書籍目録

『キーリングの日本案内』

ファルサーリ

『キーリングの日本案内』

改訂第4版第2刷 1890年 横浜刊

Farsari A(dolfo).

KEELING’S GUIDE TO JAPAN. YOKOHAMA, TOKIO, HAKONE, FUJIYAMA, KAMAKURA, YOKOSKA, KANOZAN, NARITA, NIKKO, KIOTO, OSAKA, KOBE &c., &c. TOGETHER WITH USEFUL HINTS, HISTORY, CUSTOMS, FESTIVALS, ROADS, &c., &c. WITH TEN MAPS.

Yokohama, A. Farsari (FOR SALE BY Kelly & Walsh, Limited), 1890. <AB2019179>

Sold

4th Edition, Revised and Enlarged [2nd Issue]

10.8 cm xx 15.5 cm, 2 leaves, Title., 2 leaves, pp.[1], 2-164, 7 leaves(Advertisements), Maps: [10], Original publishers red cloth.
製本の綴じにゆるみがあり、本体と外れかけている箇所あり。「日光」の箇所中心に線引き、書き込みあり

Information

「1880年(明治13)7月、後述するマレーの日本旅行ハンドブックより1年早く、キーリングのツーリスト・ガイドが横浜のサーシェント・ファルサーリ商会から発売された。横浜・東京を中心に日光・富士箱根・京都・大阪あたりまでをカバーしたコンパクトなガイドブックで、横浜の英字新聞各紙に広告が掲載されている。第2版(1884年)の序文によれば、この初版はすぐに売り切れ、旅行者の好評を得たことを証明したという。第3版は内容も増補され、地域も瀬戸内海・長崎まで拡大されている。
 キーリングのガイドブックをマレーのハンドブックのダイジェスト版のようにとらえる向きもあるが、刊年からいってもそれは間違いであることがわかる。たしかにマレーのハンドブックは内容も高度で立派なものであるが、もっと簡便なガイドブックで用の足りる旅行者も多かったに違いない。たとえば、1891年頃に来日した世界漫遊家のひとりは、日本旅行のガイドブックとしては、舞年の鉄道ガイドかキーリングの最新版があれば十分であり、香港でも手にはいると述べている。またマレーのハンドブックの第2版から第3版までの間に7年の空白があり、長く絶版状態になっていたことも、他のハンドブックの出版をうながしたといえる。キーリングのガイドブックがいつまで刊行されたのか不明だが、確認できる最終の第4版は1890年の刊行であり、キーリングの第2〜4版は、マレーの第2版が出てから第3版が出版されるまでの、ちょうどその合間に出されているのである。」
(横浜開港資料館編『世界漫遊家たちのニッポン–日記と旅行記とガイドブック』2001年、28頁より)

「ファルサーリは1841年、ヴィンチェンツァに生まれ、モデナ陸軍士官学校に通ったのち、ナポリで陸軍に入隊した。そのまま軍人の道を歩むかと思われた矢先、おそらくは借金が理由で、出奔同然にアメリカへ渡る。南北戦争中は北軍に従軍し、2度負傷しながら、終戦まで戦った。その後ニューヨークで金持ちの未亡人と結婚するが、この結婚生活は失敗に終わったらしい。1867年以降、行方不明となる。
 消息不明だったファルサーリが姿を現したのは、明治6年(1873)の横浜だった。その後の数年間の足跡も不明だが、明治11年版ディレクトリーにいたって、横浜タバコ会社(Yokohama Cigar Co.)の支配人として名前が現れ、翌年版からサージェント・ファルサーリ商会(Sergent, Farsari & Co.)のパートナーとなる。
 明治18年2月、玉村家康三郎をパートナーとして、居留地17番のベアト以来の老舗の写真館をフランツ・フォン・スティルフリートから継承し、ファルサーリ商会を創始した。しかし、スタートは災難続きだった。まず創業直後の19年2月9日、火災で写真館が全焼し、ネガを失ってしまった。またこの年にはパートナーの玉村康三郎を300ドル相当の硝酸銀を盗んだ廉で告訴するが、無罪となった玉村から逆に名誉毀損で訴えられるという泥仕合を演じている。
 ファルサーリは隣の16番に移転するが、同じ時期に臼井秀三郎が興した横浜写真社が史料から消えるので、これを買収した可能性がある。この頃、あるガイド・ブックに出した広告によると、失われたネガを回復するため、5ヵ月に及ぶ撮影旅行を敢行した。同じ広告のなかで、当社の写真は良質のため高価だが、一見すれば他の写真館で購入する気にはならないであろうとか、サンプルの彩色と寸分違わぬ写真を提供しうる唯一の写真館である、などと述べており、そうとうな自信家だった。(中略)どこで技術を習得したのか不明だが、自信に満ちたプロの写真家だった。
 明治23年(1890)ファルサーリは娘のキクを連れてイタリアへ帰国し、家族をビックリさせている。娘の存在を全く知らせていなかったからである。横浜に戻るつもりだったらしいが、健康がそれを許さなかった。8年後の1898年、ヴィンチェンツァ近郊の別荘で死去、57歳であった。」
(斎藤多喜夫「横浜写真小史再論」横浜開港資料館『F.ベアト写真集2: 外国人カメラマンが撮った幕末』明石書店、2006年所収、131, 132頁より)