書籍目録

『新東インド誌』

ハミルトン

『新東インド誌』

初版 全2巻揃い 1727年 エディンバラ刊

Hamilton, Alexander.

A NEW ACCOUNT OF THE East Indies, BEING THE OBSERVATIONS AND REMARKS Of Capt. Alexander Hamilton, Who spent his time there From the Year 1688. to 1723….

Edinburgh, John Mosman, MDCCXXVII(1727). <AB202018>

Sold

First edition.

8vo (12.0 cm x 19.7 cm), 2 vols.(complete) / Vol.1: pp.[i(Title.), ii], iii-xxix, pp.i-viii, 1 leaf, pp.1-396, Folded maps: [3], Plates: [4]. / Vol.2: pp.[i(Title.), ii], iii-vii, pp.3-309, pp.1-10, 1 leaf(blank), Folded maps: [5], Plates: [6], Contemporary full leather.

Information

「希望峰から広東まですべての港を訪れた」稀代の冒険家によるユニークな日本論と日本地図

 本書は、「希望峰から広東まですべての港を訪れたことがある」とまで評されたスコットランド出身の稀代の冒険家、ハミルトン(Alexander Hamilton)が、長年にわたって航海、滞在した東インド各地の最新事情をまとめたものです。彼自身は日本に赴くことはできませんでしたが、第2巻末尾では、彼が各地で見聞した情報を頼りに記した独自の日本論が展開されていて、また他に類似のものが見当たらない大変ユニークな日本地図を折込図として収録しており、日本関係欧文史料としても大変重要な文献と言えるものです。

 ハミルトンの生涯について詳しいことはほとんどわかっていませんが、イギリス東インド会社の提督として、表題に記されているように1688年から1723年という実に35年もの間、東インド各地を航海、歴訪、滞在しました。こうした長期間にわたる豊富な現地滞在経験を有するハミルトンによる東インド各地の最新事情をまとめた本書は、タイトルに「新」を冠するにふさわしいもので、18世紀後半に同海域にイギリスが積極的に勢力を伸ばすことを試みる誘因の一つになったともいわれています。本書は、後年に再版を重ねただけでなく、現在に至るまでも名著として高く評価されていて、1930年にはハクルート協会から復刻版が刊行されています。

 本書は全2巻で構成されていて、東インド各地の事情が折込地図や図版とともに紹介されていますが、上述のように日本についても、ハミルトンによるユニークな見解が第2巻末尾(299頁〜)に掲載されています。ハミルトンは、台湾についての記述に続いて日本のことを論じており、まず台湾からの日本までの距離として、台湾北部から日本の南部までは約220リーグほどの距離で、この間の島々には活発な活火山が多く見られるが、交易に関して言えば目立ったものがない、という説明をしています。

 そして、次のように大変ユニークな、日本の歴史とキリスト教との関係史を展開しています。すなわち、豊後(Bungo)という国は、かつて王国の称号を冠する名誉に預かっていたが、1655年ごろにその称号を喪失した。その大きな理由は、キリスト教布教にあまりにも熱心すぎたからだためである。日本を発見したポルトガル人は、この国では、金銀貿易によって大きな利益を上げられると同時に、いとも簡単にキリスト教の教えを広めることができると考えて、野蛮なやり方で布教活動を行なった。100年近くの間に18万もの世帯で信者を獲得し、一説によると皇帝自身もキリスト教徒になったと信じられていたが、内乱が勃発し、強大な皇帝の権力が失われ混乱が広がった。この時、ポルトガル人は、今こそマホメットがかつてそうしたように、彼らの宗教を血でもって(武力を用いて)確立すべき時だと考えたのである。そして、5万ものキリスト教兵士が蜂起し、日本諸島全体がキリスト教に染まるかと思われた。皇帝はキリスト教が彼の国において危険になると考えるようになり、当初は静観を装っていたが、大都市である大坂(Ossacca)で自らの軍隊を動員して、キリスト教徒との戦闘を始め、徹底的な弾圧を加えた。これ以降、日本ではキリスト教であることが判明した者には死がもたらされるようになった。等々。このユニークな見解は、キリスト教を擁護した信長の本能寺の変による突然の死や、大坂の陣と島原の乱などの大事件の要素が錯綜して伝わっているように見受けられますが、逆に特定の書物の受け売りでない、著者自身が当時の歴史を再構成しようとする姿勢が見えます。

 続いてハミルトンは、過酷さを極めるキリスト教弾圧の様々な様子について言及してから、イギリスとオランダが平戸(Firando)に商館を構えたことを紹介し、オランダ人の陰謀によって誤った情報を信じた日本の皇帝が、イギリス人を日本から永久に追放することにしたという見解を披露しています。この辺りの経緯についても史実とはかなり異なりますが、著者のオランダに対する強い反感が伝わってくる見解で、しかもこうした説が18世記前半のイギリスにおいて広く親しまれたということは、興味深いことと言えるでしょう。さらにハミルトンは、長崎(Nangasaak)の小島に閉じ込められているオランダ人による日本との交易へと筆を進めますが、ここでも彼が偶然耳にしたという興味深い挿話として、オランダ商館長であるフランス人カロン(Mr. Charron a Frenh Man)についての小話を披露しています。この話も史実からは大きくかけ離れたもので、どこまでハミルトン自身が本当に信じていたのかも疑わしいのですが、オランダに対する強い反感から出てきたものと言える内容で、オランダに対するいわゆるネガティブキャンペーンの一種とも考えられます。

