書籍目録

『「孝行往来」あるいは道徳の作法という日本の教科書』

ヴァレンツィアーニ

『「孝行往来」あるいは道徳の作法という日本の教科書』

初版 1873年 ローマ刊

Valenziani, Carlo.

KAU-KAU WAU-RAI OSSIA LA VIA DELLA PIETÀ FILIALE. TESTO GIAPPONESE. TRASCRITTO IN CARATTERI ROMANI E TRADOTTO IN LINGUA ITALIANA CON NOTE ED APPENDICE.

Roma, Tipografia Barbéra, 1873. <AB2019154>

Sold

First edition.

Large 8vo (15.4 cm x 24.4 cm), pp.[1(Half Title.)-3(Title.)-5(Dedication)-13], 14-119, 1 leaf(Indice), Folded plate: [1], Original green paper wrappers.
表紙や本文にスポット状の染みが散見されるが、全体として良好な状態。

Information

イタリア語に翻訳、解説された江戸時代に広く読まれた道徳書

 本書は、江戸時代に広く読まれた一般向けの道徳書である『孝行往来』(天保6年、1835年)をローマ大学東洋語講座初代教授ヴァレンツィアーニ(Carlo Valenziani, 1832 - 1896)が、イタリア語に翻訳し、注釈を施したものです。また付録として、同じく江戸時代を通じて修身の教科書として寺子屋などで広く読まれていた『実語教』のイタリア語訳も収録しています。19世記半ば以降に始まったイタリアにおける東洋語研究を牽引したヴァレンツィアーニよる、日本の道徳と文化を紹介した著作として、大変重要な著作です。

 19世紀イタリアにおける日本と日本語研究は、古くからある布教史の再版や伝道報告を別とすれば、世記半ばに政府主導で始まった東洋語研究に端を発しています。ヨーロッパ諸国と東アジア諸国との貿易の隆盛を背景として、1860年、イタリア政府は東洋語研究を進めるために、奨学生試験を実施しました。この試験に合格したセヴェリーニ(Antelmo Severini, 1828 - 1909)は、当時、東洋語研究の最先端であったフランス、パリに留学し、ロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)から日本語を学び、帰国後は、フィレンツェ大学の前身である高等科学研究所(Istitutio di Studi superiori)で東洋諸言語の講座を担当し、イタリアにおける最初の東洋語講座教員となりました。セヴェリーニはこの研究所において教鞭を取って後進の日本研究者を数多く育てただけでなく、東洋研究雑誌『イタリアにおける東洋研究雑誌(Bollettino italiano degli Studi orientali)』を1876年に創刊するなど、研究成果の発表、公開にも極めて精力的に取り組みました。1877年には高等科学研究所内に「東洋研究アカデミー(Accademia Orientale)」を設立し、東洋諸言語に関する文献の収集、研究、翻訳書籍の刊行を行い、イタリアにおける東洋語研究の基礎を多方面に渡って築き上げました。

 こうしたフィレンツェにおける東洋語研究の興隆に呼応して、1876年、ローマ大学では最初の東洋語講座が開設されることになり、このローマ大学東洋語講座の初代教授となったのが、本書の著者ヴァレンツィアーニです。ヴァレンツィアーニは、セヴェリーニとほぼ同世代の学者ですが、その経歴は学者としては異色といえるもので、1850年にローマ大学を卒業してからは大学に残らず、イタリア鉄道省の弁護士として実務に専念しており、その傍ら、大学に頼らず自学自習によって東洋語研究を独力で務め、1876年にローマ大学の教授となりました。教授就任以前から精力的に日本の文化や、道徳の紹介、文学作品の翻訳などの研究成果を発表しており、セヴェリーニと並んで19世紀イタリアにおける東洋語研究の牽引者として大きな足跡を残しましたが、残念ながら現在ではほとんど知られていないようです。

 ヴァレンツィアーニとその著作については、吉浦盛純『日伊文化史孝:19世紀イタリアの日本研究』(イタリア書房、1969年)において、詳細に紹介されています。同書では、東洋学者ノチェンチーニ(Lodovico Nocentini, 1849 - 1910)によるヴァレンツィアーニ評として、次のように言われています。

