書籍目録

『日本風俗図誌』

ティツィング

『日本風俗図誌』

全3巻 1822年 パリ刊

Titsingh, Isaac.

CÉRÉMONIES USITÉES AU JAPON, POUR LES MARIAGES, LES FUNÉRAILLES, ET LES PRINCIPALES FÊTES DE L’ANNÉE; Suivires d’Anecdotes sur la Dynastic régnante des Souverains de cet Empire. OUVRAGE TRADUIT DU JAPONAIS PAR FEU M. TITSINGH, Ambassadeur de Hollande en C

Paris, NEPVEU, Libraire, Passage des Pannoramas, No. 26, 1822. <AB20174a>

Sold

Edition with uncoloured plates. 3 vols.

12mo, Vol.1; 2 leaves, pp.[i]-xxx, pp.[1]-127: folding plates[5], plates[6]. Vol.2; 2 leaves, pp.[1]-139: folding plates[6]. Vol.3: 2 leaves, pp.[1]-206: folding plates[4], Original illustrated paper wrapped
当時の簡易紙装丁を維持しており、それぞれの紙片の断切りが施されていない状態。

Information

よく知られる彩色版にはない図版を含む稀覯版

 ティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)は、アムステルダムで外科医となった後、ライデン大学で法学を修めました。1765年、オランダ東インド会社の商務員としてバタフィアに派遣され、1779年8月から1784年11月までの間、三度、述べ三年半を日本で過ごし、日本商館長を務めました。最終的な離日後の1785年から1792年の間は、オランダ東インド会社のベンガル貿易総監を務め、その後同社評議会員外参事としてバタフィアに赴任し、遣清大使を務めたことで、日清双方の宮廷を訪問した稀有なヨーロッパ人となりました。
 
 ティツィングが日本商館長を務めた時期は、いわゆる「田沼時代」と称される政治的に寛容な時代であり、蘭学勃興期にあたる時期でもありました。商館長在任当時から、多くの日本人と学術交流を深め、膨大な書物や美術品、地図を蒐集し、しかも後のシーボルトと異なり、幕府から正式にそれらをヨーロッパに持ち帰る許可までをも得る厚遇を与えられたことは特筆すべきことと言えます。また、離日後も書簡でのやり取りを続け、オランダ語通詞、蘭方医として著名な吉雄幸牛(1724 – 1800)や、蘭学の造詣が深いことで名を馳せた丹波福知山藩主の朽木昌綱(1750 – 1802)らと多くの書簡を交わしました。これも幕府による許可を得たものであったと言われていることから、いかにティツィングが幕府から厚遇を与えられていたかが伺い知れます。

 「日本を西洋で有名にした人物として一般に知られ、日本において半ば神のごとくに扱われているように見えるドイツ人フォン・シーボルトの日本到着の優に半世紀も前に、ティツィングは、後にフォン・シーボルトが完成した仕事を成す先例のない機会を持った。彼の人生を通じて、ティツィングは日本という国について詳細な知識を持つ唯一のヨーロッパ人であった。彼は、日本の多くの高位の役人たちにとても気に入られた。彼の側も日本を愛し、決して、ワクワクさせるベストセラー小説を書くのにはお似合いの、ヨーロッパ人キリスト教との見下すような視点から何かエキゾチックで謎めいたものとして日本を見るようなことはしなかった。彼の豊かな日本の事物の蒐集品と、体系的学問的にそれをヨーロッパ人にそれをヨーロッパ人に伝えたいという衝動が、彼をヨーロッパ人最初のオールラウンドなジャパノロジストの一人にした。彼は、蒐集そのものを目的とする蒐集家ではなく、日本趣味の装飾に耽る審美家でもなかった。」
(F・レクイン「『ティツィング私信集』の序論」)

 しかしながら、彼の研究成果は、彼自身の「神経症的な正確さへの情熱」(前掲書)と、フランス革命とその後ヨーロッパの政治的情勢の不安定さによって、生前ほとんど刊行されることはありませんでした。ティツィングの死後、パリの出版人出会ったヌヴー(Augste-Nicolas Nepveu, )が、彼の日本コレクションを入手し、フランス語草稿を元に出版しましたが、それは彼の遺した仕事のごく一部でしかありません。その結果、ティツィングは、上掲のようにシーボルトに半世紀以上先じたジャパノロジストであったにも関わらず、生前のみならず死後も広く名声を得ることはありませんでした。
 
