書籍目録

『世界一周紀行』

ファン・ノールト

『世界一周紀行』

仏訳初版 1602年 アムステルダム刊

van Noort, Oliver.

DESCRIPTION DV PENIBLE VOYAGE FAICT EN TOVR DE L’VNIVERS OV GLOBE TERRESTRE, PAR Sr. OLIVER DV NORT D’VTRECHT,…

Amsterdam, Cornille Claessz, 1602. <AB2020194>

Sold

First edition in French.

4to (23.8 cm x 30.1 cm), Title. pp.1-61, [62], Contemporary vellum (rebound).
図版、地図完備。製本時のトリミングのため一部のテキストや注釈に判読困難な箇所あるが、全体として良好な状態。E-4(p.37, 38)はファクシミリ、あるいは別本からの挿入か。

Information

オランダ船による初の世界周航、日本の船員の姿を描いた最初の図版を収録。イエズス会と日本宣教の状況、日本の貿易について、実際に会った日本の船員から得た情報をもとにオランダの視点から記した極めて珍しい刊本資料。オランダ語完全版とほぼ同時に刊行された非常に貴重なフランス語初版。

 本書は、オランダ人航海士による初の世界就航を成し遂げたファン・ノールトの航海記で、帰国直後の1602年に刊行されたフランス語訳初版です。ファン・ノールトによる世界周航は、オランダが海洋諸国として世界進出する礎を築いただけでなく、オランダ人が日本の船員との直接交渉によって得た情報をもとに、同時代の日本におけるイエズス会らによる日本宣教と貿易の状況を、当事者以外の外部の視点から報じ、しかも彼らの風貌や船舶を紹介するという、日欧交渉史にとっても画期的な出来事となりました。本書は、この画期的なファン・ノールトによる世界周航を、帰国後一年足らずという極めて短期間で詳細に報じた書物として、日本関係欧文史料として第一級の価値を有する書物です。

 15世紀末に始まったいわゆる「大航海時代」は、ポルトガルとスペインという当時の二大カトリック国によって主導され、「新世界」の情報と富を独占してきました。オランダは、1578年以来、独立を求めてスペインと対立し、八十年戦争と呼ばれる長い戦争に入っていましたが、その過程で、それまでの商業と交易の中心都市であったアントワープがスペインによって劫掠されるなど、既存の地中海水域をはじめとした近隣海域での交易の続行が困難となり、「東インド」への進出に打開策を見出すようになります。この動きを強力に推進したのが、リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? - 1611)による「東方旅行記」(Itinerario. Amsterdam, 1595)を含む『旅行記三部作』です。この書物は、それまでポルトガルとスペインのごく限られた人々しか知ることができなかった東インドに関する機密情報を惜しげも無く披露し、スペイン・ポルトガルの東インド各地への航路と拠点地の内情を図版と地図を合わせて紹介することで、オランダ人による同地への進出を強く促すことになりました。これにより、1590年代後半には、オランダの海洋進出の動きが本格化し始めることになり、スペインやポルトガルの船舶や拠点を略奪、攻撃しながら、その財宝を入手し、それらを元手に現地で交易を行うことで、莫大な富を本国に持ち帰るという計画が次々と打ち出されるようになります。こうした計画の一つとして遂行され、海洋進出黎明期のオランダにとって、画期的な成果を上げることになったのが、まさしくファン・ノールトによる世界周航でした。

 1598年、ロッテルダムでマゼラン海峡を回る2つの艦隊派遣がほぼ同時に計画され、そのための企業が設立されることになりました。その一つが、「三浦按針」ことアダムズ(William Adams, 1654 - 1620)の乗るリーフデ号を含む5隻の艦隊で編成されたものでしたが、この艦隊は悲惨な結末を迎え、1隻たりともその任務を全うすることはありませんでした。もう一つの計画が、本書に記されている、ファン・ノールトによって率いられる4隻の艦隊による派遣で、ファン・ノールトの航海も幾多の困難が伴う非常に厳しい航海となりました。