「ヴァレンツィアーニは17歳の時、イタリアの独立戦争に参加するため、一時学業を捨てたことがある。大学卒業後は鉄道省の弁護士になったが、彼の法律的見解は大いに重きをなした。彼は公務の許すかぎり、言語の研究に熱中し、特に東洋の言語に多大の興味を有した。ローマ大学における東洋語の講座も、彼のために創設されたものである。彼は通俗的な読み物にあらわれた一般民衆の生活に強い興味を示した。また支那のものよりも、人情味と芸術味の豊かな日本のものに、一層深い興味をもった。論文を執筆するに当っては、推敲に推敲を重ねる習癖があったので、書き残したものは比較的僅少である。しかし、それら僅少の労作によっても、彼の研究に対する熱と愛とは、十分に観取される云々。」(同書41頁)

 本書は、ヴァレンツィアーニが発表した作品の中でも最初期の著作と思われ、ローマ大学教授就任以前の1873年にローマで刊行されていることから、この時点でヴァレンツィアーニの日本語と日本文化に対する造形が相当に深かったことを伺わせるものです。ヴァレンツィアーニが題材とした『孝行往来』は、父母に対する道徳から始まり、庶民の生活において重視すべき道徳を平易に述べたもので、寺子屋での教科書としても江戸時代に広く読まれた書物です。序文においてヴァレンツィアーニは、『孝行往来』を題材とした理由や経緯、配慮した点などを述べており、前掲書においてその要旨が次のようにまとめられています。

「この翻訳を出版しようと思い立ったのは、日本では一体どんなふうに子女を教育し、家庭内のしつけをどうしているかということをしょうかいするばかりでなく、極く少数ではあるが、イタリアにおける日本語研究者の学習のために、いくらでも役に立てたいと思ったからである。左の頁に原文をローマ字綴で示し、右の頁にこれに対応するイタリア語の訳文を掲げて、両者の比較対照を容易にしたのも、このためである。
 本書を印刷した印刷所には、漢字や仮名の活字が全然なかったので、これらを使って原文を示すことはできなかったが、原文のローマ字綴りのシラビケーションには、能うかぎりの注意を払った。さらに原書に掲載されている若干の説明的記事も翻訳して、当該ページの訳文の下部に小活字で印刷することにした。(説明的記事の中には、楠木正成や養老の滝の伝説、北条高時の暴政のことなどがある。)
 訳文のほかに、出来るだけくわしい注を付けたのも、読者をしてよりよく原文を理解せしめるための配慮にほかならない。
 訳者自身も、本書が必ずしも完璧なものでないことは十分承知しているので、不備の点については先学諸賢からの高教を仰ぎたいと思っている。
 日本語原文には、印刷不鮮明のために読みづらい箇所があるが、そんな箇所や略語などについての疑問解消の労をいとわれなかった畏友中島作太郎(氏名は音訳。本書の巻頭にも『感謝と敬意をもって、本書を中島作太郎氏に捧ぐる。』という捧呈の辞がある。)と、日本語の的確な意義を教えていただいた博学な友人アンテルモ・セヴェリーニの両氏に対して深い謝意を表する次第である。」(前掲書42-44頁)

 セヴェリーニのいたフィレンツェの高等科学研究所には、漢字活字が新たに作成されたことがわかっていますが、それも1876年頃のことですので、本書刊行時点では、まだイタリアには漢字や仮名を表記するための金属活字が揃っていなかったことがわかります。日本語原文をローマ字表記する際にセヴェリーニは最新の注意を払ったと述べていますが、確かに本書を見てみますと、品詞ごとにテキストを分節して表記しているだけでなく、二文字以上が組み合わされた漢字については、「nin-ghen(人間)」のように、それぞれの漢字ごとに分けてハイフンで接合して表記しており、これは日本語初学者にとって大変有用な配慮であったと思われます。また、ヴァレンツィアーニの日本語理解が相当の水準であったことも示しています。本文冒頭には、原著の一部をリトグラフで再現した折込図版を収録しており、原著がどのような文体であったのかを読者に伝える工夫もなされています。

 また、日本の協力者としてその名前が挙げられている SAKU-TA-ROU NAKA-SIMA については、海援隊の活動にも関わった中島作太郎(1846 - 1899) のことが想起されるものの、彼の欧州留学時期と本書の刊行時期にずれがあることから、果たして彼のことかどうか疑問が残ります。いずれにしても、ローマで鉄道省の弁護士として働いていたヴァレンツィアーニが、どのようにして日本の協力者からの助力を得ることができたのかは、彼の研究活動と日本とのつながりの実態を知る上でも大変興味深いことのように思われます。加えて、セヴェリーニの名も見えることから、ほぼ同世代のヴァレンツィアーニとセヴェリーニが日本語研究に関して親しく交流があったこともここからうかがえます。

