書籍目録

『聖下ウルバヌス8世による日本ならびにその他東方インド地域における布教に関する憲章(大勅書)』

ウルバヌス8世

『聖下ウルバヌス8世による日本ならびにその他東方インド地域における布教に関する憲章(大勅書)』

[1633年] 刊行地不明

Urbani VIII.

SANCTISSIMI D. N. D. V(U)RBANI Diu(v)ina prou(v)identia Papae VIII. Constitution super missionibus Religiosorum ad Iaponiam, & alias Regiones Indiarum Orientalium.

not placed, [1633]. <AB202084>

Reserved

4to (20.0 cm x 28.8 cm), 4 numbered leaves, Modern three quarter leather on marble boards.

Information

カソリック修道会による日本布教の権限をめぐる論争に終止符を打った大勅書

 本書は、教皇ウルバヌス8世(Urbanus VIII, 1568 - 1644)によって1633年に出されたいわゆる「大勅書」と呼ばれる教会公式文書で、カソリック修道会による日本布教の権限をめぐる論争に終止符を打った勅書として大変重要なものです。また、三十年戦争の最中にあったヨーロッパにおいて複雑に考察した聖俗双方の利害関係と、末期に近づきつつあった日本の布教活動が密接に関係していたことを示唆する非常に興味深い書物でもあります。

 イエズス会によって始められた日本布教活動は、その後フランシスコ会やドミニコ会、アウグスティヌス会といった各修道会士が相次いで参入するようになりましたが、布教方針や権限を巡って修道会間の論争が次第に激化してくことになりました。この論争は本国の複雑な聖俗政治状況にも左右されながら展開し、各修道会が自身に有利な教皇の勅書を得られるよう働きかけるため教皇庁を中心に繰り広げられていきました。当然ながらこの論争は、日本における布教活動そのものにも大きな影響を及ぼしており、イエズス会とフランシスコ会の対立を背景に生じたいわゆる日本二十六聖人殉教事件などは、その際たるものの一つと言えます。本書は、こうした論争に対して、少なくとも公式には最終的な決着をつけるために出された勅書として非常に重要なものです。カソリック各修道会におけるこうした論争については、高橋裕史による『戦国日本のキリシタン布教論争』(勉誠出版、2019年)において詳細に論じられており、近年の研究成果をまとめたものとして、本書の性質を読み解く上で非常に有益な示唆を提供してくれています。同書では教皇が発する勅書の種類とその位置づけについても整理されていて、次のように解説されています。

「『大勅書bulla』とは、長文で修辞の粋を尽くした、重々しい文体による教皇書簡のことをいう。元々、書簡の結び紐につける、銀や鉛でできた円形の封印をbullaと称したことが語源である。13世紀以降は、右に言及した文体で書かれた書式そのものを指すようになった。14世紀までは無期限の特免dispensatioを付与するために発布されることが多かったが、15世紀には行政命令に関するものにもbullaが使用された。しかし、さらに荘厳で厳粛な書式によるbullaは、列聖などの重要な勅書に限定されるようになった。『小勅書breve』は大勅書よりも簡潔な文体で記され、恩典の授与など、内容的にも重要度の高く無いものに関して用いられる書式である。『教皇自発令motu proprio』は、教皇が任意に自分の意思で発令する教令のことをいう。小勅書に比べて重要な問題に関して用いられる書式であり、一般に法的性格を帯びている。」
(高橋裕史『戦国日本のキリシタン布教論争』勉誠出版、2019年、117, 118頁より)

 本書は後述するように「大勅書」として位置付けられており、それまでのこの論争に関する歴代教皇の勅書が「小勅書」であったことに鑑みると、この「大勅書」でもって論争に決着をつけようとする強い教皇自身の意思と重みを感じさせるものであったことがわかります。同書では、この論争に関係した歴代の勅書について整理されており、それに基づいて年代順にごく簡単にまとめますと、下記のようになります。


1585年
①グレゴリウス13世による小勅書(Ex pastorali officio)
(ポルトガルとイエズス会の勢力下にあった)東インド以外(≒スペインとフランシスコ会の勢力下にあったメキシコ、フィリピン)から布教を目的とした日本渡航を禁じ、これを犯したものは破門とする。
→イエズス会による日本布教独占が認められたことになり、フランシスコ会が強く反発

1586年
②シクストゥス5世による小勅書(Dum ad uberes fructus)
フランシスコ会のインド布教の拠点であったフィリピンを管区として認め、同地を含め近隣諸国で布教活動に従事できる環境を整えることを認める。