「もう一つの企業の艦隊は、2隻の中型の軍艦と2隻の哨戒艇から構成されていた。提督はロッテルダムで宿屋を経営していたオリフィール・ファン・ノールトであった。ファン・ノールトはマゼラン海峡を通過した後、早くも2隻を失った。1隻の哨戒艇は水漏れのため放棄された。副旗艦はファン・ノールトが乗っていた旗艦と離れ離れになってしまい、最終的にモルッカ諸島のテレナッテに漂着した。ファン・ノールトは残る2隻で南アメリカの西海岸でスペイン船を次々と追いかけ、略奪行為を行なったが、財宝を獲得することはできなかった。すでに彼の到来について知らされていたスペイン人はいくつかの軍艦を送っていた。スペインの軍艦に捕まえられることを恐れたファン・ノールトは、太平洋を渡ってフィリピンにたどり着いた。そこで複数の中国戦などを拿捕した後に、ついにスペインの艦隊に見つかった。スペインの艦隊に横付けにされたファン・ノールトの旗艦に多くのスペイン人が乗り込んで来たので、オランダ人乗組員は甲板の下に隠れた。この様子を見たスペインの副旗艦は、残るもう1隻のオランダの哨戒艇を追いかけ、拿捕した。一方、その間にファン・ノールトは「戦わなければ、火薬を爆破させる」と絶望しかけていたオランダ人を消しかけ、この脅し文句によってオランダ人が戦いを再開し、スペイン兵を旗艦から追い出すことに成功した。スペインの旗艦はファン・ノールトの船から放たれた大砲に撃たれ、まもなく沈んだ。この海戦でファン・ノールトの船はひどく破損し、乗組員も激減したため、貿易や海賊行為をあきらめて、そこから喜望峰を回り、オランダへ戻った。
 ファン・ノールトの旅行はこのように失敗に終わったが、オランダ人としては初めて世界一周に成功したことによって名声を得た。」
(フレデリック・クレインス『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、68-69頁より)

「これは史上4番目の、そしてオランダ人としては最初の世界周航であった。『新発見』は何もなかったけれども、ノールトは《東方》諸国に関する大量の知識・情報を『舶載』してきたのである。」
(ボイス・ペンローズ / 荒尾克己訳『大航海時代–旅と発見の二世紀』筑摩書房、1985年、254-255頁より)

 このように、ファン・ノールトの航海は、直接的な交易による利益を上げることはありませんでしたが、結果的に「オランダ人最初の世界周航」を成し遂げ、実際に現地で収集された膨大な情報とノウハウを持ち帰るという、オランダがその後に東インドへと進出するための大きな礎を築くことに成功したのでした。その意味において、ファン・ノールトが成し遂げた世界周航は、オランダにとって歴史的な快挙であったと言えます。

 また、ファン・ノールトは、日欧交渉史においても非常に大きな足跡を残しています。ファン・ノールト自身は日本に直接赴くことはありませんでしたが、日本船と洋上で二度も遭遇しており、これは、オランダ人と日本の船員とが直接交渉した、記録される限りでの最初期の出会いとなりました。しかも、後述するようにファン・ノールトはこの時の出来事を詳細に記録しており、これが帰国後にすぐさま出版されることによって、オランダ人と日本との交渉を報じた最初の書物となりました。当時のヨーロッパにおける日本情報は、イエズス会を中心としたカトリック修道会による宣教報告が、事実上唯一のものでしたので、同時代の日本の情報をイエズス会以外の立場から論じ、しかもすぐさまそれが一般に公開されたという点において、ファン・ノールトと日本との出会いは、日欧交渉の新しいページを開く歴史的な出会いとなりました。

 ファン・ノールトは1600年12月3日、マニラ近海を航行中に日本船と出会い、これらをすぐに追いかけ、哨戒艇によって拿捕することによって掠奪を試みますが、あいにく積荷にめぼしいものはなかったため、略奪を諦め、友好的に接することにし、日本の船長を旗艦に迎えて厚遇しています。

「彼は日本生まれであった。その名前はヤマシタ・シティサムンド(山下七左衛門か)と名乗っていた。彼らはポーランド人のように長い服を着ている。(貴族であった)船長の服は軽い絹からできており、様々な葉や花の模様が描かれ、とても巧みに作られている。日本人は頭を剃刀で完全に剃っているが、首のところだけはそのまま、髪を長く保っている。戦争においてはとても勇敢な民族であり、大柄である。日本では東インドで最も良い武器が作られている。例えば、刀、火縄銃、弓、矢。我々もいくつかの武器をもらった。刀はとても鋭く切れる。彼らによると、日本では一回の振りで3人の人間を切ることができ、売買の際、数人の奴隷にそれを試す。これらの刀はとても高価であり、大いに珍重されている。」
(クレインス前掲書、72-73頁より)

