書籍目録

『ジャパン:東洋旅行と交易発展の絵(写真)入り雑誌』

東洋汽船会社 / キング・スティール(編)

『ジャパン:東洋旅行と交易発展の絵(写真)入り雑誌』

1921年11月号(第10巻第14号) 1921年(10月1日) サンフランシスコ刊

Toyo Kisen Kaisha / King Steele, James (ed.)

"Japan" - An Illustrated Magazine of Oriental Travel and Trade Development.

San Francisco, James King Steele, 1921. <AB202052>

Sold

November, 1921 (Volume X; Number 14)

23.2 cm x 30.7 cm, pp.1-72, Original pictorial paper wrappers.

Information

 この英文雑誌を発行した東洋汽船は、明治から昭和にかけて日本の旅客業界の中心の一角を担っていた海運会社です。現在の商船三井である大阪商船と日本郵船と並ぶ海運会社として大型客船や太平洋航路の運営など積極的な経営方針で知られており、特に海外旅客の誘致には特に熱心で、創業者である浅野総一郎は、紫雲閣と名付けた自身の邸宅に海外からの主要な旅客を招いて宴会を催したりもしています。また、ジャパン・ツーリスト・ビューローの活動にも尽力し「亡くなられる迄殆んど欠かさずビューローの総会に出席され、われわれを大いに激励された」とビューロー25周年回顧録に記されているほどです(山中忠雄『回顧録』ジャパン・ツーリスト・ビューロー、1937年)。残念ながら東洋汽船の旅客部門は、1926年に日本郵船へと売却されてしまいますが、本誌は全く同じ体勢と頻度で刊行を継続しています。

 本誌は英文で発行された日本観光関連雑誌としては極めて早い時期のもので、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立以前の1910年に創刊された旨が記されています。当時の日本における英文観光発行物としては、ビューローの前身にあたる喜賓会によるガイドブックやガイドマップ、日本郵船によるガイドブックなどがありましたが、月刊での英文雑誌としては、帝国ホテル内で発行されていた「武蔵野」と並んで最初期のものと言えます。しかも本誌は、日本で発行されていた「武蔵野」と違い、サンフランシスコで発行されていたため、アメリカをはじめとした国外への販売配布網が当初からかなり充実していたものと思われ、同時代の観光関係英文出版物に見られる広告のほとんどが日本国内企業によるものであるのに対して、アメリカの鉄道会社、ホテルなどの在米企業の広告が大半であることも大きな特徴と言えます。

 本誌の創刊から1930年3月号までの20年にわたって編集を務めていたのは、キング・スティール(James King Steele, 1875 - 1937)で、サンフランシスコを拠点にして日本を中心としたアジア諸国の情報をアメリカの人々に伝えることを目的に掲げ、精力的に編集活動に取り組み、自身もたびたびその筆をふるっています。キング・スティールが観光促進事業のためにフィリピンに招聘されてからはルーカス(Leonard J. Lucas)が編集を引き継いでいます。雑誌名は当初『ジャパン:東洋旅行と交易発展の絵(写真)入り雑誌』( "Japan" - An Illustrated Magazine of Oriental Travel and Trade Development)とされていましたが、1924年から25年はじめごろにかけての時点で、『ジャパン:海外旅行雑誌』(JAPAN. Overseas Travel Magazine)へと変更されています。店主自身は変更が行われた号を未見のため、確かなことはわかりませんが、店主の見る限り誌面構成や編集方針に大きな変更点はないように見受けられます。また、前述の通り、当初の発行主体であった東洋汽船の旅客部門が1926年に日本郵船会社へと売却されてからも、本誌は従前と大きな変更もなく刊行が継続されています。

 記事の構成は年代によって変化がありますが、月々の時節に応じた特集記事、日本の文化紹介記事、時事関連記事、紀行文、新造船、新路線の紹介、編者の論説、書評、在米日本協会の動向報告、書評記事、乗客のスナップショット紹介、季節のファッション紹介などが主な内容となっています。