→フランシスコ会は、グレゴリウス13世による小勅書が否定され、自身の日本布教が認められたものと拡大解釈し、イエズス会との対立が深まる。

1600年
③クレメンス8世による小勅書(Onerosa pastorales)
中国や日本へ宣教のために渡航する修道士は、ポルトガルからゴアを経由するルート(イエズス会ルート)以外での渡航が禁じられる。
→①を再確認し、フランシスコ会の日本渡航を禁じる内容となり、フランシスコ会が強く反発

1608年
④パウルス5世の小勅書(Sedis Apostolische)
渡航経由地を問わず、スペイン系托鉢修道会が日本へ布教のために渡航することを認可。
→①③を否定し、イエズス会による日本布教独占を否定し、フランシスコ会による日本布教を公認

(1622年)
布教聖省(Sacra Congregatio de Propaganda Fide)の設置
→世俗国家間の対立とその影響から海外布教活動を切り離すために、教皇庁直轄の海外布教管轄組織を設置

1633年
⑤教皇ウルバヌス8世の大勅書(Ex debito pastoralis officii)(本書のこと)
あらゆるカソリック修道会が、その渡航経由地を問わず、日本に布教のために渡航することが認められることを正式に保障。
→日本布教の独占と参入をめぐる、イエズス会とフランシスコ会をはじめとした托鉢修道会との抗争に終止符が打たれる。

「15世期末から16世紀初めにかけての時代にあって、教皇職は短期間に終わる傾向が見られた。そのため、当代の教皇によって決定あるいは裁定されたことが、次の後継教皇によって破棄され、それがまた次の後継教皇によって追認される、という事態もあり得た。こうした一貫性の無さが原因で、日本布教をめぐる修道会間抗争にも混乱がもたらされることになった。」
(前掲書、153, 154頁より)


 日本布教を巡っては、その創始者であり数十年に及ぶ実績で先行していたイエズス会が圧倒的な勢力を誇っており、同会の政治的基盤であったポルトガルの勢力圏であった東インド経由での日本渡航が一般的でした。これに対して、スペインを政治的基盤とするフランシスコ会が、スペインの勢力圏であったメキシコ、フィリピンを経由して日本への渡航を企てるようになり、布教方針を巡って対立が生じるようになります。この対立は、単なる布教方針をめぐる対立だけにとどまらず、両会のヨーロッパにおける勢力争い、そしてなによりもポルトガル・スペインという2つの大国と、ローマ教皇庁を巻き込んで展開された対立抗争と密接に関わるものでもありました。

 1585年にグレゴリウス13世によって発せられた小勅書①は、イエズス会に対して多大な援助を惜しまなかった同教皇が天正遣欧使節のローマ訪問を機に発したもので、日本布教をイエズス会だけに独占的に認める内容であったため、フランシスコ会はこの勅書を撤回すべく様々な反対活動を展開しました。グレゴリウス13世の後継となったシクストゥス5世は、フランシスコ会出身だったこともあり、フランシスコ会がアジア布教の拠点としていたフィリピンを新たに管区として公認し、その充実のために便宜を図るための小勅書②を早くも1586年に発しています。これは、先の①を否定するものではなく、あくまでもフランシスコ会によるフィリピンと同地を中心とした布教活動の促進を目的としていましたが、フランシスコ会はこれを拡大解釈し、①は②によって否定されたものと捉え、日本への布教活動を活発化させていきます。これに対してイエズス会は①が依然として有効であるとして強く反発し、フランシスコ会による日本渡航は①に違反するもので破門に値すると対決姿勢を露わにします。こうした対立が激化する中で生じたのが、サン・フェリペ号事件であり、二十六聖人殉教事件だったのでした。

 この日本布教のための修道会の権限を巡る対立は、フランシスコ会とイエズス会が、互いに自身に有利な教皇勅書を得ようと画策し、また解釈を行うといった形で繰り広げられていきました。1608年にパウルス5世によって出された小勅書④は、①と③において認められていたイエズス会による日本布教独占を公式に否定し、スペイン系托鉢修道会(つまり、主としてフランシスコ会)による日本布教を認める内容で、これにより、教皇庁によって初めて公式に日本布教がイエズス会以外の修道会に認められることになりました。もちろん、実際にはこうした勅書の応酬といってよい状況に対して、フランシスコ会をはじめとした後発修道会は、既存勅書を自身に有利な形で展開した解釈論によって、日本布教活動を行っていましたが、教皇庁が公式に認めるという象徴的意義は小さくないものがあったことが推察されます。一方で教皇庁は、各修道会の背後にある世俗国家の影響力が、海外布教にあまりに強い影響力を及ぼしている状況を憂慮し、海外布教全般を自ら管轄するための機関として、布教聖省を1622年に設置しています。

