書籍目録

『著名武将列伝』

クラッソ / (豊臣秀吉) / (徳川家康)

『著名武将列伝』

1683年 ヴェネツィア刊

Crasso, Lorenzo.

ELOGII DI CAPITANI ILLV(U)STRI SCRITTI.

Venice, Combi / La Noù, MDCLXXXIII(1683). <AB2020283>

Sold

4to (18.5 cm x 27.0 cm), Half Title., Title., 5 leaves, pp.1-257, 260(i.e.258), 261(i.e.259), 260-261, 264(i.e.262), 265(i.e.263), 264-472, Contemporary vellum
一部にシミ、虫食い穴が見られる(判読には支障なし)。

Information

イエズス会の情報に基づいて描かれた秀吉と家康、チャールズ1世らが並び立つ古今東西武将、夢の共演

 本書は、古今東西の名将とされる武人約100名をそれぞれの肖像画とともに解説したユニークな書物です。ヨーロッパのみならずトルコやペルシャ、インドや中国、そして日本の武将までもが取り上げられており、日本からは豊臣秀吉と徳川家康が選出されています。両名の肖像画は日本に伝わるそれらとはかけ離れたものではありますが、当時のヨーロッパにおける両者の表彰のあり方を示すユニークな書物として大変興味深いものです。本図が製作された17世紀のヨーロッパでは、日本の殉教者を描いた様々な銅版画作品が製作されていますが、本図は、そうした殉教を引き起こした迫害者である「暴君」としての日本の為政者を描いた同時代の作品としても、非常に興味深い作品ということができます。

 本書については、国際日本文化研究センターの無料公開データベース「日本関係欧文史料の世界」上で小川仁氏による詳細な解説が掲載(https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/005499579/)されており、非常に参考になります。同解説によりますと、著者のクラッソ(Lorenzo Crasso, 1623 - 1691)は、17世紀中葉のナポリを代表する文筆家で、自身の私設図書室を有する蔵書家、研究者でもあったようです。クラッソの豊富な蔵書の中には、大航海時代以降のヨーロッパで陸続と刊行されたアジアやアフリカ、アメリカに関する書物も多数含まれていたものと思われ、これらの記述に基づいて、クラッソは日本をはじめとするヨーロッパ以外の武将の記事を執筆したと考えられています。クラッソは、本書刊行前にも数点の書物を刊行しており、中でも1666年に刊行した『教養人列伝』(Elogii d’huomini letterati, Venezia, 1666)は、ジュリオ(Roscio Guilio, 1550 - 1591)とトッティ(Pompilio Totti, 1591 - 1639)が1635年に刊行した名著『著名武将列伝−その肖像と賛辞』((Ritratti et elogii di capitani illustri, Roma, 1635)に大きな影響を受けて、各人物の肖像画と解説文、そして散文形式の賛辞とを組み合わせるという本書に見られる叙述形式の先駆けとなった著作として重要とされています。

 ジュリオとトッティの『著名武将列伝』がヨーロッパの武将のみを対象としていたのは異なり、本書はトルコやアジア各地域の武将までもを収録していることが大きな特徴で、前掲解説によりますと、本書で取り上げられる全98名の武将は、「ヨーロッパが84名、トルコ・ペルシア10名、日本2名、インド1名、中国1名」という構成になっています。この構成を見ますと、当時のヨーロッパで、東インド、アジアと呼ばれていた地域の武将が数多く取り上げられていることがよくわかります。

 本書の巻頭を飾っているのは、何と日本から選出された豊臣秀吉で、「太閤様:日本の皇帝(Taicosama Imperatore del Giappone)」(前掲解説)として紹介されています。

「クラッソは秀吉について、まず初めに偉大な皇帝であり、悪というよりも徳に満ちた人物で君主体制を確立した人物として評価しています。評伝の前半では、秀吉が襤褸を纏い、食料を得るために森で刈って担いできた薪を町で売るほど貧しかった生い立ちに触れられ、貧乏に嫌気がさすと、刀を持って戦場へと赴き、信長に取り立てられて以降は出世を重ね、毛利勢と対峙した中国攻めでの活躍、本能寺の変以後には亡き主君への忠義と愛情を示しつつ、信長(Nobunanga)のために盛大な葬儀を挙げ、権力を掌握していく過程が述べられています。

 後半では、関白や太閤といった官名の取得、豊臣秀次一族の粛清、キリシタン迫害などが説明される一方で、朝鮮出兵に関しては秀吉自らが30万の兵を率いて大陸に乗り込み敵を蹴散らし、手を血で染めて残虐の限りを尽くしたと記されています。晩年においては、病に倒れると伏見に籠り、軍神である新八幡として自らが祀られることを望みつつ、秀頼(Findeiori)の将来を含め家康(Geiaso)に後事をを託したとされています。そして、イエズス会士の通詞ロドリゲスが秀吉を見舞ったことに触れ、1598年9月に64歳でこの世を去ったと述べられていますが、内府様(Daifusama)と名乗るようになる家康が台頭するようになり、秀吉が築き上げたけんせいも16年で幕を閉じたというところで秀吉の評伝は締め括られています。」(前掲記事より)

