品々を用意して、スイス人男性がやってくることを待ち構えているにもかかわらず、いつまでたってもスイス人の「先生」の姿が見えません。そこで彼がこのように嘆きます。

「いや、先生もう多分この汽車には間に合うまい。察する所、博覧会の二女性が彼を遅刻せしめた主な原因だろう。いったい、西洋人には到底我々の頭で理解できない節がある。科学的教養という点においては非常に卓越した人種ぢゃが、しかし一方日常生活においては、総じて児戯阿呆にも類するが如き振る舞いをあえてして憚らんのぢゃ。」

 このように、本書は、それぞれの登場人物が江ノ島旅行という共通の目的地に向かいながら、てんでバラバラにすれ違う思惑を抱きながら旅行を続ける様を、章ごとにそれぞれ独自の視点で描くという大変ユニークな作品となっています。

 このように多彩な登場人物谷の交錯する思惑を軽妙に描きながら、著者はまた、日本の気候や、お盆などの風習、土地柄、芸者の上下関係、婚姻のしきたり等々、様々な日本紹介をさりげなく盛り込んでいて、日本のことに詳しくないヨーロッパの読者にとっては、ある種の日本案内としての役目も果たしています。日常生活に根ざした細やかな生活描写は、著者が日本滞在中に実際に見聞した出来事が素材になっているものと思われますが、わずか九ヶ月の日本滞在でしかも多忙で重要な公務をこなしながら、よくこれだけ人々の生活の中に入り込んで、多くのことを観察したものだと感心させられます。

 本書は、確かに先の評にあるように、純粋な小説作品としての高尚さを狙ったものでもなく、かといって紀行文や学術的な文明論でもありませんが、9カ月間日本に滞在しただけの外国人の筆になる作品とは思えないほど、生活感あふれる1921年当時の日本の人々や社会の姿が多面的に描かれた他に類を見ないユニークな作品となっています。

 『御遠足』は、1924年にパリの著名な出版社であるガリマール社(Gallimard)から刊行され、それ以降何度も版を重ねていて、邦訳書が底本にしたという1926年3月の刊記のあるものは、第52版であったということからも当時の大変な人気ぶりが伺えます。『御遠足』は、基本的に内容の改訂が見られないまま毎年のように増刷を繰り返していきますが、1927年に刊行されたガリマール社の特別版は、藤田嗣治による挿絵を採用したことでさらなる人気を呼びました。この「フジタ版」は日本でもコレクターズアイテムとして比較的よく知られている版ではないかと思われます。『御遠足』はこれ以外にも、コレクターに向けた部数を限定した特別版が数種類存在しています。

 本書は、「フジタ版」刊行の翌年、1928年に刊行されたもので、それまでの版とは違ってガリマール社からではなく、「愛書家協会」(Les Bibliophiles du Papier)から刊行されています。特筆すべきは、この版において著者による増補改訂が施されていることで、本書巻末にはその旨が明記されています。また、前年に刊行された「フジタ版」から挿絵を全て変更して、新たに当時売れっ子の挿絵画家であったトゥシェ(Jacques Touchet, 1887 - 1949)による挿絵を新たに採用しています。この挿絵は全てポショワールと呼ばれる20世紀前半にフランスで流行した彩色版画で、本書で展開される世界が視覚的にも大変鮮やかに表現されています。しかも、この「協会版」は、用いる用紙や装丁、専用の箱、トゥシェのデッサン集本2冊(本書に採用されたイラストを収録したものと、未採用のイラストを収録したもの、いずれもモノクロ)を添えるという非常に豪華な造りになっていて、それまでの版にない内容、装丁を備えた版となっています。用紙も非常に上質の紙が採用されていて、装丁は購入者自身の趣味に応じて施せるよう、鮮やかな彩色がほどされた表紙厚紙を添えて、未製本の状態で配本されています。このような特徴を備えた本書を、仮に「協会版」と呼ぶとすれば、この協会版は、それまで幾度とも版を重ねていた『御遠足』を、著者自身の増補改訂とともに、新たに採用した挿絵を添えて全面的に刷新を施した、いわば決定版と呼ぶべきものと言えます。

