書籍目録

『須磨の浦:劇中場面;日本語からの翻訳』

ヴァレンツィアーニ

『須磨の浦:劇中場面;日本語からの翻訳』

(季刊誌『オリエント』第1巻第2号からの抜刷り) 1894年 ローマ刊

Valenziani, Carlo.

LA SPIGGIA DI SUMA: SCENE DRAMMATIE; TRADDOTTE DAL GIAPPONE.

Roma, Tipografia della R. Accademia Dei Lingei, 1894. <AB2019156>

¥33,000

(Extracted from quarterly journal l'Oriente vol. I, N.2. - 1 April 1894)

8vo (15.3 m x 22.8 cm), pp.[1(Title.)-3], 4-29, Later green paper wrappers.
タイトルページに汚れが見られるが、全体として良好な状態。

Information

歌舞伎や文楽で人気の高い『一谷嫩軍記』のイタリア語部分訳

 本書は、歌舞伎や文楽の有名な演目である『一谷嫩軍記』の二段目の第一段(一谷陣門の段)、第二段(須磨の浦の段)、第三段(組討の段)を、ローマ大学東洋語講座初代教授ヴァレンツィアーニ(Carlo Valenziani, 1832 - 1896)が、イタリア語に翻訳し、注釈を施したものです。ヴァレンツィアーニは1893年に『敦盛の死(La mort d’Attu0mori.)』と題した組討の段の翻訳を発表していましたが、本書はこれを拡張して発表したもので、歌舞伎と文楽の演目として今なお人気を誇る『一谷嫩軍記』をイタリアに紹介した作品として大変興味深い書物です。

 19世紀イタリアにおける日本と日本語研究は、古くからある布教史の再版や伝道報告を別とすれば、世記半ばに政府主導で始まった東洋語研究に端を発しています。ヨーロッパ諸国と東アジア諸国との貿易の隆盛を背景として、1860年、イタリア政府は東洋語研究を進めるために、奨学生試験を実施しました。この試験に合格したセヴェリーニ(Antelmo Severini, 1828 - 1909)は、当時、東洋語研究の最先端であったフランス、パリに留学し、ロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)から日本語を学び、帰国後は、フィレンツェ大学の前身である高等科学研究所(Istitutio di Studi superiori)で東洋諸言語の講座を担当し、イタリアにおける最初の東洋語講座教員となりました。セヴェリーニはこの研究所において教鞭を取って後進の日本研究者を数多く育てただけでなく、東洋研究雑誌『イタリアにおける東洋研究雑誌(Bollettino italiano degli Studi orientali)』を1876年に創刊するなど、研究成果の発表、公開にも極めて精力的に取り組みました。1877年には高等科学研究所内に「東洋研究アカデミー(Accademia Orientale)」を設立し、東洋諸言語に関する文献の収集、研究、翻訳書籍の刊行を行い、イタリアにおける東洋語研究の基礎を多方面に渡って築き上げました。

 こうしたフィレンツェにおける東洋語研究の興隆に呼応して、1876年、ローマ大学では最初の東洋語講座が開設されることになり、このローマ大学東洋語講座の初代教授となったのが、本書の著者ヴァレンツィアーニです。ヴァレンツィアーニは、セヴェリーニとほぼ同世代の学者ですが、その経歴は学者としては異色といえるもので、1850年にローマ大学を卒業してからは大学に残らず、イタリア鉄道省の弁護士として実務に専念しており、その傍ら、大学に頼らず自学自習によって東洋語研究を独力で務め、1876年にローマ大学の教授となりました。教授就任以前から精力的に日本の文化や、道徳の紹介、文学作品の翻訳などの研究成果を発表しており、セヴェリーニと並んで19世紀イタリアにおける東洋語研究の牽引者として大きな足跡を残しましたが、残念ながら現在ではほとんど知られていないようです。

 ヴァレンツィアーニとその著作については、吉浦盛純『日伊文化史孝:19世紀イタリアの日本研究』(イタリア書房、1969年)において、詳細に紹介されています。同書では、東洋学者ノチェンチーニ(Lodovico Nocentini, 1849 - 1910)によるヴァレンツィアーニ評として、次のように言われています。

