書籍目録

「日本図」

ブラントン

「日本図」

初版 1876年 ロンドン刊

Brunton, Richard Henry.

NIPPON [JAPAN] 1876. COMPILED FROM NATIVE MAPS AND THE NOTES OF RECENT TRAVELLERS BY R. HENRY BRUNTON, M. INST. C.E., F.R.G.S., LATE ENGINEER IN CHIEF TO THE LIGHT HOUSE DEPARTMENT OF THE JAPANESE GOVERNMENT.

London, (PUBLESHED FOR THE COMPILER BY) MESS RS TRÜBNER AND Co, 1876. <AB2019188>

Sold

First edition.

Folded map. (114.5 cm x 140.0 cm / case boards: 20.3 cm x 30.3 cm), dissected, mounted on linen, bound with green boards.
折込部分の一部に切れ目、染み跡あるが、全体として良好な状態。

Information

明治最初のお雇い外国人ブラントンによる幻の日本図

 1868年、新生したばかりの明治政府は、灯台建設主任技師として、スコットランド出身のイギリス人、ブラントン(Richard Henry Brunton, 1841 - 1901)を採用します。これが後に「お雇い外国人」と言われる者の第一号で、ブラントンは1868年8月から1876年3月まで日本でその役割を果たしました。ブラントンは、改税約書(1866年締結)によって、その設置が義務付けられた日本各地の灯台建設だけでなく、横浜居留地の設計と上下水道の整備計画立案、日本最初の電信架設と鉄道建設への協力など、多方面において明治日本の近代化に貢献しました。彼が残した草稿を元に翻訳された『お雇い外国人の見た近代日本』(徳力真太郎訳)は、彼の日本での功績だけでなく、黎明期の明治政府と日本社会の様子を伝える貴重な資料となっています。

 ここにご紹介するのは、このブラントンが作成した「幻の日本地図」とでもいうべきものです。ブラントンが上述のような多方面にわたる貢献を日本で成したことについては、それなりの研究蓄積がありますが、ブラントンが作成したという日本地図については、長らく研究がほとんど皆無に等しい状況でありました。この状況を変えたのが、金坂清則氏による画期的な論文「R. H. ブラントン編の日本図 Nippon [Japan]をめぐって」(「地図」Vol.36 No.3 1998所収)、ならびに「ブラントン日本図 Nippon [Japan]の表現内容とベースマップに関する考察」(「地図」Vol. 36 No. 4 1998所収)で、金坂氏の研究成果によって、ブラントン「日本図」の全貌と重要性が初めて明らかにされました。金坂氏は、国立スコットランド図書館地図図書館所蔵のブラントン「日本図」(これのみが唯一折り畳みではなく4シートからなるシートタイプ)の撮影と複製作成も行われ、それまでほとんど認識されていなかったブラントン「日本図」の詳細を明らかにされています。


「(前略)ブラントン日本図は、電信・鉄道・灯台といった近代西欧文明が生み出したものや、詳細な水深データという、これまた西欧列強の側が推進した海図作成事業のための調査測量の成果をも積極的に盛り込んだ。そして、ここにはブラントンのお雇い外国人としての事蹟もが見事に組み込まれた。その意味で、西欧的なものを含む近代日本図の魁をなすものであり、急速に近代化・西欧化を進めていた明治初期という時代の特徴をよく示す日本図、外国製日本図であると言うことができる。が、その一方では、「日本の複数の地図及び近年の旅行者の記録により編纂」と識語に記されているごとく、日本製日本図、いわば前近代の日本の地図作成の成果がこの地図の土台になっており、ここに、表現内容の正確性という点で近代日本図としての限界もまた存在していた。
 以上の意味で、ブラントン日本図は西欧近代地図と近世日本図の二つの要素がミックスされた、日本の地図作成史上の一大変革期を代表する地図だと位置づけることができる。」
(金坂清則「ブラントン日本図 Nippon [Japan]の表現内容とベースマップに関する考察」より)

 地図の詳細、諸特徴については、金坂氏の論文が詳細に明らかにされており、そちらをご覧いただくことが最良(いずれもオープンアクセスでインターネット上での閲覧も可能です)ですので、ここではいくつかのことを、氏の論文を頼りに記します。

 金坂氏の先の論文における調査によりますと、ブラントン「日本図」の現存数は極めて少なく、大英図書館地理室、スコットランド図書館地図図書館、横浜開港資料館にしか所蔵が確認できなかったようです。この現存状況は金坂氏の論文から約20年が経過した現在でも、ほぼ変わりがないと思われます。

 また、この「日本図」は、ブラントンが帰国して間もない1876年に刊行した初版と、1880年の刊行年を付した第2版とも言うべき二種類が少なくとも存在しているそうで、1880年版については、大英博物館にしか所蔵がないそうです(以前当店で扱ったものを含めると2本が現存)。本図は1876年の刊行年が記載されていますので、初版にあたることになります。初版と第2版の地図上の大きな変化は、店主が一見した限りでは分かりませんが、地図右下にある、表(代表的な山、河川、島、岬、湖といった自然現象と、街道、開港場におおける外国人口と貿易統計、府県などの人文現象を示す)内の数値には少なくとも、違いが認められました。

 ブラントンの地図作成は、彼のお雇い外国人の職務と直接的に関連するものではありませんが、彼の本務と極めて密接に関係した事業であったといえるそうで、そのことを示す特徴を地図上で随所に確認できます。たとえば、灯台が目立つように着色されているほか、日本近海の水深を数多く記載している点などは、まさに彼ならではの日本図の特徴といえるものです。欧米列強諸国から安全な航海を保証するため措置として、灯台設置が求められていたわけで、その要求に十分に応るには、単に灯台施設を整備するだけでなく、信頼できる測量数値に基づいた地図を作成し刊行することと不可分で、その意味で、日本図作成は、ブラントンの本務に限りなく近いことだったということは、本図を詳細に見ると確かに頷けるものです。その他、これ以外の多くの興味深い特徴についても、金坂氏の論文では指摘されています。

「日本を辞去する前の私の仕事の一つは、日本の地図の資料を利用して縮尺1インチ(約2.54センチメートル)20マイル(約32キロメートル)の地図を作成することであった。それによって町や村や河川、山岳、道路などを現在のものよりずっと大きく表示できた。通訳の助けを借りて日本語で表示された名称はローマ字綴りに直した。ローマ字の表示方は、当時世界中で日本学の第一人者と目されていたイギリス公使館の書記官E.サトウ氏の推薦する綴字法によった。この地図は発行後、標準日本地図とみられ、欧米の各国政府の各部局や、日本と貿易する商社などに広く購買された。日本内陸を旅行する者もこの地図の価値を認めた。ミス・バードは彼女の著書『日本の未開発の地方(Unbeaten Tracks in Japan)』の中で、この地図はよき案内書であったが、ときには失望したこともあった、と書いている。」
(R.H.ブラントン / 徳力真太郎訳『お雇い外国人の見た近代日本』(講談社学術文庫、1986年より)