 本書がさらに重要であるのは、著者による直筆の修正草稿が4枚挿入されていることで、これを見る限り、著者は、この「協会本」をベースにしてさらなる増補改定を計画していたことが伺えます。本書は、限定110部のうち、第7番とされ、予約者名が、Marcel Blancheteau となっています。店主はこの人物の経歴を特定することができていませんが、予約者名が印字されたページには、著者による献辞が直筆で記されていることから、本書の予約者であるこの人物は、著者と親しくまた『御遠足』の編集にも関係していた人物ではないかと思われます。こうした本書の特徴と挿入された修正草稿の存在に鑑みると、おそらく著者は、それまでのガリマール版に何らかの不満を抱いており、ガリマール社とは異なる版元から自身が理想とする形で『御遠足』の刷新を試みていたのではないかと推察されます。

 しかし、その一方でその豪華すぎる造りによるものと思われますが、この協会版が刊行された部数は僅かに110部(その旨が巻末に明記されている)しかありませんでした。その結果、著者による増補改定を施し、挿絵を刷新した重要な版であるにもかかわらず、ほとんど市場に流通することがなく、戦後まで増刷が続いた『御遠足』は、この「協会版」を無視する形で、旧来の内容が用いられ続けることになってしまったのは何とも皮肉な話です。とはいえ、著者が最も理想とする形で改訂を施した「協会版」こそが、決定版とみなされるべき版であることには変わりなく、しかもそこにさらなる改訂を加えようとしていたことは、著者がこの作品に、人かたならぬ情熱を捧げていたことを示すものと言えるでしょう。

 なお、本書に含まれる付属資料を簡単にまとめますと、下記の通りとなります。

・著者直筆の修正草稿4葉
・出版社から購入者(マルセル・ブランシャトー)宛の記念カード(彩色挿絵付)と封筒
・出版社主催の1928年11月28日晩餐会メニュー(表紙と同じ意匠)
・トゥシェのデッサン集①(本書に採用されたイラスト、未彩色、未製本)
・トゥシェのデッサン集②(本書に採用されなかったイラスト、未彩色、未製本) 
・専用の厚紙装丁
・上記全てを収めることができる専用の箱

