書籍目録

『寛容論』付属『寛容についての手紙』

ヴォルテール / ロック / (カロン)

『寛容論』付属『寛容についての手紙』

1764年 出版地不明

Volteire. / Locke, John. / (Caron, Francoys (François))

TRAITÉ SUR LA TOLÉRANCE, AUGMENTÉ D’UNE LETTRE DE JEAN LOCKE SUR LE MEME SUJET.

Not placed, M. DCC. LXIV(1764). <AB202022>

Sold

12mo (9.6 cm x 17.0 cm), 1 leaf(blank), pp.[I(Title.)-iii], iv-vi, 7-204, 105-107[i.e.205-207], 208-309, 1leaf(table), 1 leaf(blank), Contemporary parchment.
刊行当時のものと思われる装丁で表紙には空押し装飾が施されていて、三方の小口はマーブル模様に染められている。状態は非常によい。

Information

啓蒙思想が生んだ不朽の二大寛容論に影響を与えたカロンの日本情報

 本書は啓蒙思想家として不朽の名声を誇るヴォルテール(Voltaire, or François-Marie Arouet, 1694 - 1778)による宗教的寛容論です。ヴォルテールがこの書物を執筆するきっかけになったのは、当時のフランスを揺るがしたカラス事件とよばれる冤罪事件で、この事件はプロテスタント一家にあってカソリック信者であった息子が自死した際に、宗教的事情を動機とした家族による殺人事件であるとして、当局が遺族を逮捕、処刑するという大変痛ましい事件でした。この冤罪事件の背景にあった当時のフランスにおけるカソリックを至上とする宗教的不寛容に対してヴォルテールは激しく反発し、遺族の弁護運動を社会運動として展開し、この問題の悲惨さを世に訴えかけるために本書を執筆しました。啓蒙思想の寵児ヴォルテールの名著の一つとして名高い書物ですが、日本関係欧文史料としても大変興味深い書物で、本書において、彼が宗教的寛容を説く際に日本のキリスト教弾圧について言及しており、しかもその情報源がおそらくオランダによる初期の対日貿易の基礎を築いたカロン(François Caron, 1600 - 1673)由来のものと考えられます。また、本書は同じく異なる文脈で宗教的寛容を説いたロック(John Locke, 1632 - 1704)による名著『寛容についての手紙』のフランス語訳を収録していますが、ロックも彼の寛容論を形成する上で、おなじくカロンの著作を参照していたことが知られています。ヨーロッパ啓蒙思想を牽引した二大巨頭による不朽の寛容論である本書は、奇しくもヴォルテールとロックがカロンを参照しながら、自身の思索を深めていたという大変興味深い背景事情を有しています。

 本書におけるヴォルテールが日本に言及した箇所はいくつかありますが、代表的な記述は第4章に見ることができます。この章は、(極めて危険だと考えられている)宗教的寛容が果たして本当に危険であるのか、またヨーロッパ以外の他の人々の間で宗教的寛容はどのように扱われているのか、について論じています。ここでヴォルテールは、考えられているような宗教的寛容にがもたらす脅威というものは実際にはほとんどなく、むしろ宗教的不寛容であることがどれほど恐ろしく、愚かであるのかについて事例を挙げて説明しています。彼は、次のように述べています。

「われわれの住む狭い地域を離れ、この地球のほかの部分を検討してみよう。トルコの皇帝は宗教を異にする20の民族を太平無事に統治しているではないか。20万のギリシア人がコンスタンチノープルで平穏な生活を営んでいる。回教の高僧までがギリシア人の総大主教を任命し、皇帝に推薦の労をとっているのである。(中略)
 インドに行こうが、ペルシアに行こうが、韃靼国に行こうが、そこでは同じ寛容と同じ平和が見られるであろう。」
(中川信訳『寛容論』中央公論社、2011年、40-41頁)