 このように、ファン・ノールトは自身が実際に出会った日本の船長の話や風貌を細かに記録しており、その様子を本書によってヨーロッパの読者にいち早く、広く伝えることに成功しました。

 さらに、本書では、ファン・ノールトが出会った日本の船員の姿を描いた銅版画が収録されており、「これは《日本》に関する詳細な記述という点に特に興味深いものがあり、また日本の船や日本人を描いた銅版画は、ヨーロッパにおける最古の部類に入る」(ボイス・ペンローズ / 荒尾克己訳『大航海時代–旅と発見の二世紀』筑摩書房、1985年、387頁より)と言われるように、日本の人々の姿を描いた西洋の刊行物としては非常に重要なものです。ヨーロッパの書物において日本の人々の姿が図版として登場するのは、天正遣欧使節がヨーロッパを訪ねた際に刊行されたごくわずかな書物に収録されていた図版が、最初期のものと思われますが、イエズス会の報告書は基本的に図版や地図を伴わないものでしたので、こうした使節以外の、市井の日本の人々の姿を写実的に描いた図版としては、本書に収録された図版が最初のものではないかと思われます。この図では、ローブのような着物を纏い、腰に大小の刀を差し、弓や鉄砲、槍といった武器、そして扇子を手にした人々の姿が非常に写実的に描かれています。この図版は、当時のヨーロッパに強烈な印象を与えたものと思われ、後年の著作において日本の人々を描いた銅版画にも本図の大きな影響を見て取ることができます。しかも、その影響はオランダをはじめとしたプロテスタント諸国で刊行された書物にとどまらず、イエズス会による書物にも大きな影響を与えています。例えば、1608年にイエズス会によって刊行され、1597年の「二十六聖人殉教事件」を描いた最初の銅版画を含む、殉教銅版画集『磔刑のキリストの勝利』(Ricci, Bartolomoro. Triumphs Iesu Christ Crucifixi. Antwerp, 1608)において、描かれている日本の役人の姿は、明らかに本図に描かれた日本の船員の姿を範にとったものと考えられます。日本情報をヨーロッパに伝える上では、イエズス会による宣教報告が絶大な影響力と大きな役割を果たしていましたが、こと図版等による視覚情報の伝達という点においては、オランダ人ファン・ノールトが初めて出会った日本の船員を描いたこの図が、当時最大の影響力を持ったということができるでしょう。

「この時代のオランダの航海文献を論ずるに当たっては、実に”銅版画”というものがそれぞれの本に魅力と有用性を与えた役割を大いに強調しなくてはならないだろう。当時のオランダはメルカトールやオルテリウスに代表される如く、ヨーロッパにおける最も活発な地図製作の一派の中心であって、優秀なオランダ人彫版工の一団を擁しており、ルネッサンス期のオランダ地理書(この中にはド・ブライやフルシウスの諸版をふくめてもよい)は、魅力という高度な領域では、他の諸国の類書とは比較にならぬほどの豊富な挿絵と地図によって断然傑出しているのである。」
(ボイス・ペンローズ前掲書、387頁より)

 また、本書における日本関係記事は、イエズス会をはじめとする日本における宣教状況と、彼らを含むポルトガル人による交易状況を、実際に会った日本の船員から聞いた話を情報源として、当事者以外の外部の視点から記した日本情報を初めてヨーロッパの読者に伝えた記述としても、非常に重要なものです。

「日本の各国には王がいて、互いに大戦をしている。大部分の地域が一人の王の支配下となった。ポルトガル人がそこで自由に貿易を行っているが、貿易の大部分を行っているイエズス会士を除けば、彼らはそこで影響力がない。日本に住んでいるイエズス会氏は皆ポルトガル人であり、そこで多くの領主や多数の一般民衆を教皇の宗派[カトリック教]に改宗させた。というのは、彼らは日本人にもいろいろ信じ込ませているため、『小さな神』と見なされ、尊敬されており、その国の富の大半を得ている。また、イエズス会士は他の宗派が入ることを許さない。その日本人によると、王もキリスト教に改宗する見込みがある。ポルトガル人は貿易のために毎年大きな船で来航している。以前はとても大きな利益を得ていたが、現在は百パーセントの利益は得にくい。というのは、日本人は現在自分でも多くのものを作っているし、チンチェオ[常州か]の中国人も絹やあらゆる商品を積んで来航している。」
(クレインス前掲書、73頁より)