本書は多数の付録が備わっているが、全てが収められる専用の箱(スリップケース0が付属している。
専用の箱と装丁用の厚紙
書物表紙
購入者がそれぞれ好みに合わせて製本できるよう、未製本、未裁断の状態となっている。
限定わずか110部のうちの第7番。予約者のみに販売されたようで、予約者名が活字で印字されている。さらに本書は著者による直筆の献辞も添えられている。
タイトルページ。
著者による序文。この序文は少なくとも邦訳書にはみられない。邦訳書の底本であるガリマール版に存在するのかどうかは要確認。
序文末尾。T.R.というのはもちろん筆名(Thomas Roucat)のイニシャル
舞台は「東京、1922年6月10日、土曜日、午後3時」から始まる。博覧会が開催されている上野公園の池の目玉「水上飛行機」に乗り込もうとする二人の若い日本女性と、それを追いかけるスイスの男性、さらに彼を追いかける日本の実業家、彼らの邂逅から物語は始まる。
水上飛行機で乗り合わせたスイス人から江ノ島旅行に誘われた「妙齢の娘」はその準備に勤しむ。「おや、もう朝の5時半だわ!時間の経つのはやいこと!さ、これからすぐに身支度にかからなきゃ、10時の汽車までには間に合わないわ。だって折角ああやって誘って下すった、あの外人の方の御親切を無にすることはできないし、ましてこちらからお誘いしておいた、あのお二人とのお約束を違えるようなことは、なおさら出来っこないわ。お二人の方って、それはきのう御一緒に博覧会見物に行って、とうとうこんな思いがけないことになってしまった、あたしの第の仲良しのお徳さんと、もう一人は近所の奥様だったわ。郊外散歩をなさるのは、きっと奥様やお坊っちゃまの御からだに好いにに違いないわ。...」
「翌年にはもう前の年の着物は着ないのが普通なんです。だって一つだけ年をとると、それだけ着物の色合いも地味に、柄合ももう少し小さくならなければならないんですもの。ですけど、それがこんな事情から、もう一年用いられるようなことも、ままないではありませんわ。たとえば、あたし菊の模様のついた帯はたった一筋しか有ってないんですの。これは去年の秋国府津の祖母さんとこへ遊びに行った折に、祖母さんがあたしに買って下すったものなんですわ。ところがそのうちに菊の季節が過ぎ去ってしまって、そのためついにその帯を締めて東京へ帰る機会が無くなってしまったんですのよ。そんなわけで、今年になってその帯を締めたからといって、べつにおかしなこと、ないんじゃないでしょうか。その帯は四十五円からもっと出ていただけに、ずいぶん立派なものですわ。でも、あたし、往来で女の人達から、買いたての真あたらしい帯をしめてる、といったような目つきで見られるのが、なんだか極まりが悪いようだわ。」
「わしが自分の会社で暫く時間を過してから、停車場に駆けつけたのは、9時10分前じゃった。9時40分の発車迄にはまだ小一時間ばかりも間があった。だが、そうゆっくりも構えてはおられん。こうして知人を招待したからには、主人役たる者は、先づお客様方の御来着以前に、万端の準備を調えて、然る後その御到着を万事引受顔で笑顔を以て停車場の玄関先に御出迎えするんが、当然じゃろう。作用、もうぼつぼつやって来るに違わん。で、わしは出札口に行って、藤沢までの二等往復切符を5枚ほど買ったんじゃ。江ノ島行きは此処で乗換えんけりゃならん。わしはなぜ白切符にしなかったかというと、普通列車には一等車の連結がないんじゃ。尤も皇族の方が何処かへ御出掛の際は、無論、臨時に一等車の連結があるんじゃが、それは皇族方の専用とされておって、一般人民の乗車は禁ぜられておる。...」
実業家の「わし」が招待した、会社で目をかけている青年「高森君」、「深遠な学識の所有者」である「亀井教授」、「わしより若年であるにもかかわらず、遥かに社会的に優勢なる人物」である弁護士「山口氏」が集まるも、旅行の主役であるはずの「外人先生」がいっこうに現れないため、一行は諦めて先に出発することに。
普段は礼儀作法を非常に重んじる日本の男性連中が、列車に乗り込むと自分の家の中にあるかのように衣服を脱ぎ捨ててリラックスし始める様をコミカルに描く。「ひどい暑さじゃった。こういう時においても猶且つ着物を脱いではならんという法はあるまい。汽車中では、家におるときと同様、楽に寛いで然るべきじゃ。こういう時には、西洋の着物は単に夏と云わず、冬に於いても亦極めて便利と言わんけりゃならん。早速、わしは靴を脱いで腰掛けの下に入れる。次に帽子と上衣は頭の上の網棚の中へ。それからネクタイを結んでおるゴム紐を外して、首枷を取り除ける。ズボン吊りを外し、白麻のズボンを脱ぎ、それを丁寧に畳んで置く。たといアメリカ人の面前だって構うことはないさ。さらに胸のボタンを外して絹のワイシャツまで脱いじゃった。」