 ヴォルテールはこのように述べ、むしろヨーロッパ以外の地域では宗教的寛容が当然のものとして受け入れられており、「それによって国内の商業と農業は利するところが多かったが、国家はそのためになんの被害もこうむりはしなかった。」(前掲書41頁)としています。その上で、中国や日本に宣教のために訪れたカソリック修道会による宣教活動が迫害されることになったのは、中国や日本の為政者の不寛容によるものではなく、むしろ彼らの寛容な姿勢をもってしても目に余る宣教者自身の問題が原因だったと言います。

「世界の果てから皇帝の国土に派遣されたイエズス会士、ドミニコ会士、カプチン会士、在俗司祭らの破廉恥な喧嘩沙汰をお知りになるだけで皇帝にはほかに必要はなかった。この修道士どもは真理を伝えにやってきて、お互い同士相手を呪詛し合ったのである。よって皇帝は異国の騒乱者どもを送還する労をとられたにすぎない。」
(前掲書42頁)

 このように中国における皇帝の反応をむしろ当然のものとしてヴォルテールは評価した上で、次に日本について次のように言ってます。

「日本人は*全人類中もっとも寛容な国民であり、国内には温和な12の宗派が根を下ろしていた。イエズス会がやってきて13番目の宗派を樹立したのだが、しかしすぐに他の宗派を容認しようとしなかったために、ご存知のような結果を招いてしまった。すなわち、カトリック同盟のさいにも劣らぬすさまじい内乱がその国土を壊滅させてしまったのである。そのあげく、キリスト教は血の海に溺れ死んだのである。日本人は外の世界に自国の門戸を閉じ、イギリス人の手によってブリテン島から一掃された手合と同類の野獣のごとき存在としてしかわれわれヨーロッパ人を見なくなるに至った。大臣コルベール卿は日本人の助力を得たいと思ったが、相手側ではわれわれフランス人の助力を少しもひつようとはしなかったので、この国と貿易関係を樹立する企ては水泡に帰した。大臣は相手がてこでも動かぬのを知らされたのであった。
 それゆえこのように不寛容を説き、またこれを遂行してはならぬ所以をわが旧大陸すべてがわれわれに立証しているのである。*ケンプフェルの著書ならびに一切の日本報告録を参照」
(前掲書42,43頁)(本書では44頁)

 このように日本におけるキリスト教迫害は、不寛容によるものではなく、むしろイエズス会による不寛容な布教活動が、このような悲劇をもたらしたのだという見解を示しています。ここで興味深いのは、「大臣コルベール卿は日本人助力を得たいと思っていたが」というくだりです。これは、フランス太陽王ルイ14世の名宰相として知られるコルベールが、日本との貿易関係樹立を試みた一件のことを指しているものと思われます。この企てに際してコルベールは、オランダ東インド会社社員としてヨーロッパで他に並ぶものがいない豊かな滞日経験を有するカロンに目をつけ、彼を招聘してフランス東インド会社の役員として、フランスの対日政策策定と、具体的な使節派遣を企てました。最終的にこの試みは、ヴォルテールが言うように失敗に帰すことになりますが、晩年のカロンのこうした動きをヴォルテールが知っていたことは興味深いことです。ヴォルテールは中国や日本に対して強い関心を持っていたことがよく知られており、日本関係の知識についてはケンペル『日本誌』を参照していることが指摘されていますが、この箇所で「一切の日本報告録を参照」と自ら注を付していることからも分かるように、ケンペル以外の日本関係欧文史料にも目を通していたことがわかります。ここでヴォルテールが言及しているコルベールによる企てに関しては、バーナード(Jean Frederic Bernard, 1680 – 1744)が編集した『北方探検記』第3巻(Recueil de voiages au nord,...tome troisieme. 1715)に収録されたカロン『日本大王国志』仏訳と「日本関係補遺」として収録されたカロン「コルベールの命によって書かれた日本との商業関係樹立についての覚書」をはじめとした関連文書が典拠となっているのではないかと思われます。カロンによるフランス東インド会社での対日交渉樹立に向けた動きについては、刊行された書物としてはこのバーナードの『北方旅行記』第3巻に収録されたものが初出と思われ、また他の書物にも転載されていないようですから、ヴォルテールはおそらくバーナードの書物からこの企ての詳細を知ったものと推察されます。