 毎号工夫を凝らした意匠のカラー表紙と、本文中にふんだんに掲載されるモノクロ写真からすぐにわかるように、本誌は、当初からビジュアル面において大変魅力的な紙面構成をとっていることが特徴です。特に日本各地の風景を撮影したスナップ写真は、撮影者の作為性が過度に感じられないもので、被写体となった人々の自然な表情や雰囲気が伝わってくることから、日本への旅客誘致という目的においては、非常に効果的だったのではないかと思われます。現代の視点から見ると、日本をはじめとした近隣アジア諸国に人々の生活風景を伝える貴重な写真資料としても魅力的なものです。

 また、乗客紹介のページでは、太平洋間を往復する汽船の主だった乗客が写真入りで紹介されていて、政府、財界関係者の渡航履歴を追うことができるだけでなく、ハリウッドで活躍した映画スター早川雪舟や、オペラ『蝶々夫人』で国際的な名声を得ていた三浦環といった芸能、文化関係者、日本各地で西洋建築を手掛けたヴォーリズ(William Merrel Vories, 1880 - 1964)というように、政財界以外の多彩な人々が紹介されていて、思わぬ人物をスナップショットとともに見つけることができます。

 また、本紙のもう一つの大きな特徴は、アメリカから日本への旅客誘致という実利的な目的を越えて、優れた論説文や紀行文、書評記事などを掲載していることで、親日家、知日派とされる作家、知識人による記事や、東洋汽船で太平洋を渡った旅行者による紀行記事は、それ自身読み物として大変優れたものとなっています。なかでも、単身アメリカに渡り現地でジャーナリストとして成功し、積極的に日本事情を英文で発信していた河上清による時事問題を扱った記事は本誌に何度も登場しており、本誌が、国際的な政治状況の変動が激しかった時期において、日米友好の機運を高めるための媒体となっていたこともうかがえます。日本文化を紹介する記事もありきたりで一方通行的なものではなく、独自の切り口が感じられるもので、伝統文化や季節行事の紹介だけでなく、日本における女性の地位と社会進出といった、社会問題にも切り込んだ記事が多いことも特徴といえるでしょう。こうした記事内容そのものの質の高さと執筆陣の多彩さにおいては、同時代の類似雑誌と比べても際立って優れているといってよいでしょう。

 紀行文は、日本や中国、台湾、朝鮮、東南アジア諸国を訪れた旅行者によるものが多く、写真とともに著者それぞれの切り口からの見聞記や旅の経験が綴られています。東洋汽船の運営母体である浅野財閥総帥であった浅野総一郎は、東京三田に建てた自身の豪邸である紫雲閣に、東洋汽船の一等乗客を招待したことが知られていますが、本誌には紫雲閣に招待された人物による訪問記なども掲載されています。本誌に掲載されている紀行文は、直接的に見所や名所の訪問記を広告的に紹介することよりも、それぞれの著者の独自の視点や切り口に重きが置かれていることが特徴で、それ自身が優れた随筆として読めるようになっていることが特徴といえるでしょう。

 本誌には広告が多数掲載されていますが、先述の通り、サンフランシスコで発行されていたという類似他誌にない利点を生かして、在米企業の広告が中心となっていて、本誌がその販売網を通じてアメリカの読者に強い影響力を有していたことがうかがえます。サンフランシスコやニューヨークの主要なホテル、鉄道会社、汽船会社の広告などに加え、日本の鉄道局(Japanese Government Railways)や、ジャパン・ツーリスト・ビューローの広告も掲載されていて、これら広告の変遷を辿るだけでも、当時の観光業界の様相を垣間見ることができそうです。

 本誌は、日本を対象とした観光関連英文雑誌の嚆矢として創刊され20年以上の長きにわたって刊行が続けられた雑誌である一方、国内研究機関における所蔵は極めて少なく、また断片的となってしまっています。英文観光雑誌の先駆者としての意義だけでなく、観光誘致の枠組みを越えた本格的な日本文化発信のための総合雑誌としても評価することができる本誌は、その全体像の把握と本格的な研究が待たれるものと言えるでしょう。