書籍目録

『七福神:日本の人々の宗教礼拝についての試論』

プイーニ

『七福神:日本の人々の宗教礼拝についての試論』

著者からフィリップ・ビュルティへの献呈本 1872年 フィレンツェ刊

Puini, Carlo.

I SETTE GENII DELLA FELICITÀ. NOTIZIA SOPRA UNA PARTE DEL CULTO DEI GIAPPONESI.

Firenze, Successori le Monnier, 1872. <AB2019111>

Sold

(Author’s dedication copy to Philippe Burty)

4to(16.3 cm x 24.7 cm), Original front cover, Half Title., Title., pp.[1], 2-40, Original back cover, Contemporary half cloth on marble boards.

Information

明治初期のイタリアを代表する日本研究者による「七福神研究」、「ジャポニスム」の生みの親ビュルティへの直筆献辞本

ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちくださいませ。


「次に日本に関する学問的研究についてであるが、フィレンツェが数十年間その中心であったことは興味深い。1863年以来、アンテラモ・セヴェリーニ(Antelamo Severini, 1827 - 1909)が王立高等研究所(のちのフィレンツェ大学)の極東言語の教授であった。セヴェリーニはパリのスタニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien)とドゥ・ロニー(De Rsony)の下で学び、日本文化に大変興味を持った。セヴェリーニは日本の本をイタリア語に翻訳した。その中には『竹取物語』(1881)や柳亭種彦の『浮世型六枚屏風』(1872, 1876-77)がある。一方、彼は日本語の詩、特に韻や修辞の面に注意を向けたり、日本の道教や占星術も研究した。彼の著作のいくつかは、当時の大陸とイタリアの東京研究家の仲介役として活躍したフランチェスコ・トゥレティーニ(Francesco Turrettini, 1845 - 1908)の監修で1871年から1881年までスイスのジュネーブで発行されていた「あつめぐさ」という雑誌に発表された。セヴェリーニは1876年に当時の重要な学術誌となった『イタリア東洋学雑誌』(Bollettino Italiano degli Studi Orientali)を創刊した。セヴェリーニの後任として、彼の弟子カルロ・プイーニ(Carlo Puini, 1839 - 1924)が東アジアの歴史と地理の教授に任命された。プイーニは主にアジア大陸に関心を持ち、イッポリト・デシデーリ神父(Ippolito Desideri)によって1712年から1733年にかけて書かれ、その後不幸にしてイエズス会の古文書巻に埋もれていたチベットについての重要な本を、初めて編集出版した。しかし、プイーニは日本についてもいくつかの論文を書き、「七福神:日本人の宗教礼拝についての詩論」(Seven Gods of Happiness: Essay on a Portion of the Religious Worship of the Japanese)がアジアティック・ソサエティの会報(vol. VIII, 1880)に掲載された。」
(マライーニ・フォスコ「イタリアの日本研究」国際日本文化研究センター編『世界の日本研究』第2号、1991年所収、35-36頁より)


「カルロ・プイーニは、1839年北イタリアの地中海岸の港町リボルノに生れ、1924年フィレンツェで死んだ。フィレンツェの Instituto di Studi superiori で、セヴェリーニについて学んだ後、1877年(あるいは1878年)から1921年まで40年間にわたって、その Instituto で、日本、支那、チベットなどの地理、歴史、宗教などについて教え、この方面の関係論文が多数ある。専門は支那語であったが、日本語や蒙古語にも精通し、これらの言語についての研究もある。彼が長年にわたって蒐集したブロンズ類や、日本語および支那語の書籍は、ミラノ市のカステル・スフォルツェスコ博物館や市図書館に所蔵されている。」

「第一頁から第六頁までの序文のなかで、著者は次のように述べている。
 神道と仏教とは、周知のとおり日本の二大宗教である。仏教が日本に伝来したのは、比較的新しいが、神道は日本の成立と殆ど期を同じくする日本固有のものである。日本国を生んだイザナギ、イザナミの二神を初めとし、もろもろの天津神、国津神のほか、時代が下ると英雄的行動のあったものや、仁慈に厚かったものなども、神として崇められるようになったので、日本の神々の数は決して少なくない。
 日本における神道信仰の目的は、主として現世における幸福を得んとするにある。日本語の「福」という言葉は、長寿、健康、富、繁栄などの意義を有している。この福を得ることが、一般民衆の神々に対する祈願の目的である。こんなわけで、彼らが高遠な大乗的な神よりも、日々の生活に直接関係のある俗的な神々の方を、余計に信仰する理由も肯かれる。神道には特定の宗教的典礼もなく、また一定した祈祷文というものもないので、信者たちは勝手な方式と文句とによって祈願すればいいのである。仏教が伝来した当時、神道はまだプリミチーブな状態にあって、一定の教理や神官ももたなかったことは、仏教の宣布上非常に好都合であったことはいうまでもない。爾来日本人は、神道と仏教の双方を信仰するようになったので、その信仰生活も次第に複雑な様相を帯びるようになった。このことは、民間信仰の対象である七福神のうち、大黒、毘沙門天、弁財天は仏教に、布袋、寿老人、福禄寿は支那に起源を発し、ひとり恵比須のみが唯一の日本的のものであることによっても察知される。
 本書は、『絵馬の手本』(Yema no tefon)と題する本の記事を翻訳したものである。この「絵馬の手本』は、著名な神社や寺院などにある古画で、歴史的または神話的題材を取り扱ったものに関するさまざまの古典の記事を抜萃したり、引用したりして、これに編者の見解を加えた本である。かかる内容を有するこの本は、通読するには面倒であるが、他方容易に入手しがたいたくさんの本から集めた記事を、簡単に通読できるという便宜がある。
 次にプイーニは、七福神の一々についての故事来歴を語り、ほとんど毎頁にきわめて詳細な脚注を付している。そして本書翻訳のための参考書として、『日本王代一覧』『日本紀』『早引』などのほか、Kampfer, Plath, Klaproth, Lobscheid, Pfizmaier などの著作をあげている。」
(吉浦盛純『日伊文化史考』イタリア書房出版部、1968年、82-85頁より)