 また、本書の後半に収録されているロックの『寛容についての手紙』は、ヴォルテールが自身の寛容論を執筆するにあたって大いに参照したことで知られる書物で、この二つの寛容論が一冊にまとめられている本書は、数種類が存在するヴォルテール『寛容論』刊本中にあって唯一の大変珍しいものです。ロックの『寛容についての手紙』の中では、直接日本について言及した箇所は見られませんが、ロックがこの書物を刊行するかなり以前から構想を練っていたことが知られており、その際に作られた草稿では日本のキリスト教迫害に対して言及した記事があったことがわかっています。この草稿を注釈と解説とともに翻刻したミルトン編『寛容についての考察(An Essay Conerning Toleration. And Other Writings on Law and Politics, 1667-1683, Oxford, 2006.)』において、このことが特筆すべきこととして詳しく取り上げられています(同書157-159頁)。同書によると、ロックはその情報源を明記していないものの、日本における1614年以降のキリスト教迫害についての解説と考察を非常に詳しく行なっており、その情報源はおそらくカロン『日本大王国志』ないしは、それに由来にする何らかの文献であろうと推察されています。ロックは、カロン『日本大王国志』の英訳抄録版とも言える記事を収録した『航海・旅行記集成(A collection of voyages and travels,...1704)』を出版したチャーチル(Awnsham Churchill, 1658 - 1728)とも大変親しく、自身の作品のほぼ全ての出版を彼に任せていましたので、あるいはチャーチルから何らかの情報提供があったのかもしれません。いずれにしても、現代でも不朽の名著とされるロック『寛容についての手紙』の構想段階で、ヴォルテールと同じくカロンに由来する日本情報をロックが参照していたと言うことは、大変興味深いことと言えるでしょう。

刊行当時のものと思われる装丁で表紙には空押し装飾が施されている。
タイトルページ。出版社や出版地に関する情報が一切記されていない。
本文冒頭箇所。
第4章の日本について言及した箇所。「日本人は*全人類中もっとも寛容な国民であり、国内には温和な12の宗派が根を下ろしていた。イエズス会がやってきて13番目の宗派を樹立したのだが、しかしすぐに他の宗派を容認しようとしなかったために、ご存知のような結果を招いてしまった。すなわち、カトリック同盟のさいにも劣らぬすさまじい内乱がその国土を壊滅させてしまったのである。そのあげく、キリスト教は血の海に溺れ死んだのである。日本人は外の世界に自国の門戸を閉じ、イギリス人の手によってブリテン島から一掃された手合と同類の野獣のごとき存在としてしかわれわれヨーロッパ人を見なくなるに至った。大臣コルベール卿は日本人の助力を得たいと思ったが、相手側ではわれわれフランス人の助力を少しもひつようとはしなかったので、この国と貿易関係を樹立する企ては水泡に帰した。大臣は相手がてこでも動かぬのを知らされたのであった。  それゆえこのように不寛容を説き、またこれを遂行してはならぬ所以をわが旧大陸すべてがわれわれに立証しているのである。*ケンプフェルの著書ならびに一切の日本報告録を参照」
後半には同じく寛容論の名著として名高いロック『寛容についての手紙』仏訳版が収録されている。ロックのこの作品を収録した版は極めて貴重とされている。
(参考)ロック『寛容についての手紙』(第2版)タイトルページ。カロンの英訳と思われる記事を収録した航海記の出版で知られるチャーチル兄弟の出版社から刊行されている。チャーチルとロックはオランダ亡命時代に親しくなり、ロックの主要著作はほぼ全てチャーチル兄弟の出版社から刊行されている。
状態は非常によい。
三方の小口はマーブル模様に染められている。