「ヴァレンツィアーニは17歳の時、イタリアの独立戦争に参加するため、一時学業を捨てたことがある。大学卒業後は鉄道省の弁護士になったが、彼の法律的見解は大いに重きをなした。彼は公務の許すかぎり、言語の研究に熱中し、特に東洋の言語に多大の興味を有した。ローマ大学における東洋語の講座も、彼のために創設されたものである。彼は通俗的な読み物にあらわれた一般民衆の生活に強い興味を示した。また支那のものよりも、人情味と芸術味の豊かな日本のものに、一層深い興味をもった。論文を執筆するに当っては、推敲に推敲を重ねる習癖があったので、書き残したものは比較的僅少である。しかし、それら僅少の労作によっても、彼の研究に対する熱と愛とは、十分に観取される云々。」(同書41頁)

 本書のことは同書でも取り上げられており、下記のように紹介されています。

「これは、最初季刊誌 L’Oriente の1894年4月1日号に掲載し、同年ローマの Accademia dei Lincei の付属印刷所で再版したものである。
 並木宗輔(1655-1751)らの浄瑠璃『一谷嫩軍記』(宝暦元年初演)の第二幕『須磨の浦曲』の第一場から第三場までの翻訳で、『組討ちの段』は、(6)に記載したジュネーブ発行の『一谷嫩軍記、組討段』(先述した1893年の翻訳のこと;引用者注)と同じである。
 序文によると、ヴァレンツィアーニは、この翻訳は、主として1882年東京で出版された芝居の脚本集『邪麻土文範』の第二巻より、同じ年に出版された時代世話歌舞伎種本を参考にし、また第二場、第三番の翻訳には、シーボルトの日本書籍目録(Catalogus librorum etmanuscriptorum Japonicorum)第375号(23頁)に記載されている大阪版の古版浄瑠璃本によったと述べている。
(同書71,72頁)

 19世期イタリアにおける日本語、日本研究は、実に多彩な、語学、文学、文化、歴史研究を生み出しましたが、その多くが100ページに満たない小冊子であったことも災いしてか、国内研究機関における所蔵状況は、極めて乏しいものとなってしまっています。吉浦盛純は、戦前から戦後にかけてこの分野の文献を収集して、パリやロンドンにおける日本研究とはまた違った日本研究がイタリアにおいても豊かに展開されていたことを前掲書において紹介していますが、同書で紹介された多くの文献は、今も国内研究機関において未所蔵となっているものが多く、こうした所蔵状況のせいもあって、19世期イタリアにおける日本研究に対する注目は、他国におけるものと比べて低いものとなってしまっているのは、非常に残念なことです。


「私の蒐集した日本文学の翻訳は、ほとんどセヴェリーニ、ヴァレンツィアーニ、プイーニ、ノチェンチーニの4人の手に成るもので、翻訳の範囲は、小説、物語、軍記物、演劇、和歌、往来物などの多方面にわたっている。訳文は正確で、特に語義の研究には力を注いでいるようである。日本の書籍の入手も容易でなく、参考書の類も乏しかった時代に、これだけの業績を残したことは、高く評価さるべきであろう。
 これらの資料探しには、今でも忘れられない数々のエピソードがある。もっとも骨が折れたのは、日本文学の翻訳の蒐集であった。それは、これらの翻訳のほとんど全部が、発行部数も対して多くはなかったろうと思われる大学やアカデミーの紀要や雑誌に掲載され、抜刷りのあるものもあるが、百年近くたつと、どちらも容易に発見することができないからである。しかも大部分は、数頁、数十頁の薄っぺらな冊子で、古書店のカタログに掲載されることは絶無で、古書店に足を運んで探すほかはなく、さらにカードの備え付けもない店では、蜘蛛の巣やほこりと戦いながら、高い書棚の本を上から下まで、一冊一冊丹念にのぞいてみなければならないこともあった。
 第二次大戦後は、この種の文献もほとんど影をひそめてしまったので、これからは余程の幸運に恵まれないかぎり、簡単に入手することは、できないのではないかと思われる。こんな次第で、数年前のローマ滞在中にも、かなり方々探して見たが、どうしても入手不可能に終ったものもある。しかし現在の私には、何時になったら、それらを入手できるか、見当もつかないので、心残りではあるが、一応今までに集めた文献にもとづいて、本書を出版することにした。日伊間の文化交渉研究の上に、多少なりとも役に立つことがあれば、長年の古本探しの苦労も報いられるわけである。」
(前掲書「あとがき」より)

タイトルページ。
序文冒頭箇所。
『一谷嫩軍記』についてかなり詳細な解説がなされている。
第一段(一谷陣門の段)冒頭箇所。
第二段(須磨の浦の段)冒頭箇所。
第三段(組討の段)冒頭箇所。
薄手の紙装丁。後年の別の著作の表紙裏紙が用いられている。