 日本の人々に対するハミルトンの見解は、概ね好意的といってよく、道徳規則について極めて厳格で、特に商取引においてそうであると解説しています。また、取引で用いられる金貨である小判(Cupangs)のことや、世界で最良といえる漆製品(japon’d Ware)のことも紹介したり、地理情報として、緯度は概ねブリテン諸島と同じくらいだとも解説を加えています。これ以降も、司法制度は極めて正確で、厳格な刑罰制度があることや、名誉を極めて重んじること、民衆の家屋は木材でできているが、皇帝の邸宅は銅で覆われ美しく装飾されていること、巨大都市(Metoropolis)である江戸(Jeddo)は、1660年に高いに見舞われたこと、阿弥陀(Amida)と呼ばれる神のほか数多くの神神を祀る信仰を持っていること、等々、多岐にわたるトピックで日本のことを解説しています。

 ハミルトンの日本についての記述は、彼自身が実際に日本を訪れることがなかったため、先行文献の影響を受けていたり、不正確さが散見されるものですが、しばしば「自分が聞いた話として」というような表現で、ハミルトンが実際に耳にした噂話を典拠にもしていて、その当否はともかくとして、そのような日本に関する噂が伝えられていたことは、ある種のリアリティを感じさせる点で大変興味深いものです。このような表現で日本のことを解説した同時代の文献はあまり見受けられませんので、「希望峰から広東まですべての港を訪れたことがある」とまで評される稀代の冒険家による日本論としてとてもユニークなものといえるでしょう。

 こうしたハミルトン独自の日本論と並んで、本書に収録されている日本を描いた折込地図は、他のいかなる同時代、あるいは先行する日本地図とも異なる姿で描かれていて、地図史の観点からも大変注目すべき作品となっています。この奇妙な地図は、現存するハミルトンの航海記の中でもしばしば失われていることがありますので、それが失われず、良好な状態で残されているという点でも、本書は大変貴重といえるでしょう。


「ハウジーゴ(2003)によると、アレクサンダー・ハミルトンはイングランドの東インド会社で働いていたスコットランド人船長で、『希望峰から広東まですべての港を訪れたことがある』と言われていた。
 ハミルトンについては彼自身が書き残した物があるが、ほとんど不確かだ。誕生年は、シュルーズベリー号でボンベイ(現ムンバイ)へ出航した1688年より何年も前だということしかわかっていない。死亡年についても、東インド会社での身分を請願した1733年には生きていたという事実から推測するしかない。
 1930年、ハクルート協会会長サー・ウィリアム・フォスターは、アルゴノート・プレス社によるハミルトン作品の再版に序文を書いている。彼はハミルトンの数多くの航海と冒険を要約したあと、『作者の姿を生き生きと』描いている。長くなるが、引用する価値はある。
『自分には多くの欠点があると彼は率直に認めるだろう。彼は短気で傲慢、進むのを邪魔する人はことごとく無視するきらいがあった。偏見が強く、そのような場面では酷く不公平になることがあった。聖職者すべて、中でもローマカトリック教会を忌み嫌った……東インド会社とその使用人のほとんどを嫌った……オランダ人とその手法を強烈に非難し、また一方でスペイン人とポルトガル人を軽蔑していた。訪れた国々の現地民については褒めることもためにはったが、彼らに対する態度はせいぜい我慢しているという程度だった。仕事の面ではほとんどライバルはいなかった。彼は安く使えるやり手であり、たいした富を築けなかったのは、腕ではなく不運のせいだったことは確実だろう』……『しかし最盛期の彼は抜け目がなく有能冷静で、困難な局面にも落ち着いて対処し、可能性に満ちた人生を満喫し、訪れた幸運を最大限に活用するという、まさに英国人冒険家の見本のような人だった』(ハミルトン、1930)
(ジェイソン・C・ハバード / 日暮雅通訳『世界の中の日本地図:16世紀から18世紀西洋の地図に見る日本』柏書房、2018年、地図番号27解説、333ページより)


「ハミルトンは英国の航海者で、ネプチュン商船学校を卒業後航海に従事し、1688年にインドに渡航。以来インドを中心にジャヴァ、支那、フィリッピン等、喜望峰以東各地で貿易に従い、1723年に帰国した。本書はその間見聞収得したる知識を組織的に記したるもので、地理、社会、航海に及び、実地に基く故注意すべき記事が多い。日本についても第2巻末に12頁を費している。初版1727年、再版1744年。(Cordier, Japonica, col. 431-432)」
(故内田嘉吉氏記念事業実行委員編『内田嘉吉文庫目録』1937年、112-113ページより)

刊行当時の装丁と思われるもので、状態は良好といえる。
第1巻
第1巻タイトルページ。
献辞冒頭箇所。
序文冒頭箇所。
目次冒頭箇所。本書においてハミルトンが言及する地域は実に多岐にわたる。
第1巻本文冒頭箇所。複数の折込地図が収録されている。地図はいずれも内陸の情報よりも航海を重視した海図的側面が強い。
時折図版も用いて解説を補強している。
第2巻。日本地図と日本論が展開されるのは、この第2巻である。
第2巻タイトルページ。
中国を開設する第50章冒頭に収録されている折込地図。
他に類似する例が見当たらない大変ユニークな日本地図である。
ハミルトンによるユニークな日本論は、第2巻末尾(299頁〜)で展開されている。上掲はその冒頭箇所。
オランダの陰謀によってイギリスが日本を追われることになったいう見解を披露している。
ハミルトンが耳にしたという、オランダ商館長カロンをめぐるエピソードは史実とは思えないが、そのような噂話が当時東インド近辺で流布していたのだとすれば、それ自体が興味深い。
日本の刑罰制度など、来日経験がないにもかかわらず、ハミルトンは多くのテーマで日本のことを紹介している。
第2巻末尾は東インド各地で用いられている度量衡の一覧となっている。