一方、その頃「外人先生」は実業家の約束の時間に意図的に遅刻して、「ムスメさん」と一本後の汽車で待ち合わせるために準備中。「月曜日だった。僕がウエノの博覧会場で逢った美しいムスメさんを例の手ですぐに誘惑してしまってエノシマ行を約束したのは、ちょうど今日の月曜日になっていた。夜が明けると直ぐに僕は目が覚めた。帝国ホテルの侘しいベッドの中で転々と寝返りを打ちながら僕はしずかに今日の計画をめぐらしていた。僕を招待してくれたニホンの友や彼の友人等を乗せて遠くへ運んでいく9時45分の列車にはわざと遅刻することにした。その次にしよう。そうすれば僕の可愛い恋人もきっとその列車に乗り込んでるに違いない。それともいっそのことオオイソあたりまでその汽車で行っちまうかしら。オオイソには僕の懇意な旅館もあるし、これまで幾度も行ったことがあるんで、僕らの逢瀬を楽しむには持って来いの所だ。」
「鏡の前に立って、爽やかな朝の気分の中に着物を着た。そして鏡の中の自分の姿を前後左右朗らかな心で眺め回した。僕は人を魅するに足る立派な風采を備えているのである。おっとりと落ち着いた感じのするクリーム色の三揃いの夏服、淡みどり色の縞の入った桃色の絹シャツ、ネクタイはフィリピンの或る女の夏羽織を切って拵えてもらった錦紗である。わすられた恋の形見!なのだ。ピンは養殖真珠の大きな珠を付けたもの。これを買う時ニホンの証人が何やら仕切りに吹聴していたけれども僕には何が何やらさっぱり要領を得なんだ。上衣の胸ポケットからは純白の絹ハンカチの隅を覗かせて置く。出し過ぎては下司に見える。ほんのちょびっとで宜しい。そのハンカチには白兎の絵が描いてあってはみ出た角の所がちょうど兎の耳になっている。べつだん珍しいという程のものではないけれども、一昨日から知り合いになったあのムスメさん達を喜ばせるには充分である。これも彼女等の御機嫌を買う一つの手段であるかもしれない。」
ところが肝心の「ムスメさん」たちは一向に姿を現さない。ついに汽車は出発の時間が近づき、次々に乗客が雪崩れ込んでくる。「構内のトンネルから吐き出される下駄の音はあたかも活動写真の機関銃のようだ。いずれも皆な早く行って好い場所を占領しようと急ぐ人々の群である。僕は目を皿のようにして見張っていた。そこへ突然ガヤガヤ喋り合いながら一団の乗客が盛り上がってきた。そしていきなり三等車目がけて飛び付いて行った。みんな遊覧に出かける連中である。ニホン人は何か見物にでも行くより外には滅多に外出しない。しかも物見湯山の好きな国民である。そのお陰で今度僕は大いに得をしたのだ。もし若いムスメ達が毎日家にばかり引込んでいて少しも外出しないでいたら、おそらく彼女に巡り合うような事もなかったであろう。...」
「ムスメさん」達のためにトランクいっぱいのプレゼントを用意してまで臨んだ旅行はいったいどうなるのか。結局「ムスメさん」達と合流できないまま、発車してしまった車内であれやこれやと展開される彼の妄想や、プレゼント購入の際の挿話などが展開される。「僕は呉服屋の番頭に、彼女の髪型から、容貌から、年齢格好に至るまで詳しく説明をして、なおその上に、空間に彼女の華奢な身体つきまでも描いて見せたのだ。けれども不幸にして僕は彼女が何処の生れで、どんな家柄のムスメさんであるのやら、そんな事は一切知らなかった。すると番頭の奴、広い畳の上に10枚ほど衣装を並べて、これだけ全部お買いなさいと言って勧めた。そのうち1枚だけはたしかに彼女に似合うだろうと思われるものがあった。然るにその価格をきけば、植民地帽の下で僕の頭髪が一時的に逆立つほど途轍もない高価なものだった。商人は僕と折り合いをつけるために値段をその半額に負けた。しかし、これらの衣装が前に誰も手を通したものではないという保証がつかぬ限り、何だか買うのが厭な気がした。...」