 日本におけるイエズス会の活動については、すでにリンスホーテンが報じていましたが、彼の日本情報の大半は、イエズス会士マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1533- 1603)の著作に由来する間接的なもの(ただし、航海関係の情報は全く別)で、リンスホーテン以外の書物に記された日本情報は、基本的にイエズス会関係の書物を情報源としていましたので、本書における上記の記述は、イエズス会以外の立場から記され、刊行された、イエズス会についての同時代の記録として、事実上最初のものと考えることができます。

 さらに、ファン・ノールトは1601年1月3日にもボルネオ沖で日本船のジャンク船と出会っており、その際にポルトガル人船長から、先述したほぼ同時にロッテルダムで企画され、ファン・ノールトよりも先に出向した船団の一隻であるリーフデ号が日本に漂着したという情報を得ていました。

「すなわち、日本にピーテル・フル・ハーヘンの会社の大きなオランダ船が来た。その船はとても無残な状態でそこに漂着した。多くの乗組員が空腹や病気で亡くなっていたため、到着したのは25人のみであった。そのうち、さらに11人が死亡したため、最終的に14人しかしか生存しなかった。彼らが到着した場所は「豊後」と呼ばれている。それは34度40分のところに位置している。日本の王はその船をアトンザ[堺か]という他の港に移した。これは36度半に位置し、その良港で船は4つの錨を下ろしていた。さらに前述した船長によると、すべての乗組員が好きなところに自由に行くことを許されていた。彼らは好きなところに出帆するために小さな船を作ることも許されていたが、その力はなかった。これはフル・ハーヘンの会社の船の中の旗艦であると分かった。」
(クレインス前掲書、23頁より)

 この、1600年のリーフデ号日本漂着を報じる記事は、本書が1602年に刊行されている点に鑑みると、驚くべき速さでヨーロッパに伝えられたと言ってよいでしょう。この時漂着したアダムズに関する記事がこの後にヨーロッパで最初に報じられるのは、1614年に刊行されたパーチャス(Samuel Purchas, 1577? - 1626)が刊行した『巡国記 (Purchas his Pilgrimage. Or relations of the World …)』第2版における記事まで待たなければならなかったことからも、上記記事の「速報性」の高さは特筆すべきものと言えます。

 このように、オランダ人初の世界周航を記録としてだけでなく、日本関係欧文史料として極めて重要な意義を有する、ファン・ノールトの『世界一周紀行』ですが、ファン・ノールトが帰国した直後に早くも簡易速報版が出版され、約1年の間に記述や図版を追加しながら目まぐるしく版を重ねるという、書誌学的にも非常に複雑で興味深い変遷を辿っています。そもそも、本書が出版されることになった背景には、当時オランダから派遣された船舶の船長は「日付、航路、推定される現在位置、天候などの航海データの他に、その日に起こった特記すべき事項や各地についての情報」(クレインス前掲書67頁)を記した日記を必ず付けており、出版社は、船舶が帰国すると同時に「それらを追い求め、安価な紙にゴシック体の文字で大量に印刷し、広く普及させた」(同)という、当時のオランダにおける盛況な航海記出版の状況がありました。オランダ人による初の世界周航を成功させたという、最高の話題性に富んだファン・ノールトの航海日記は、帰国直後から大いに注目され、その簡易速報版がなんと帰国後18日で出現するという驚くべき出版状況を生み出しました。この簡易速報版は、図版や記述、ラテン語詩などを追加しながら、徐々に内容の充実が図られ、1601年後半、ないしは1602年にはついに決定版が完成します。この間の経緯を簡単にまとめると次のようになります。

①簡易速報版(1601年)
Extract oft Kort verbale wt het Groote Iournaelx…
Rotterdam, Ian van Waesberghen…M.CCCCC.I.(1601)

②③刊行年無記名版(2種あり、1601年から1602年の刊行とみなされる)
Beschrijvinge van de voyagie…
Amsterdam,Cornelis Claesz.

④1602年明記版(完成版と目される)
Beschryvinghe van de voyagie…
Amsterdam, Cornelis Claesz. 1602.

