書籍目録

『世界の偉大な君主の劇場、ならびにその国家の偉大さの要因について(世界誌)』『国家理性論』ほか合冊

ボテロ / レブリョーザ訳

『世界の偉大な君主の劇場、ならびにその国家の偉大さの要因について(世界誌)』『国家理性論』ほか合冊

スペイン語訳版 1605年 バルセロナ刊

Botero, Giovanni / Rebullosa, Fray Jame (translator).

THEATRO DE LOS MAYORES PRINCIPES DEL MVNDO, Y Causas de la Grandeza de sus Estados, …CON CINCO TRATADOS DE Razon de Estado:…

Barelona, Sebast. Matevad and others, 1605. <AB2020284>

Sold

Edition in Spanish.

8vo (9.0 cm x 14.3 cm), Title., 7 leaves, pp.[1], 147 leaves(numbered 1-147), 6 leaves (handwritten for 148-150), 157 leaves(numbered 151-287), Later leather bound.
C3(20)上部余白破れ、L3(83)印刷に乱れ(乱丁)、S4-6( 148-150)原本欠落のため手書きによる補填。所々書き込みやシミが見られる。

Information

著者独自の政治哲学体系に裏付けられた地理学書において展開された日本の国制分析、先行して出版された1603年刊行スペイン語訳本とは大きく異なる訳本

 本書は、世界各国地域の歴史と地理を論じたボテロ(Giovanni Botero, 1544 - 1617)著『世界誌』(Delle relationi universali. 1591-1618?)のスペイン語訳版(抄訳)で、1605年にバルセロナで刊行されています。ボテロの『世界誌』は、最新の世界情報を集約した当時のベストセラー本で、著者の生前に夥しい数の異刷が、著者没後も様々な改訂版が、そして他言語への数多くの翻訳版が、というように多種多様な形で刊行され続けたため、同時代のみならず後年にも多大な影響を与えました。同書は日本についての記述も少なからず含んでおり、これらの記述は幅広い層の読者に提供された汎用性の高い日本情報として非常に重要な欧文日本関係記事と言えるものです。また、ボテロの『世界誌』は、単なる地理歴史情報を詰め込んだだけの著作ではなく、彼の政治哲学書の主著である『国家理性論』(Della Ragion di Stato. 1589)や『都市盛衰原因論』(Delle cause della grandezza e magnificenza delle città. 1588)で展開された政治哲学体系と密接に関係して著されていることに大きな特徴があります。

 著者のボテロは、16世紀の後半から17世紀はじめにかけてイタリアで活躍した著作家、聖職者、外交官です。元々イエズス会士でもあったボテロは文才の誉れが高かった一方、その浮き沈みの激しい性格により周囲との衝突が絶えず、ついにイエズス会を放逐されたという過去をもっていますが、ローマ教皇庁周辺の高位聖職者らからの庇護を受けるようになってからは、説教者、外交官として大いに活躍するようになって名声を高め、1585年から1595年にかけてのローマ滞在期は、本書をはじめ『国家理性論』『都市盛衰原因論』などの名著を数多く著しました。両書は後述するように、国家のあるべき姿とその方策について論じた書物として後世に多大な影響を与えたことで知られる書物ですが、本書は、単なる地理学書ではなく、両書で展開されたボテロ独自の政治哲学体系に裏付けられ、また密接に関係する書物として著されている点に大きな特徴があります。

*ボテロ『国家理性論』『都市盛衰原因論』とその特徴、ボテロの伝記については、下記邦訳本の訳者である石黒盛久氏の優れた解説が非常に参考になり、この解題の多くも同書解説によっています。
・ボテロ著 / 石黒盛久訳『国家理性論』風行社、2015年
・ボテロ著 / 石黒盛久訳『都市盛衰原因論』(イタリアルネサンス文学・哲学コレクション①)水声社、2019年)

