書籍目録

『栄光のフランシスコ会年代記:アメリカ、ペルー、中国、日本他の活動をも含む』

マリアヌス / (日本二十六聖人殉教事件) / (慶長遣欧使節)/(アマーティ)

『栄光のフランシスコ会年代記:アメリカ、ペルー、中国、日本他の活動をも含む』

1625年 インゴルシュタット刊

Marianus, (de Orscelar).

GLORIOSV(U)S FRANCISCV(U)S REDIVIVV(U)S SIVE CHRONICA. OBSERVANTIÆ STRICTIORIS, REPARATÆ, REDV(U)CTÆ, AC REFORMATÆ; ei(j)usdem que per Christianos Orbes, non solúm, sed & Americam, Peru, Chinas, Iapones...Distincta VI. Libris, & 28 figuris...

Ingolstadt, Wilhelm Ederi, 1625. <AB2020279>

Sold

4to (14.7 cm x 19.0 cm), Front., 2 leaves, 1 leaf(text on recto, plate on verso), 24 leaves, pp.1-158, 189(i.e.159), 160-194, 163(i.e.195), 196, 197, 184(i.e.198), 199-334, 317(i.e.335), 336-384, 383(i.e.385), 386, 387, 386(i.e.388), 387(i.e.389), 390, 391, 386(i.e.392), 393-519, 550(i.e.520), 521-852, 7 leaves, plates: [26]. Modern dark blue leather(rebound).
旧蔵機関の押印あり。Ggggg3(789, 790頁相当)一葉に破れ(欠損なし)。一部のページにシミが見られるが、全体として良好な状態。

Information

これまで研究されたことがないと思われる、図版入りラテン語慶長遣欧使節記事を含む豊富な日本関係記事

 本書は、16世紀終わりから17世紀初めにかけてイエズス会と並んで勢力的に日本での布教活動を展開したフランシスコ会の活動記録を記した書物です。日本での布教活動についても全6章のうち1章(第4章)を割いて記されていて、フランシスコ会の関係者23人が犠牲となった1597年のいわゆる日本二十六聖人殉教事件について、また同会のソテロ(Luis Sotelo, 1574 - 1624)が主導した慶長遣欧使節について論じた記事を読むことができます。本書はタイトルにあるようにテキストだけでなく、口絵をも含めて全26枚の挿絵が収録されていることも大きな特徴で、日本についてもソテロと支倉常長を描いた図を含めた2枚の挿絵が収録されています。本書はこれまで、日本関係欧文図書として研究された形跡がほとんどなく、本書の日本関係記事、図版についても知られていなかったのではないかと思われます。

 本書が刊行されたのは1625年、インゴルシュタットにおいてですが、本書刊行の背景を理解する上で、この刊行年と刊行地は非常に重要です。ヨーロッパを未曾有の混乱に陥れた三十年戦争の最中にあって、同じカソリック修道会でありながらもイエズス会とそれ以外の修道会、とりわけフランシスコ会やドミニコ会とは激しい対立と政治闘争を繰り広げていました。そんな中、日本での布教活動においてイエズス会に遅れをとっていたフランシスコ会は、同会の関係者23名が犠牲となった1597年の事件を「殉教」事件として再重要視し、彼らがローマ教皇庁において公式に顕彰されることを通じて、同会の立場を高めようと事件直後から様々な運動を展開していました。ローマ教皇庁における公式な顕彰とは、すなわち当時その制度が始まったばかりであった「福者」として認定されることで、フランシスコ会がその犠牲者の中心を占めていた1597年の日本での事件がローマ教皇庁において公式に「殉教事件」と認定され、その犠牲者が「福者」と認められることにより、フランシスコ会が「日本における(公式の)最初の殉教者」を輩出した修道会の地位を獲得することを意味していました。この運動は一時的な停滞期を挟みつつも、本書が刊行された1625年にまさに大詰めの段階を迎えており、列福手続きに向けた最終段階に入っていた時期に当たることから、こうした時代背景に鑑みると、本書において1597年の殉教事件が大きく取り扱われた背景には、最終段階に入った列福手続きを確定させ、事件の意義を喧伝する意図が多分に含まれていたのではないかと思われます。