*『世界一周紀行』の書誌情報については、ティーレ(Pieter Anton Tiele, 1834 - 1889)による『オランダによる航海記に関する書誌的覚書』(Mémoire bibliographique sur les journaux des navigateurs nérlandais. 1867)や、リンスホーテン協会(Linschoten-Vereeniging)の叢書第27巻(De reis om de wereld door Oliver Van Noort, 1598-1601. 2 vols. Hague, Martinus Nijhoff, 1926)を参照。


 このように、『世界一周紀行』は、ファン・ノールト帰国直後からの大きな反響を受けて、短期間の間に、4度もの改訂を経て1602年に決定版が刊行されています。本書は、この1602年の決定版刊行とほぼ同時に、しかも同じ出版社から刊行されたフランス語訳初版で、その意味では、完成版初版とほぼ同じ位置付けを与えることができる、最も重要な版ということができます。アムステルダムの出版社であるCornelis Claeszは、航海記出版に秀でていた出版社で、リンスホーテンの『東方旅行記』の出版でも名高く、高品質な図版や地図の作成といった優れた制作技術を有していただけでなく、印刷した書物をヨーロッパ中に配本するという広大な販売ネットワークも有していました。また、同社は、本書と同時にドイツ語版(Eigentliche und warhafftige Beschreibung…Amsterdam, Cornelius Nicolaus, 1602)も手掛けていました。ファン・ノールトの『世界一周紀行』は、本書と同じ1602年にラテン語版も刊行されており、短期間の間に実に数多くの版が生み出されました。こうした書誌事項から、当時のヨーロッパにおいて、本書がいかに熱狂的に、また広く読まれたかを窺い知ることができます。

 本書であるフランス語訳版は、当時のヨーロッパにおける言語的優位性に鑑みると、おそらくオランダ語版よりも広く読まれ、印刷部数も多かったのではないかと思われます。その人気を裏付けるように、細かな訂正を施した改訂版が1610年に刊行されています。しかしながら、これだけ多くの版が出されるということは、逆の面から見ると、販売された多くの書物が速報的な読み物として、読み捨てられていったということも意味しており、大判とは言えわずか60ページほどの書物である『世界一周紀行』は、現存しているものが非常に少ないことでも知られています。後年の旅行記集成(コメリン(Isaac Commelin, 1598 - 1676)による『東インド会社の起源と発展(Begin ende Voortgangh van de Verenigde Nederlantsche Geoctroyeerde Oost-Indische Compagnie. 1645 / 1646』など)に再録されるようになったこともあって、ファン・ノールト帰還当時の熱狂的な雰囲気を伝える最初期の1602年までの各版は、いずれの版であっても極めて稀覯とされているのが現状です。おそらく最もよく読まれ、数多く印刷されたであろうと思われるフランス語訳版でさえ、現存するものは非常に少なく、稀に出現した場合でも後年1610年版であるか、あるいは本書の大きな魅力である図版や地図が欠落(転売目的で図版のみが切り取られたためと考えられる)していることが多いようです。

 このことを裏付けるかのように、ファン・ノールト『世界一周紀行』は、日本関係欧文史料として極めて重要な書物であるにもかかわらず、国内所蔵機関は非常に少なく、国会図書館が刊行年無記名のオランダ語版(③)を(国会図書館所蔵本の詳細については、同館編『稀本あれこれ–国立国会図書館の蔵書から』出版ニュース社、1994年、473頁を参照)天理図書館と国際日本文化研究センターが、本書の改訂版である1610年フランス語訳版を所蔵している他には、所蔵機関を確認できず、決定版と目される1602年版は、いずれの言語であっても国内研究機関の所蔵がないように見受けられます。本書は、製本時のトリミングにより一部のテキストの判読が困難な箇所があり、後年版、あるいはファクシミリと思われるテキスト一葉が含まれているとは言え、貴重な図版や地図は完備しており、残存数が非常に少ないと考えられている1602年版としては、極めて良好な状態といえるものです。