 ボテロは『国家理性論』第1巻と第2巻において、国家における政治的安定の基盤が「人民が君主に対して抱く『愛情と名声(評判)』」という二つの美徳」にあり、この二つのうちより重要とされる君主の名声は「〈思慮〉(prudenza)と〈意志〉(potere)の統合を通じて獲得される」(石黒訳前掲『国家理性論』解説324頁)と主張しました。ボテロはマキャヴェルリのように、力に表象される〈意志〉を〈思慮〉に対して優先するのではなく、むしろ〈思慮〉を重視し、様々な政治的状況を複眼的な視点で比較考察することの重要性を説いて「〈意志〉と統合された真の〈思慮〉を追求」(同上)すべきとしています。そして、この〈思慮〉の探求においてボテロが重要視したのが「世界の歴史的並びに地理的事象に対する知識」でした。したがって、本書で扱われている世界各国地域の歴史と政治は、単なる教養や興味本意の知識としてではなく、『国家理性論』において、君主の極めて重要な徳として論じられた〈思慮〉の涵養に際して必要不可欠なものとして位置付けられていることになります。
 また、本書は後述する日本関係記事においても見られるように、国制の記述と合わせて各国地域の宗教事情が頻繁に論じられています。しかしながら、ボテロの宗教についての記述は、イエズス会をはじめとした聖職者の著作におけるものとはやや趣が異なっていて、あくまで国制、統治行為との関係性、妥当性という観点から論じられている点に特色があります。「法の導入を通じ神に背く人間性を是正し、人間精神に埋め込まれた本来の道徳意識を再活性化することこそが、統治行為の本質」(同上)と考えるボテロは、君主が〈思慮〉を駆使して追求する「〈目的〉(fine)」とは「社会秩序の構築」に他ならず、その礎としての「〈宗教〉(religione)」を『国家理性論』では重視しています。本書に散見される宗教論もこうした視点において記されているものと考えられるでしょう。
 このように、本書はボテロの主著とされる『国家理性論』や『都市盛衰原因論』で展開された彼の政治哲学体系と密接に関係する著作として認められている点に、大きな意義と特徴があると言えるでしょう。

 ボテロの『世界誌』は、最終的に全5巻構成とされていますが、各巻が随時刊行されていったことに加えて、異なる出版社が(時に独自の編集を加え)様々な異刷を刊行している上、ボテロ没後も多くの版が刊行され続けたこともあって、一体どの版を決定版とみなすべきなのかが非常に難しくなっています。刊行当時から夥しい数の異刷本が存在するということは、それだけ当時の読者から大きな反響と需要があったことを意味しており、またボテロ自身が幾度も改訂、増補を重ねるだけの熱意を持って『世界誌』を構築していったことを示唆しています。イタリア語原著に様々なヴァージョンが存在することを反映して、各国語訳(本書であるスペイン語訳以外には、フランス語、ラテン語、ドイツ語、英語、ポーランド語などがある)に翻訳された翻訳版も、本によってその構成がかなり異なっていて、同言語の翻訳でさえ相当異なる内容となっているものも少なくありません。従って、一口に同じ言語の翻訳版といってもそれぞれの本を比較して考察する必要があります。

 本書は1605年に刊行されたスペイン語訳版ですが、まさにこうしたボテロ『世界誌』諸本の多様性を示す実例の一つと言えるものです。『世界誌』スペイン語訳初版は、アグィアル(Diego de Aguiar)による翻訳で1599年から1600年にかけて刊行されたと言われていますが(店主未見)、その再版(Relaciones Universales del Mundo . Primera y Segunda Parte, … Vallodolid, 1603)が1603年に刊行されています。本書はこれに続いて刊行されたと思われるスペイン語訳版ですが、そのタイトルからして、1603年版とは大きく異なっています。本書の訳者レブリョーザ(Fray Jayme Rebullosa)による序文によりますと、本書は『世界誌』全体のスペイン語訳ではなく、第2巻のみの翻訳であるとされてますが、その一方で、当時すでに広く読まれていた『国家理性論』のスペイン語訳(おそらく初訳か。ただし全訳かどうかは要確認。)のほか、「中立について」「(君主の)評判について」という他のボテロの著作を合冊しているところに大きな特徴があります。他の著作と『世界誌』が合冊されているのは、上述したような著作と『世界誌』との関係が非常に密接であることを訳者がよく理解していたからではないかと思われ、この点も非常に興味深い訳本と言えるでしょう。このように同じ『世界誌』スペイン語訳をうたうものでありながら、1603年版と1605年に刊行された本書とでは、その構成が大きく異なっており、あたかも異なる書物の翻訳本であるかのような様相を呈しています。当然、両書の間には、訳文や原著解釈についてもかなりの相違があることが予想されることから、詳細な比較研究が必要になるでしょう。