 本書に収録された事件の記事は、事件当時、日本のフランシスコ会の中心的役割を果たしていたペドロ・バプティスタ(Pedro Baptista Blazquez, 1545 - 1597)による事件以前からの日本における布教活動の記事から始まっています。ペドロ・バプティスタは、当初フィリピン総督に派遣された外交使節の肩書きで秀吉と謁見し、京都での滞在許可を得たことを契機に、いわゆるバテレン追放令が布告されていた中で公然と布教活動を展開し、最終的にサン・フェリペ号事件を契機とした1597年の殉教事件において犠牲となりました。本書では、彼の日本での活動を中心に、殉教事件の背景、殉教時の様子、生前、死後に起きたとされる様々な奇跡などが、複数の関係者の証言とともに論じられています。また、犠牲者26名全員の名簿に加え、来日以前のマニラ滞在期に日本におけるイエズス会の布教活動を非常に厳しく批判する文書を作成してローマに送り、これに対してイエズス会のヴァリニャーノが強く反発するといった紛争を引き起こしたことでも知られるフランシスコ会士アセンシオン(Martín de la Ascensión, 1566? - 1597)の記事や、犠牲者の中で最年少(12歳)であったルドビコ茨木やアントニオ(13歳)といった日本の信者の犠牲者についての記事も収録されています。

 この殉教事件記事には銅版画も収録されており、そこには、明らかに日本の人物を描いたと思われる和装の人々や処刑されるフランシスコ会士が描かれていることから、大変興味深いものです。ただこの図版では、斬首による処刑の場面が描かれており、殉教事件における重要な要素であった「磔刑」の場面が描かれたものではありません。犠牲者の列福手続きにおいて「磔刑」は、キリストの死(と復活)を想起させる最重要の要素であることから、単純に誤って斬首の場面として描くということは考えにくいため、なぜこのような図版になっているのかについては、店主には計りかねるところがあります。現時点ではこの図版がどのような意味を有しているのかについては、店主には不明ですが、専門家による当該記事、あるいは本書全体のより精緻な読解によっていずれ明らかになるのではないかと思われます。

*日本二十六聖人殉教事件とその列福過程については、小俣日登美ラポー「聖性の創り方:いわゆる日本二十六聖人の列福過程(1627)」(名古屋大学文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター編『HERITEX』第3号、2020年所収)を大いに参照。また、同氏による単著『ヨーロッパにおける日本宣教の殉教者ー遠き「インド」から学校演劇まで(16〜18世紀)』(Rappo, Hitomi Omata. Des Indes lointaines aux scénes des colléges: Les reflets des martyrs de la mission japonaise en Europe (XVIe - SVIIIe siécle)(Studia Oecumenica Friburgensia 101). Aschendorff Verlag, 2020. ISBN:9783402122112)も大いに参照。

 また、本書が刊行されたインゴルシュタットという地は、ドイツ語圏における対抗宗教改革出版物の中心地の一つであった場所で、仙台藩主伊達政宗が1613(慶長18)年にヨーロッパに派遣した慶長遣欧使節に関する、ヨーロッパ側の最重要文献であるアマーティ(Scipione Amati, 1583 - 1655?)がイタリア語で著した『伊達政宗遣欧使節記(Historia del regno di Voxu del Giappone...1615)』のドイツ語版(Relation und gründtlicher Bericht von deß Königreich Voxu im Japonischen Keyserthumb Gottseliger Bekehrung und dessentwegen außgesertigter Ambasciada an Päbst…Ingolstatt, 1615)が刊行されたものも、同地においてです。

「1590年代半ばに至るまでの時期にドイツで刊行された「日本宣教情報」の殆どは「イエズス会の日本宣教」を主題としたものであり、その多くはイエズス会氏たちの記録を情報源として用いていた。だが、1590年代末〜17世紀前半には、出版点数は少ないながらも、スペイン領フィリピンを拠点にして1580年代から日本に渡来し始めたイエズス会以外の諸修道会(フランシスコ会、アウグスティヌス会、ドミニコ会など)の日本宣教を主題に取り上げた印刷物が出版されている。たとえば、1599年にはスペイン領フィリピン総督の指示によって作成された日本26聖人殉教記のドイツ語訳がミュンヘンで刊行され、1617年にはシピオネ・アマティ作『慶長遣欧使節行記』のドイツ語訳がインゴルシュタットで刊行されている。」
(蝶野立彦「対抗宗教改革期及び三十年戦争期のドイツにおける日本宣教情報の受容と解釈-1580年代〜1630年代の《イエズス会日本書翰・年報》《天正遣欧使節記録》《慶長遣欧使節記録》の出版とその歴史的背景》」『明治学院大学教養教育センター紀要:カルチュール』第13巻第1号、2019年所収論文、79頁より。)