 小川氏の解説によりますと当時の西欧においては、重要な統治術の一つとして「偽りと欺瞞」(Dissimulazionne e Inganno)という概念があり、秀吉についての本書における記述はこの観点から論じられていることに特徴があるそうです。また、ローマ時代の歴史家タキトゥス(Cornelius Tacitus, 55? - 120?)の著作に因んだ歴史記述から現代の政治的教訓を論じる「タキトゥス主義」の傾向も見られるとのことです。クラッソの秀吉の後半生の評価は芳しいものではないにもかかわらず、肖像画に描かれた秀吉の姿は(日本に伝わるそれとは全く異なることはさておき)堂々たるもので、窓の外には「軍神」たることを願った秀吉を象徴してか、戦場の風景が描かれています。

 日本から続いて選出されているのは徳川家康で、「内府様:日本の皇帝」として47頁から取り上げられています。家康に対するクラッソの評価は厳しいもので、秀吉の死に際して「家康は顔で悲しみ、心の内では笑いが止まらなかった」(前掲記事)とされているように、狡猾で野心の強い人物として紹介されています。この辺りの記述は、当時日本に滞在していたイエズス会士パシオ(Fransisco Pasio, ? - 1612)の1598年10月3日付長崎発書簡に見られる記述とよく似ていて、この書簡は1601年にローマで『1598年の日本におけるキリスト教界報告:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』(Copia d’una breve relatione della Christianita di Giappone, del mese di Marzo del M.D. XCVIII…Roma, 1601)』として単独で刊行されただけでなく、ジョン・ヘイ(John Hay, 1546 - 1607)がラテン語で編纂した『イエズス会書簡集(De Rebvs Iaponics...1605)』にも収められましたので、クラッソはいずれかを書物を自身の図書室に架蔵していたのではないかと思われます。前掲記事によりますと「家康の評伝は、クラッソの筆力により凝縮された内容となっている一方で、曖昧模糊とした具体例に書いた記述が多く、我々が知るところの歴史的事実とは異なった事例が随所に散見され」るそうですが、「家康と秀吉の差異を血統の尊卑貴賤と結びつけることで、家康の能力を高く評価しているように見え」るという独自の記述となっているようです。

 家康についても他の武将と同じく肖像画で描かれていますが、こちらも日本に伝わるそれとは全く異なる風貌で描かれています。シャツのような衣装を身に纏っていますが、秀吉よりも高貴な血筋として紹介されている割には随分と質素な出立ちのように感じられます。記事中で家康の容姿については「恰幅の良い中背で陰気な目をしている」「徳を持ち合わせているものの、邪悪、貪欲、尊大、狡猾に塗れている」「武力に訴えず、協議により勝利を得ていた」(前掲記事)とされていて、概ねこの記述に沿ってやや暗い陰気な雰囲気の肖像画となっているようです。秀吉の肖像画では、窓の外に戦場の風景が描かれていたのに対して、家康の肖像画では落ち着いた山々の風景が描かれているのも、家康が先頭というよりも交渉術に優れた武将として描かれているクラッソの記述をある程度反映してのことではないかと思われます。

 本書では、秀吉と家康という二人の日本の武将の他にも、アジアからはムガル帝国第3代皇帝アクバル(Acbar Gran Mogol、13頁)、サファビー朝ペルシャ第5代シャー、アッバース1世(Chà Abbas Ré di Persia, 68頁)らといった著名な武将が多数取り上げられていて、またーヨーロッパから、チャールズ1世(Carlo I. Stuart Red’Inghilterra、260頁)、グスタフ2世(Gustavo Adolfo Rè di Suezia, 96頁)などお馴染みの人物も多数取り上げられています。店主には人名を特定出来な人物も多数ありますが、古今東西の武将と並んで、日本から秀吉と家康が共演を果たしている本書は、大変ユニークで興味深い書物と言えるでしょう。

 なお、本書の出版社である Combi / Là Noù は、当時のヴェネツィアを代表する出版社の一つで、特に図版を用いた書物の刊行に熱心だったようで、天正遣欧使節がもたらした衣装を纏った日本の青年の図が収録されている、チェーザレ・ヴェチェッリオ(Cesare Vecellio, 1521 - 1601)の古今東西人物衣装集(Habiti antichi…Venice, 1664)の出版社としても知られています。

刊行当時のものと思われる装丁。
タイトルページ。
献辞文冒頭箇所。
目次① 合計98名の古今東西の武将が紹介されている。
目次②
映えある巻頭を飾るのは、日本から選出された秀吉(太閤様)。
評伝はかなり詳しい内容となっている。クラッソは秀吉の前半生の振る舞いを称える一方、後半生に対する評価は厳しい。
秀吉に捧げられた散文詩。評伝の末尾に散文詩を設けている点が、類書と異なるクラッソ独自の叙述形式の一つとされる。
日本からもう一人、家康(内府様)が選出されている。
家康の評伝もかなり詳しいものとなっている。狡猾だが交渉上手な人物として描かれている。
家康に捧げられた散文詩。
ムガル帝国第3代皇帝アクバル(Acbar Gran Mogol、13頁)
フランス王アンリ4世(Arrigo Quatro Rè di Frania、25頁)
フランス王ルイ13世(Lodovico XIIi. Rè di Francia、184頁)
スウェーデン王グスタフ2世(Gustavo Adolfo Rè di Suezia, 96頁)
17世紀スペインの名将アンブロジオ・スピノラ(Marchese Ambrogio Spinola、86頁)
チャールズ1世(Carlo I. Stuart Red’Inghilterra、260頁)
店主には人名特定できないものも多数あるが、これらを解明していくのも大変興味深い作業。