 本書は全5章構成となっていて、第1章は『都市盛衰原因論』を極めて短くまとめたかのような内容で、諸国家の繁栄と安定の条件などが論じられた本書全体の概論となっています。第2章はヨーロッパ各国を、第3章はアジア各国を扱っていて、日本についての記事はこの第3章末尾に見ることができます。続く第4章は、アフリカ大陸奥地に実在すると当時考えられていた「幻のキリスト教国」であるプレスター・ジョンの王国をはじめとするアフリカ各国を、第5章は、トルコ、スペイン本国と、ポルトガルを含むスペイン支配下にあるアジア、アフリカ各国地域、そしてローマ教皇庁などについての記述となっています。店主には本書の構成が、イタリア語原著のどの版を定本としており、またどの程度、原著に対して忠実な構成、翻訳となっているのかについてなど、わかりかねるところが多々ありますが、すくなくとも先に触れた1603年のスペイン語訳版とは、その構成がかなり異なっているように見受けられます。ボテロは「陸の〈統合された〉帝国と対峙する、海上の帝国」の代表として、スペイン帝国を想定しており、『都市盛衰原因論』では海上の通称ネットワークを駆使したスペイン帝国を非常に重視していた(石黒訳前掲『都市原因声推論』解説参照)ことから、こうした二つのスペイン語訳版の間に見られる相違点とその背景についての研究は、非常に重要な課題ということができるでしょう。

 本書における日本についての記述は、アジア各国を扱った第3章の最後(125頁〜)に見ることができます。ボテロの日本についての記述は概ね、マッフェイをはじめとしたイエズス会士の著作によっているものと思われますが、後半に記述されている日本の国制(統治形態)についての考察は、明らかにボテロ独自のもので、『都市盛衰原因論』『国家理性論』の著者であるボテロの鋭い分析が展開されています。

 ボテロは、日本の地理的解説から始めて、日本が主要な3島からなる66の国に分割された国であること、大陸からは切り離された島々で構成されているため、東方の他の人々とは著しく異なる風習と文化を有していることなどを順次解説しています。また、66の国々の中で最も重要なのは、五畿内( Coquinay)のうちの著名な都市である京(Meaco)であるとしています。日本の人々の気質については、知的で勇敢であるが、名誉を極めて重んじ、辱めを受けた際は復讐に尋常ならざる執着を見せるとしていて、子供は生まれてすぐに冷たい川の水で洗われる、米から作られるワイン(日本酒)や、特殊な粉末を水に混ぜて作る茶(Chia)を好んで飲むことなど、日本の風習や食文化も紹介していて、この辺りの記述は概ねマッフェイらの記述を参照しているのではないかと思われます。続いて、日本の住居や地震が多発する地域であることに触れてから、日本の歴史へと話題が転換し、かつてこの国全体を統治していた内裏(Dairi)は600年ごろまで強大な権力を有していたが、700年以降に臣下の反乱が生じ、彼らが国を二分して統治するようになってしまい、今や何の領地も権力も有しておらず、長らくこの国は戦闘に明け暮れる状態にあると解説しています。その中で京を中心とした五畿内を手中に収めた天下(Tenca)として、まず信長(Nabunanga)が、ついで羽柴(秀吉、Fassiba)が立つようになったと述べています。