 本書に収録されているもう一つの非常に重要な日本関係記事であるソテロによる慶長遣欧使節関係記事は、同書の影響が非常に大きいものと思われ、収録されている図版の一部は、明らかに同書に収録された図版を参照しています。本書と同じくインゴルシュタットで刊行されたドイツ語訳版は、イタリア語原著版にはなかった支倉常長やソテロを描いた思われる図版を初めて収録した版として名高いもので、支倉常長ははっきりとその名が図版に明記されている一方で、ソテロと思しき人物は、その内容、背景に鑑みてソテロと見て間違いないとされているものの、名前が明記されていませんでしたが、ドイツ語版を参照したと思われる図版では、はっきりとソテロの名を明記しています。ドイツ語版はイタリア語原著版よりも、使節におけるソテロとフランシスコ会の役割を強調する意図が垣間見られる点に特徴がありましたが、本書における慶長遣欧使節記事は、この傾向をさらに強めたものとも言えるでしょう。ただし、その記事の内容や傾向については、イタリア語原著、ドイツ語訳版と比較照合して検証する必要があるのではないかと思われます。また、アマーティ『伊達政宗遣欧使節記』は、原著がイタリア語で刊行され、ドイツ語訳版も刊行される一方で、ローマにおける「公式言語」たるラテン語での刊行はなされていなかったため、本書における記事は、実質的にラテン語版として独自の役割を果たすことになったのではないかと考えられます。

 本書における日本関係記事が、日本二十六聖人殉教事件と慶長遣欧使節を中心としている背景には、いずれもフランシスコ会の日本における布教活動の大きな成果であることに加えて、先に言及した殉教事件における犠牲者の列福手続き上の問題も関係していたのではないかと思われます。1597年の殉教事件は、ヨーロッパにおいてフランシスコ会氏のみならず多くのカソリック関係者に衝撃を与えましたが、その一方で事件そのものを疑う声も多かったとも言われています。それも一因となって列福に向けた手続きが一時的に停滞しましたが、これを打破する大きなきっかけとなったのが、慶長遣欧使節のローマ訪問であったと言われていています。

「(前略)使節を迎えた教皇パウロ5世自身の日本のキリシタンへの書簡や、教皇本人の甥であるスキピオーネ・ボルケーゼ枢機卿(Scipione Caffarelli Borghese, 1577 - 1633)の書簡は、使節団の来訪により受領できた日本人からの書簡が、ローマにおける列福手続の推進に影響を与えたことを教示する。これはルイス・ソテロが、京都と江戸のフランシスコ会「帯の組」の会員から託された慶長18(1613)年8月15日づけの書簡である。ここには、26人の列聖を請願する文言が見られ、1604年の京坂信徒代表からの書簡内文面において見られたのと同様のレトリックが見られる。つまり、「えばんぜりよ御ひろめ候につき」罰せられたというオディウム・フィディを示す説明、また「伴天連集六人、日本人二十人、その後キリし人(キリスト)如くるそ(十字架)に懸候にて」という磔刑の証明、さらに「さんとすのくらい御座なく候へとも」と実際の聖人信仰の不在(de non cultu)を示すことがもれなく踏まえられている。
 この日本人からの要望に加えて、使節団内の日本人に26人の死の目撃者が参加していたことも、列聖手続が前進するための動機となった。(後略)」
(小俣ラポー前掲論文、323頁より)

 その意味において、列福手続きが最終段階に入っていた1625年に、その手続き推進の契機となったフランシスコ会のもう一つの日本での布教活動の大きな成果である慶長遣欧使節についての記録をローマの公用語たるラテン語で刊行することで、関係者に同会の日本での活動をより強く印象付けようとする意図があったのではないかと考えられます。

 本書はこのように日本関係の重要な記事を図版とともに収録した書物であるにもかかわらず、主要な日本関係図書目録に掲載されておらず、そのためかこれまでほとんど言及されたことがない文献のように見受けられます。古書市場に流通することもかなり稀なようで、また26枚の銅版画を完備しているものはさらに希少であると思われます。フランシスコ会の特殊な立場から記された記事とはいえ、その文脈自体が当時の日本表象形成に大きな影響を与えていることに鑑みると、本書に収録された日本関係記事、特に慶長遣欧使節関係記事については、他に例を見ない詳細なラテン語記事であることからも、今後の研究が待たれる重要記事と言えるでしょう。