 上述の通り、本書には付録(Appendice)として『実語教』の翻訳が後半に収録されており、これについても前掲書において、セヴェリーニの序文が下記のように要約されています。

「『実語教』は、商人、大工、農夫たちが、読み書きを習い始めた子供に与えた小冊子である。自分が入手した実語教の原本には、著者名も出版年月も書いていない。しかし、この本には、たとえば、《山高きが故に貴からず、樹あるをもって貴しとす。》という句のほかに、《禿山にては言うに足らず、樹木多きを良しとす。》という具合に、同一内容の2つの句が書いてあるという便利さがある。」(前掲書45頁)

 なお、本書は1878年に、セヴェリーニのいたフィレンツェの高等科学研究所から、『孝行の作法:日本のテキスト(La via della pietà filiale: testo giapponese)』というタイトルの2巻本で再版されています。このフィレンツェ再版本については店主は未見ですが、書誌情報から見るかぎり、第1部(Parte prima)が、日本語原文をリトグラフ で再現したもの(Testo riprodotto in fotolitografia)で、第2部(Parte seconda)が、日本語原文のローマ字表記と、イタリア語訳、注釈(Trasrizione traduzione e note)となっているようですから、初版である本書を第2部(第2巻)とし、新たに作成した原著リトグラフを第1部(第1巻)としたものではないかと思われます。

 19世期イタリアにおける日本語、日本研究は、実に多彩な、語学、文学、文化、歴史研究を生み出しましたが、その多くが100ページに満たない小冊子であったことも災いしてか、国内研究機関における所蔵状況は、極めて乏しいものとなってしまっています。吉浦盛純は、戦前から戦後にかけてこの分野の文献を収集して、パリやロンドンにおける日本研究とはまた違った日本研究がイタリアにおいても豊かに展開されていたことを前掲書において紹介していますが、同書で紹介された多くの文献は、今も国内研究機関において未所蔵となっているものが多く、こうした所蔵状況のせいもあって、19世期イタリアにおける日本研究に対する注目は、他国におけるものと比べて低いものとなってしまっているのは、非常に残念なことです。


「私の蒐集した日本文学の翻訳は、ほとんどセヴェリーニ、ヴァレンツィアーニ、プイーニ、ノチェンチーニの4人の手に成るもので、翻訳の範囲は、小説、物語、軍記物、演劇、和歌、往来物などの多方面にわたっている。訳文は正確で、特に語義の研究には力を注いでいるようである。日本の書籍の入手も容易でなく、参考書の類も乏しかった時代に、これだけの業績を残したことは、高く評価さるべきであろう。
 これらの資料探しには、今でも忘れられない数々のエピソードがある。もっとも骨が折れたのは、日本文学の翻訳の蒐集であった。それは、これらの翻訳のほとんど全部が、発行部数も対して多くはなかったろうと思われる大学やアカデミーの紀要や雑誌に掲載され、抜刷りのあるものもあるが、百年近くたつと、どちらも容易に発見することができないからである。しかも大部分は、数頁、数十頁の薄っぺらな冊子で、古書店のカタログに掲載されることは絶無で、古書店に足を運んで探すほかはなく、さらにカードの備え付けもない店では、蜘蛛の巣やほこりと戦いながら、高い書棚の本を上から下まで、一冊一冊丹念にのぞいてみなければならないこともあった。
 第二次大戦後は、この種の文献もほとんど影をひそめてしまったので、これからは余程の幸運に恵まれないかぎり、簡単に入手することは、できないのではないかと思われる。こんな次第で、数年前のローマ滞在中にも、かなり方々探して見たが、どうしても入手不可能に終ったものもある。しかし現在の私には、何時になったら、それらを入手できるか、見当もつかないので、心残りではあるが、一応今までに集めた文献にもとづいて、本書を出版することにした。日伊間の文化交渉研究の上に、多少なりとも役に立つことがあれば、長年の古本探しの苦労も報いられるわけである。」
(前掲書「あとがき」より)

タイトルページ
SAKU-TA-ROU NAKA-SIMA に捧げられた献辞。
本書刊行の経緯や意図、注意点を記した序文冒頭箇所。
テキスト冒頭には、原著をリトグラフ で再現した折込図版が収録されている。
原文のローマ字表記を左ページに、イタリア語訳を右ページに配置する構成。
仮名文字の一覧表と注意点も掲載されている。
テキスト末尾には98にも上る詳細な注釈が付されている。
付録として、類似の書物である『実語教』も収録している。
表紙や本文にスポット状の染みが散見されるが、全体として良好な状態。