 こうした日本の概説に続いて後半では、日本の統治形態(Govierno)の解説と、それに対するボテロの分析が展開されています。ボテロによると、日本の統治形態は実に独特のもので、ヨーロッパのそれとは大きく異なっていて、君主の強大さの源泉が(ヨーロッパで)通常見られるような歳入の豊かさと臣民からの愛情にあるのではなく、統治の過酷さと君主自身の享楽のうちにあると言われています。ボテロは、このような独特の統治形態が日本で見られるのは、先に触れたように、国中で戦闘が止むことがなく、領地を治める諸侯が敵の攻撃や部下の裏切りによっていつでも転覆されうるという、極めて安定性に乏しい混乱した政治状況が原因であると主張しています。このような状況にあるが故に、諸侯が本来なすべき自身の領地や人民に対する持続的な関心を持つことがなく、また人民も、自身の領地の主が一体誰で、どのような正当性によってそれが保障されているのかが全く分からないため、諸侯や君主に対して全く愛情を抱かないと解説しています。そしてこのような混乱した政治状況にあって、天下として日本を治めるようになった羽柴は、諸侯や人民を様々な方策によって過酷な統治方法によって疲弊困憊させ、恐怖でもって政治を行なっているとしています。これに加えて、羽柴はさらなる名声を求めて中国にも強い関心を持ち同地を征服するための船団を派遣し、このために、諸侯や人民がさらに疲弊することになったと解説しています。

 また、秀吉の名誉心の強さと自身の不死性を求める貪欲さに関連して、日本の宗教についての解説も挿入されていて、阿弥陀(Amida)や釈迦(Zaca)、神(Camis)、仏(Fotoques)らを、ヘラクレスやバッカスなどの古代ギリシャ(とローマ)の異教の神々と比較しながら論じています。ボテロは、かつてローマの皇帝たちは自身の異教信仰を維持するためだけにキリスト教を迫害したが、羽柴は自身が神となることを望むという途方もない野心と狂気に駆られてキリスト教を迫害しており、これは高邁と無知のなせるひとつの驚くべき実例を示していると論じています。

 ボテロによる日本の国制に対する評価は肯定的とは言い難いものがありますが、逆にこうした混乱した政治状況をつぶさに観察することによって、君主の国家統治において一体何が重要であるのか、何が欠落してはいけないのかといった、政治的教訓を見出すための実例として重視されているようにも見受けられます。ボテロ自身は日本に対して独自の情報を有していたわけではありませんが、元イエズス会士にして、天正遣欧使節も謁見した教皇シクストゥス5世の傍にあったボテロならではの、日本についての豊富な情報源と独自の視点を駆使した記事を本書に見ることができるでしょう。

後年になってから施されたと思われる装丁。
見返しにはマーブル紙が用いられている。
タイトルページ。
役者による読者への序文冒頭箇所。
目次①
目次②
目次③
目次④
目次⑤
本文冒頭箇所。
本書における日本についての記述は、アジア各国を扱った第3章の最後(125頁〜)に見ることができる。
かつてこの国全体を統治していた内裏(Dairi)は600年ごろまで強大な権力を有していたが、700年以降に臣下の反乱が生じ、彼らが国を二分して統治するようになってしまい、今や何の領地も権力も有しておらず、長らくこの国は戦闘に明け暮れる状態にあると解説して、その中で京を中心とした五畿内を手中に収めた天下(Tenca)として、まず信長(Nabunanga)が、ついで羽柴(秀吉、Fassiba)が立つようになったと述べている。
日本の概説に続いて後半では、日本の統治形態(Govierno)の解説と、それに対するボテロの分析が展開されている。
本文末尾。
『世界誌』の付録として収録されている『国家理性論』。抄訳の可能性がある・
同じく付録として収録されている「(君主の)評判について」
同じく付録として収録されている「中立について」
さらにもう一つの作品が収録されているが、店主には現著の書名がまだ特定できていない。
S4-6( 148-150)は原本欠落のため、手書きによる補填がなされている。現在の装丁が施された際になされたものか。