比較的近年に改装されたと思われる革装丁で、状態は良好。
タイトルページ。
旧蔵機関の押印がある。
献辞文冒頭箇所。
読者への序文冒頭箇所。
目次① 本書は全6章で構成されている。
目次② 日本についての記事が中心となっているのは第4章。
本文冒頭箇所。
タイトルにもあるように、口絵を含めて28枚もの銅版画が挿入されていることが本書の特徴の一つ。
日本におけるフランシスコ会の活動記録が中心をなす第4章。冒頭には1622年に列福されたフランシスコ会士であるアルカンターラのペドロ(Peter of Alcántara, 1499 - 1562)の伝記が掲載されているが、後継の日本関係記事との関係や、文脈については店主には解明できず。
「日本二十六聖人殉教事件」を扱う記事冒頭箇所。
事件当時、日本のフランシスコ会の中心的役割を果たしていたペドロ・バプティスタ(Pedro Baptista Blazquez, 1545 - 1597)による事件以前からの日本における布教活動の記事が中心となっている。
ペドロ・バプティスタは外交使節の立場として京都(Meaci)の滞在を秀吉に許可されていたが、禁止されていたにもかかわらず布教活動を公然と行なった。布教活動の一環として病院建設などを通じて貧者救済も行なっており、そのことも本書には記されている。
キリストの死(と復活)を強く想起させる「磔刑」(Crucifixione)によって殉教したことは、犠牲者の列福過程において重要な要素の一つであった。
犠牲となった26名全員の名前も明記されている。
犠牲者の中で最年少(12歳)であったルドビコ茨木やアントニオ(13歳)といった日本の信者の犠牲者についての記事も収録され
生前、死後に生じた「奇跡」(Miracula)も、犠牲者の聖性を裏付けるものとして非常に重視された。
事件目撃者(あるいは間接的に聞き知った者)の証言も複数収録されている。
明らかに日本の人物を描いたと思われる和装の人々や処刑されるフランシスコ会士が描かれている図版が収録されている。ただこの図版では、斬首による処刑の場面が描かれており、殉教事件における重要な要素であった「磔刑」の場面が描かれたものではなく、その意味するところについては、店主には解明できず。
来日以前のマニラ滞在期に日本におけるイエズス会の布教活動を非常に厳しく批判する文書を作成してローマに送り、これに対してイエズス会のヴァリニャーノが強く反発するといった紛争を引き起こしたことでも知られるフランシスコ会士アセンシオン(Martín de la Ascensión, 1566? - 1597)の記事も収録されている。
第4章には、日本以外の中国やアフリカで殉教したフランシスコ会士の記事も一部収録されている。
本書に収録されているもう一つの非常に重要な日本関係記事であるソテロによる慶長遣欧使節関係記事冒頭箇所。個別の表題紙をわざわざ設けていることから、当時フランシスコ会が使節の成果を非常に重視していたことが垣間見える。
奥州国(Voxuani Regni)のキリスト教への改宗とソテロの功績が強調されている。
奥州の国力や領土などについても詳細に記述している。
ソテロと支倉常長が描かれた図版が収録されているのも大きな特徴。図版の一部は、明らかにアマーティ『慶長遣欧使節記』ドイツ語訳版に収録された図版を参照している。同書は本書と同じインゴルシュタットで1617年に刊行されている。ただし、同書にはない図も見られることや、「ソテロ」の名前を明記している点に独自性がある。
(参考)アマーティ『慶長遣欧使節記』ドイツ語訳版の絵入りタイトルページ。本書収録図版の一部は、これを基に反転させた図であることがわかる。
ソテロが長年にわたる地道な布教活動によって奥州国を回収へと導いたことが記されている。
オランダとの微妙な関係についても言及する記事も見られ、興味深い。
坊主(Bonzijs)の妨害と迫害にも言及している。
奥州王の近親者の改宗にもソテロが成功したことを紹介している。
慶長遣欧使節については、当時からその真正性や意図を疑う声が多くあり、それらに対する反論も展開されている。
松平、陸奥の守(Matcundaijra, Mutzonocami)、日本その他の奥州国王の伊達政宗(Idate Masamune, Rex Voxu, Iaponiæ &c.)との記述も確認できる。