 こうした歴史的背景を経た上で1633年にウルバヌス8世によって出されたのが、本書である大勅書⑤です。ウルバヌス8世は、ローマを代表する名家の一つで富裕な商人でもあったバルベリーニ家の出身で、ピサ大学で法学博士を受けた後、若くしてローマ教皇庁に入り、シクストゥス5世、クレメンス8世、パウルス5世、グレゴリウス15世の時代に側近として要職を歴任し、1623年にグレゴリウス15世の後を継いでウルバヌス8世となりました。学問と芸術に深い関心と理解を示す一方で有名なガリレオ裁判で1633年にガリレオに自説の撤回をさせたことでも知られています。また、聖人や福者の権威を再評価することにも非常に熱心だったと言われており、先に日本二十六聖人事件で犠牲となったフランシスコ会、イエズス会双方の関係者を相次いで「福者」として認定しています。ウルバヌス8世は、特にフランシスコ会にを重用したわけではありませんが、同会との関係が強かったものと思われ、この福者認定においてもフランシスコ会の方が先んじています。

 この大勅書が出された1633年は、ヨーロッパ中を揺るがした三十年戦争の只中にあり、ウルバヌス8世は巧みな政治戦略と軍備拡張で教皇領をかつてないほどに拡大するなど、聖俗両界に積極的に関与しており、三十年戦争を巡る複雑に交錯した利害関係の中にフランシスコ会とイエズス会の対立も配置されていたことに注意が必要です。特に、フェルディナント二世が、三十年戦争の最中において、宗教改革勃発以降にプロテスタント勢力によって奪われてきたカソリック各修道会の教会財産を以前の状態に戻すことを目論んだ「回復令」は、結果的に、各修道会の中にあって特にイエズス会に有利となる内容であったために、イエズス会と他の修道会との対立が激化するといういわゆる「修道院論争」と呼ばれる新しい紛争を引き起こしていました。

 一方、日本における布教活動は、相次ぐキリスト教弾圧事件がヨーロッパにも続々ともたらされており、その未来に暗雲が立ち込めていることは誰の目にも明らかになってきていましたが、その責任を巡ってもイエズス会とフランシスコ会をはじめとした各修道会は激しく対立しました。イエズス会は、フランシスコ会らが日本の実情を理解せずに無謀な布教活動を展開した結果であると非難し、対してフランシスコ会らは、イエズス会による誤った方針での排他的な布教活動が今日の失敗を招いたものとして激しく批判していました。

 本書であるウルバヌス8世による勅書は、このように非常に複雑で日々の変転が激しい聖俗双方の国際環境下にあって、教皇庁による最高の権威文書である「大勅書」として出されたもので、イエズス会、スペイン系托鉢修道会だけでなく、あらゆる修道会による日本とその近隣諸国における布教活動を公式に認める内容となっています。この大勅書は、上掲の日本布教の権限に関して発せられた歴代の小勅書の内容とその意義を整理しながら、最終的にこれらを全て精算して、あらゆる修道会が自由に日本とその近隣諸国における布教活動を行うことが最も望ましいとしており、結果的にイエズス会による日本布教活動独占を完全に否定する内容となっています。この大勅書が発せられたことにより、イエズス会以外の修道会が既に絶望的になりつつあった日本への布教活動を改めて勢力的に展開するようになる事態は考えにくい状況だったと思われますので、その意図は、むしろ目下の三十年戦争の最中にあって修道院論争などで激化していた修道院間対立において、イエズス会の立場を象徴的に弱めることにあったのではないかと推察されます。その意味では、この大勅書は極めて「政治的」なものと言ってよく、また当時の日本布教をめぐるイエズス会や各修道会の動向は、この本国における多分に「政治的な」事情を背景にもって展開されていたことを改めて考えさせる書物と言えます。

 本書はこのように三十年戦争の最中にあって複雑に考察した聖俗双方の利害関係と、末期に近づきつつあった日本の布教活動が密接に関係していたことを示唆する大変興味深い書物と思われますが、わずか四葉の書物であったためか、現存するものは世界的に見てもかなり少なく、国内での所蔵研究機関は皆無であるようです。