かたや、先に到着した日本の実業家から、後に到着するであろう外国からの貴賓客とそのおt連れの方々への対応を依頼された藤沢駅の駅長と警察署長は、緊張しながらも準備に余念がない。「自分は藤沢駅の駅長である。自分の職責は重大である。からして、自分は毎朝起床すると同時に、天皇陛下に対してかくも重要な且つ名誉ある職務を授け給える事を、衷心より感謝するのである。(中略)ところで本日は、我が同国人の一人より実に厄介千万な且つ前例なき使命を委任せられたのである。もっともそれは自分の職権の一部に属する事ではある。問題は第79号列車で当駅に下車する筈になっている外人旅客に対し、特に又彼に同伴する婦人客に対して、注意していて貰いたいと言うのである。この使命たるや、自分一個の手に余る重大な事柄である。からして、自分とりあえず村の警察署に電話を掛けたのであった。...」
日本の生活で重んじられる「上座、下座」をめぐる駅長の逡巡がコミカルに描かれる。「ふとその時自分の胸に浮かんで来たのは、席次問題であった。接待の時刻は刻々に切迫して来ている。署長と駅長とは果たして何が上席なのであろうか。一寸面倒な問題である。自分は鉄道大臣を代表する者である。からして、大臣閣下の代理者として、我が国の交通機関に依り第79号列車の第7843号室に乗車された、其の外国名氏の到着に際しては当然一言の挨拶を述ぶる可き権能を有する者であると信ずるものである。然るに署長におかれては、いわば天皇陛下の片腕にも相当するものあって、一切の警察行政の代表者なのである。(中略)自分が名も無き一藤沢駅長としてかの外国名を接待したと言う事実が、もし万一外人自身の口から言い触らされでもした暁には、それこそ自分の今後の栄進に関わるものである。が、一方又自分が上席に就くことによって、畏友署長の感情を害う事でもあったら、猶更我身の前途に危険を及ぼすのである。...」しかし、実際に二人が会ってみると互いに頭を垂れて席次を譲り合って話がまとまらない。。。
続いて一行が宿泊することになっている旅館「梅松屋」の女将の視点から物語が紡がれる。「手前はこの梅松旅館の女あるじといたしまして、島の入り口の所まで、西洋からお見えになりました御教授のお客様を御出迎いに参っておりましてムんす。かねてご贔屓さまにあづかっておりまする実業家の旦那からお友達を引っ張って来るからと仰しゃいまして、前もって手前共に御通知下すっておりました。そして手前御名代と致しましてその西洋のお客様をお出迎えして呉れとの仰せでムんした。委細かしこまりまして手前『お花』と申しまする19歳になります年長の女中を一人引き連れまして、参じておりました。...」
「...一台の自動車が桟橋の上に差しかかって参ったんでムんす。あの橋の上を自動車でお通しになるなど、これまでまだどなた様もなさったことがムんせんのです。それに第一危険なんでムんすよ。...自動車が橋の中ほどまで参りますと、どなた様かお車をお降りになったんでムんす。...お客様はそれから暫く自動車の先きにお立ちなすって、歩いていらっしゃいました。そのお姿がだんだんはっきりと手に取るように見えて参りました。ひょいと気がつきますると、いつの間に知れわたったんでムんしょう。西洋人がお見えになるという評判がもう島一ぱいに拡がっておりましたんです。まアそれはそうと本当に御立派な御方ですこと!失礼なことでも起こりませんと宜しいんですこどまア、この見物人たち、まるで黒山のように押し寄せて参りました。ひょいと見ますると、おャ、まア大変です!自動車が海の中におっこっちゃったんですわ!...」
「ムスメさん」達に会えぬまま、梅松屋の風呂場にて先着していた実業家一行と会うことに。「突然手前が西洋の御客様をこちらに御連れ申して参ったんでムんすもんですから、みなさんちょいとびっくらなすったようでムんした。なるほどね、皆さん西洋の流儀をよくご存知でいらっしゃいますんで、あちらの方はちょいとでも御自分のお肌を他人様にお見せなさるのを何んでもたいへん嫌っていらっしゃるとか云う事で、皆さんそれをちゃんと御存知でいらっしゃいますものですから、きっと御心配なさっていらっしゃるのだろうと手前じつはその時すぐに感付いたことでムんした。亀井先生はおこごみになったまま石鹸水にぐっしょり濡れまして、だらりと垂れ下がっております御顎髭をば扇をお使いなすって乾かしていらっしゃいました。しますと山口様が大きな音をお立てになりましてお浴槽の中にもう一ペンお沈みになりました。それと入れ違いに御得意様の実業家の旦那と技師のお二人がお浴槽からさッと元気よくお上りになりまして、西洋のお客様の前に立ちました。実業家の旦那はお浴槽からお上りなさると、西洋のお客様と西洋式に長いこと握手をなすっていらっしゃいました。それから高橋様を御紹介せになりましたんです。そこで今度は高森様が握手をなさいました。あたくしはお湯のとばしりがかかりませんように、ずっと遠くに離れましてお湯槽の隅っこの所に控えましてムんす。」
