書籍目録

「日本のイスノキ、ツバキについて」ほか 『ゲルマン医理学アカデミー論集 1688年号』所収

クライアー(クレイエル)ほか

「日本のイスノキ、ツバキについて」ほか 『ゲルマン医理学アカデミー論集 1688年号』所収

1689年 ニュルンベルク刊

Cleyer, Andreas...[etal.]

Plantis Japanensibus Isnoacky, Germ. Enserholz / & Tzumacky. and others [IN] MISCELLANEA CURIOSA SIVE EPHEMERIDUM MEDICO-PHYSICARUM GERMANICARUM ACADEMIAE IMPERIALIS LEOPOLDINAE…ANNUS SEPTIMUS, ANNI M. DC. LXXXVIII.

Norimberga(Nürnberg), Wolfgangi Mauritii, M. DC. LXXXIX(1689). <AB2020206>

Sold

4to (16.0 cm x 20.0 cm), Half Title., Front., Title., 31 leaves, pp.1-486, Plates: [22], Title. for Appendix, pp.[1-4], 5-279, [280], 12 leaves, Plates: [4], Contemporary parchment.
タイトルページ、図版に旧蔵機関による押印あり。

Information

ケンペルに先駆けたヨーロッパにおける最初のツバキの紹介など、日本の植物研究の原点となった論考を収録

 本書は、ベルリンの学術協会が刊行していた雑誌で、植物学に限らず、自然科学全般に関する幅広い学術論文を多数掲載しています。医学、動物学、天文学も含めた当時最新の学術成果を発表する媒体となっていた雑誌で、多くの銅版画によって解剖図や図表を収録している点にも特徴があります。この雑誌が大変興味深いのは、西洋人による日本の植物の本格的研究の端緒となった数多くの論文が収録されている点にあり、本書にもそうした論文を見ることができます。

「非ヨーロッパ世界を観察し、その資料を収集したいという情熱は、当時の知識人社会に共通に見られたことであった。もちろん日本も、イギリス王立協会やヴィッツェンの活動が示すように、このような探求の対象となっていた。知識人社会に属する人びとの間で交わされた個人的な書簡や、彼らが『フィロソフィカル・トランザクションズ』のような学術雑誌、ないし『ジュルナル・デ・サヴァン』に代表される評論雑誌に寄せた論文や手記を見ると、知識人社会の中でいかにして、またどの程度まで新しい情報が広まっていったかということを知ることができる。」
(デレク・マサレラ」探究心と知性の人びと」ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー他編 / 中直一、小林早百合訳『遥かなる目的地:ケンペルと徳川日本の出会い大阪大学出版会、1999年所収、232頁)

 本書は、上記で言及されている二誌と並ぶ、ヨーロッパ最古の学術雑誌の一つで、17世紀の博物学研究の成果の発表の場として広く読まれていた雑誌です。

 クライアー(Andreas Cleyer, 1634 - 1697)は、2度に渡って(1683−84年、1685−86年)オランダ商館長を務めた優れた植物学者で、離日後もバタビアにとどまり、当地や東アジア地域の植物収集と研究を続けました。ヨーロッパで最初の日本の植物と庭園の紹介書である『東洋園芸師(Der orientalish-indianische Kunst-und Lust Gärtener, 1692)』を著したマイスター(George Meister, 1653 - 1713)の植物採集者としての優れた才能を見出し、ともに研究を進めたことでも知られています。クライアーは、ベルリンのプロイセン王室図書室の責任者にして博物学者であったメンツェル(Christian Mentzel, 1622 - 1701)と文通によって、日本の植物を紹介しており、このことが日本とヨーロッパとの植物研究交流の先駆けとなり、その基礎を築く役割を果たしました。クライアーは、600枚近くに上る日本の植物画の収集を行い、それらをマイスターを通じてフリードリヒ3世に献呈しており、これらは今もベルリン国立図書館に保管されています。クライアーと交流を続けていたメンツェルは、クライアーが送ってくる日本やバタビア、東アジアの植物についての研究論文を、本書において発表するとともに、自身でも多くの論文を発表していました。