 彼が遺した膨大な日本コレクションは、ティツィングの死後、次第に散逸していきますが、その足取りと現在の所在については、先に引用したF・レクインによって明らかにされました(Leuin, Frank. A la recherché du Cabinet Titsingh. 2003)。それによると、ティツィングの日本コレクションは彼の遺志によって大英博物館に全て寄贈されるはずでしたが、死後その動きを察知したフランス政府によって国家財産として1812年に差し押さえられた後、1814年11月まで留められました。差し押さえが解かれたのちは、ティツィングの息子ウィリアムに返却されましたが、残念ながら彼自身はこのコレクションに対した興味を示さず、東洋学者で著名なラングレ(Louis Mathieu Langley, 1763 – 1824)の助言により、1818年、パリの出版社ヌヴーの元にその多く(全てではないことは彼の出版物に掲載されたティツィングコレクション目録の不十分さが示しています)がもたらされました。しかし、ヌヴーは数点のティツィングの作品を敢行した後1828年にあえなく破産、残されたコレクションは、ヌヴーによるティツィングの『歴代将軍譜』を編纂した東洋学者レミュザ(Jean Pierre Abel Remusat, 1788 – 1832)、同じく東洋学者で著名なドイツ人、クラプロート(Heinrich Julius von Klaproth, 1735 – 1835 彼自身もティツィングの遺稿に基づき『日本王代一覧』を1834年に刊行)にもたらされましたが、それらもクラプロートの死後1840年に彼の蔵書が売却され、散逸し始めます。アルシュタイン男爵(Baron Pierre-Leopoldo van Alston, 1792 – 1862)がその多くを入手したことが記録されていますが、その死後1863年に売りに出された際に、古書店主クォーリッチ(Bernard Quaritch, 1819 – 1899 現在もその名を継がれるロンドンの老舗古書店、シーボルト『日本』の再販でも著名)が、スコットランドの貴族リンジー伯爵(Alexander Lindsay, 25th Earl of Crawford and 8th Earl of Balcarres, 1812 – 1880)の図書館のために購入したことが確認されています。
 
 こうした数奇な運命を辿ったティツィングの日本コレクションは、その規模、収集範囲、学術的検証の高度差の点において、後年のシーボルトのそれに勝るとも劣らないものであったにもかかわらず、多くの国々に散逸してしまいました。
 
 本書は、邦訳名『日本風俗図誌』として知られるもので、ヌヴーが1822年に刊行したものです。元々1819年に同じくヌヴーが刊行した『日本における結婚と葬儀の式典』と、1820年に刊行した『歴代将軍譜』を合わせて三巻本として刊行したもので、同年1822年にはイギリスのショバール(Frederic Shoberl, 1775 – 1858)が、本書を底本として美しい彩色図版とともに英訳版を刊行しており、ティツィングの刊行された書物の中では、最もよく知られているものといえます。

 「本書第一部は大体徳川将軍家歴代の事蹟を述べたもので、主たる典拠は、板本『柳営年中行事』の類であろうかと思うが、ティチングによれば未刊の写本のように述べている。書名ははっきりわからない。家茂以降の記事はティチングの見聞に係わるものもあり、田沼政権の動向を示す断片記事が散見するので珍重されている。(中略)第二部のうち、婚礼の部の典拠は本文中にもあるように『嫁取重宝記』と『当世民用 婚礼仕用罌粟袋』である。前者については見ることができなかったが、後者については本書の原著と比較検討した結果、大体において忠実な翻訳である、と認める。(中略)葬礼の記述については、拠所となった原書は全くわからない。そのほかに、長崎で観察し見聞した知識が入っており、また天明四年に長崎で死去した長崎奉行土屋守直の壮麗絵巻、名前はわからないが、長崎の地役人らしい人の葬礼絵巻の類が材料となっている。」
(沼田二郎訳『日本風俗図誌』解説より)

 しかし、ヌヴーが1822年に刊行した『日本風俗図誌』は、その図版に彩色を施したものと、そうでない白黒版とが存在していることは、ほとんど知られていません。両者において一層重要なのは、単なる彩色の有無ではなく、収録されている図版に相違が確認できることで、白黒版のみに存在する図版が少なくとも二点確認(いずれも第3巻所収、①Aspect d`un Village Japonais sur les boards de la met. ②Plan du Palais de Jedo. Les indications alphabetize Montreal ce qui est connu du Palais)できます。前者は海辺の港町と行き交う人々の様子を描いたもので、明らかに日本の何らかの書物から、あるいは絵から起こされたものと思われます。また、後者にはアルファベットと数字が振られた詳細な江戸城の内部を示した図ですが、残念ながら対応する説明文は見つけられません。

 日本におけるティツィング『日本風俗図誌』は、先のショバールによる英訳本と色彩図版がよく知られているため、無彩色版にのみ収録されたであろうこの二枚の図については、これまでほとんど知られていないものと思われます。これ以外にも、図版の挿入位置にも違いが確認できますし、この二枚の図版が、ティツィングの日本コレクションのいずれにあたるものかを探ることも大変興味深い点です(管見の限りでは先のレクイン目録では同定できませんでした)。
 
 当時の簡易紙装丁を維持しており、それぞれの紙片の断切りが施されていない状態。表表紙にはケンペル『日本誌』から取ったと思われる「観音像」が、裏表紙には、同じくケンペルから取ったと思われる「麒麟」「獅」とともに、モンタヌスあたりに由来すると思われるお辞儀する二人に日本人男性が描かれています。