今度は、「妙齢の娘」から江ノ島旅行に誘われた太郎さんの母親の視点へと移る。「きょうの江の島行には、行こうか行くまいかと、ずいぶん私まよわされたんですのよ。でも、當年とって2歳になる、長男の太郎坊が嘸ぞ喜ぶだろうと思って、実は土曜日の夕方、時計屋さんのお嬢さんがお友達のお徳さんと一緒に宅に誘いにいらっした時、私すぐにお請合をして終ったんですの。」
「太郎坊」のためにリボンのついた夏帽子を買って「宅に帰ってみると、もう娘さん達ちゃんとやって来てました。二人とも、眩しいように着飾ってお天気はよし、もういそいそと浮き立っていました。そして、もしか汽車に乗りおくれでもしたら大変だから、早く早くと言って、しきりに急きたてるのでした。ですけど、いくら何でも、お客さん方に、お茶も差上げずに置くわけにはゆきませんですわ。娘さん達、交る交る太郎坊のおべべの綺麗なことを、しきりに褒めそやしたりして、太郎坊をあやして下すってたんですの。母親の身にとって、これくらい嬉しいことは、ないんですの。...」
結局、出発前に急な用件が重なって、3人は約束の汽車の時間に遅れてしまう。気を取り直して、次の汽車で一行は江ノ島へと向かうが、二等車に乗車するのに気が引けて三等車に乗車する。「お婆さんに対しては、男子の方あまり誰も席を譲ってくれないようですわ。だって一人で自由にどうでもなるからですよ。するとお婆さんは後ろ向きに、陰険な顔付をして暫く立っているのです。そして少しでも間隙があるのを見付けたが最後すぐに二人の男子の間に、まるで雷様でもおっこったように腰を下ろすんです。それにお婆さんは痩せ細っていなさるから、螺錐みたいに、二人の間に奥ふかく割り込んで行くことがお出来なさるのです。こうやって一分間の後には、完全に其処の座席を占領してしまうんですの。」
一行は片瀬に到着して土産物や飲食店の通りを抜けて海へ。「目の前に砂浜が現れ、その先にすぐ海がひろがってるではありませんか!まあ海が、青々とした海が、活き活きした塩辛い海が、鏡のように目の届くかぎり、遥かに遥かに連っていました。入江の向う岸は、黄色く青々とした一線を引いたように見えていました。そうして左手には、華奢な長い長い桟橋の末に、あの神秘な江の島が、緑につつまれて踞まっているのでした。私たちの傍では、渚の上で、どこかの家族連れの人たちがみんな、さっき汽車の中のお行儀は何処へヤラ、肌着まで脱いでしまって、さかんに笑い興じながら、海の中に坐ってました。」
さらには実業家一行の宴会のために「梅松屋」の女将からお声がかかった芸者の語りが続く。「いち度だって有れあしないワ、これまで、異人さんのお側近く出ようなんて、思ったこと、わたしだからほんとに思いがけなかったわヨ、梅松屋からお座敷が掛ってきて、姐さん達といっしょに、異人さんたちの歓迎会に出なくちゃならんようになるなんて。だけど、いい塩梅だったワ、わたし、せんから写真機を一台買いたい買いたいと思ってたんだから。写真機といゃあ、もちろん景色やなんか写すんが役目なんだけど、そのほかに、もっと重大な任務があるのヨ。装しよく品だワ、やっぱし一種の、ぜいたくな。此頃じゃ、それをもってなきゃ、なんだかそう、肩身が狭いようでネ。」
体調が悪くなったと訴えるスイス人は、そのまま梅松屋に宿泊することを希望して、実業家一行は宴会の後に先生を残して先に東京へと帰っていく。果たして彼の「逢瀬」はどうなるのか。。。
巻末に本書が110部限定あることなど、この特別版の特徴が記されている。
本書に挿入されている4枚の著者直筆の修正草稿。
草稿①
草稿②
草稿③
草稿④
出版社(愛書家協会)から購入者に贈られた記念カードとその封筒
本書刊行を記念して出版社が開催したと思われる晩餐会のメニュー表も付属している。本書表紙と全く同じ意匠を転用している。
さらに2冊のデッサン集が付属している。1冊は、本書に収録された挿絵を収録したもの。
未製本、未彩色の状態である。
もう1冊は、本書に採用されたなかったイラストを収める。
作品の世界観をより味わう上ではとても興味深い資料。
(参考)1927年に刊行された邦訳版。箱入りの立派な本で、この作品がフランスで高い評価を受けていることを箱に記している。
(参考)邦訳本の外観
(参考)邦訳本の巻末に掲載された訳者の注意書き。