 ファン・ノールトによる世界周航の成功は、その後オランダが海洋進出へと本格的に乗り出していく歴史的展開を決定付け、後続のオランダによる数多の艦隊派遣を呼ぶことになりました。そして、1602年に乱立する同種の取り組みに従事する複数の企業を統合し、国家による独占勅許が付与された、名高いオランダ東インド会社が設立され、オランダは、ポルトガル、スペインを圧倒する海洋国家として黄金期を迎えていくことになります。その一方で、オランダ東インド会社設立と同時に、それぞれの航海時に作成された日記類は、会社の機密情報として厳密に管理されるようになり、本書のように航海日記が帰還後ただちに出版され、一般に広く公開されることが、非常に難しくなっていくことにもなりました。こうした歴史的展開に鑑みても、本書は、日欧交渉史における重要な転換期の出来事を記し、しかもそれが同時代のヨーロッパに向けてすぐさま公開されたという、極めて稀有な文献として、大変高い学術的意義を有する書物であると言えるでしょう。

後年に作成されたスリップケースが付属。
スリップケースから出したところ。
刊行当時の皮革を用いたヴェラム装丁で、再装丁された形跡が見られるが、状態は非常によい。
タイトルページ。ロッテルダムを出航する4隻の艦隊を描く。
本文冒頭箇所。
航海記出版に豊富なノウハウを有していた出版社による卓越した図版や地図が本書の価値を高めている。
1600年12月3日にマニラ近海で出会った日本船の姿を描いた銅版画。「これらの船はとても珍しい形をしている。船首は平底船のように平らで、帆は葦あるいは麦藁からできている。これはマットのような形をしていて、巻き上げ機で引き上げている。さらに彼らは木製の錨を持っている。また錨綱は藁でできている。彼らはこれらのものに自己流で驚くほど工夫している。」(クレインス前掲書71頁より)
描かれている日本の船員の姿は驚くほど写実的である。
「日本人を描いた図版は、出版社に雇われた絵描き職人が日本人を実際見ずに描いたものであるにもかかわらず、かなりの写実性がある。日本人は着物を着て、丁髷を結い、刀を帯に差している。ある者は扇子を持っている。また、ある者は槍や弓、火縄銃を持っている。武装した日本人の誇り高い姿は、オランダ人読者にとって印象的なものであったに違いない。」(クレインス前掲書75頁)
(参考)1608年にイエズス会によって刊行され、1597年の「二十六聖人殉教事件」を描いた最初の銅版画を含む、殉教銅版画集『磔刑のキリストの勝利』(Ricci, Bartolomoro. Triumphs Iesu Christ Crucifixi. Antwerp, 1608)。同書には3枚の日本での殉教場面を描いた銅版画収録されているが、上掲図で見られるように同書で描かれている日本の役人の姿は、明らかにファン・ノールト『世界一周紀行』に描かれた日本の船員図を範にとったものと考えられる。
1601年1月3日のボルネオ沖で日本船のジャンク船と出会いを記した箇所。三浦按針ことアダムズの乗るリーフデ号の日本漂着をいち早くヨーロッパに伝えた記事として非常に重要な記事である。「それは日本から来たジャンク船であった。マニラに向かっていたが、嵐で漂流し、食料品などを得るために、ここボルネオに来ざるを得なかった。(中略)[ファン・ノールト]総督は[日本船の]船長を舟に呼んだ。彼は老いて太った人物で、ポルト出身のポルトガル人で、名前はエマニュエル・ルイースであった。彼は長くマラッカおよび中国のマカオに住んでいたが今は日本にある長崎という町に住んでいる。彼は二ヶ月前に「九州」という港あるいは島を出帆した。乗組員はほとんど日本生まれの者たちで、その国の風習に従った髪型をしていた。舵手は中国人であった。この船長は我々に次のことを知らせた。すなわち、日本にピーテル・フル・ハーヘンの会社の大きなオランダ船が来た。その船はとても無残な状態でそこに漂着した。多くの乗組員が空腹や病気で亡くなっていたため、到着したのは25人のみであった。そのうち、さらに11人が死亡したため、最終的に14人しかしか生存しなかった。彼らが到着した場所は「豊後」と呼ばれている。それは34度40分のところに位置している。日本の王はその船をアトンザ[堺か]という他の港に移した。これは36度半に位置し、その良港で船は4つの錨を下ろしていた。さらに前述した船長によると、すべての乗組員が好きなところに自由に行くことを許されていた。彼らは好きなところに出帆するために小さな船を作ることも許されていたが、その力はなかった。これはフル・ハーヘンの会社の船の中の旗艦であると分かった。」 (クレインス前掲書、23頁より)
E-4(p.37, 38)は、よく見ると活字の印刷のされ方が他と異なるように見受けられるため、ファクシミリ、あるいは別本からの挿入か。