「オランダ東インド会社に勤務していたケンペルのドイツ人の二人の友人、アンドレアス・クライアーとゲオルク・エーファーハルト・ルムプフについても、ここで少し触れておくべきであろう。クライアーはバタビアのオランダ東インド会社の外科医長を務めたのち、1682年から83年、および1685年から86年にかけての貿易の期間に、出島の商館長を務めた。ベルリンで中国研究を推進しようと計画したのはクリスティアン・メンツェルであるが、これに重要な役割を果たしたのもクライアーである。クライアーはメンツェルとバタビアからの書簡のやり取りをし、資料を送付してあげた。またクライアーが編纂した『中国の薬見本』(フランクフルト・アム・マイン、1682年)は、中国医学の理解に多大の貢献を成した。イエズス会士がオランダ東インド会社の船舶を利用してヨーロッパに向けて手紙を送付できたのも、イエズス会士のフィリップ・クプレとクライアーの間に個人的な友情が存在したおかげであった。」
(前掲書、231頁)

 本書には、クライアーによる日本の植物に関する記事が4本(132頁〜、論文番号第70番〜第73番)掲載されており、そのいずれにも対応する植物の図ならびに、当時の日本での呼称を日本語の仮名文字とローマ字とで記した銅版画(4枚)が掲載されています。当時の日本(長崎近辺での)の呼称を採用する独特の命名法は、先述したマイスターによるものと一致しており、これはケンペルにも影響を与えたと言われています。店主には解読が困難がものが多いですが、イスノキ(Isnoacky)、ツバキ(Tzumacky)、ミヤコバナ(ミヤコグサ)(Miacko Bana)、もみの木(Moninoky)など、なんとか解読できるものもあります。ヨーロッパにおけるツバキの紹介は、ケンペルによる紹介が最初であるとされることもありますが、明らかにクライアーによる本書における紹介が最初のもので、クライアーはその花の特徴のみならず、日本の人々がツバキからオイル(椿油)をとって髪に用いていることまで記しています。当時のヨーロッパにとって、日本を含めたアジアに植生する様々な植物は、食料品、医薬品、嗜好品、学問研究の素材として極めて重要な産品であったため、これらに関する最新で正確な知識というものが渇望される社会的背景がありました。クライアーによる現地からの最新の報告は、学術的にも商業的にもこうしたニーズに応えるものだったと考えられます。これらの論文は、ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651 - 1716)による、日本の植物研究に先駆けるもので、また、銅版画によって初めて日本の植物をヨーロッパに伝えた最初期の視覚資料としても大変重要な文献と思われます。当時の日本語での音読みをそのままローマ字に転記し、さらには仮名文字を併記(活字ではなく銅版画で)している点は、来日したヨーロッパ人による日本語研究の資料としても非常に興味深い資料と言えます。

 「17世紀を通じて数多くのドイツ人がオランダ東インド会社の役員として東洋を訪れ、日本についての見聞記を残した。その中で最も学問的に評価の高い資料を集めたのは、1682年から1683年(天和2-3)と1685年から1686年(貞享2-3)年の二度にわたって、出島の商館長として来日したアンドレアス・クライアーと、そのクライアーの下で庭園技師として働いたゲオルク・マイスターである。二人は日本の植生を初めてヨーロッパに紹介したが、彼らがヨーロッパの知人や友人たちに送った植物画、学術論文、そして植物標本や押し花のコレクションは、ドイツ、イギリス、ポーランドに現在も残っている。彼等は、ケンペル、ツュンベリー、そしてシーボルトの先駆者といえるだろう。」
(ドイツ日本研究所編『ドイツ人の見た元禄時代:ケンペル展』(ドイツ日本研究所、1990年より)