書籍目録

『世界言語誌宝典』

デュレ / (天正遣欧使節)

『世界言語誌宝典』

第2版 1619年 イヴェルドン刊

Duret, Claude.

THRESOR DE L’HISTOIRE DES LANGVES DE CEST VNIVERS, contenant les Origines, Beautez, perfections, Decadences, Mutations, Changements, Conversions, & Ruines des Langues…(Thresor de l'histoire des langues de cest univers)

Yverdon, Societé Helvetiale Caldoresque, M. DC. XIX. (1619). <AB201995>

Sold

Seconde Edition.

4to(15.5 cm x 23.0 cm), Title., 13 leaves, 1 folded plate, 1 leaf,pp.1-292, 292(i.e.293), 294-310, 31(i.e311), 312-337, 330(i.e.338), 331(i.e.339), 340, 341, 334(i.e.342), 335(i.e.343), 344-362, 36(i.e.363), 364-367, 638(i.e.368), 369-459, 4 0(i.e.460), 461-888, NO LAKCING PAGES, 899-979, 956(i.e.980), 981-1030. 18th Century full leather, professionally repaired.
それ以前は2冊本であったものを1790年に1冊に綴じ直されており、表紙に金箔押しが施されている。現在の装丁はそれをさらに近年再修復したもので、その際の修理記録と以前の装丁に用いられていた花切れなどが付属。修理記録と書籍本体を納められる専用のスリップケースが付属。(Cordier: 274-275 / NCID: BA62618695(2nd ed.))

Information

「欧州に於て日本の文字を印刷せる最古の標本の一なり」(大正11年大阪印刷文化展覧会目録268)

 本書は、当時ヨーロッパで知られていた55の言語(に加えて動物の鳴き声までもを含む)を網羅的に論じたもので、細かな活字で版組みされた四つ折り判で千ページを越えるという非常に大部の著作です。初版は1613年にケルンで刊行されていますが、本書は1619年にスイスのイヴェルドンで刊行された第二版です。本書が日本との関係で非常に興味深いのは、本書で検討されている55の言語の中に日本語が含まれており、大変貴重と思われる日本文字の翻刻とともに日本語が詳細に論じられていることです。日本文字の翻刻や日本語研究は、日本で宣教活動を行なっていたイエズス会によって精力的に進められていましたが、その成果は、当時のヨーロッパにおいて入手が容易でなかった日本で印刷されたいわゆる「キリシタン版」において主に発表されていました。従って、翻刻とともに詳細に本書に掲載された日本語研究は、ヨーロッパで広く読まれ得る書物において掲載された最初のものと言うことができると思われます。本書は、新村出によって昭和初期にその重要性が紹介されていた文献であるにも関わらず、その希少性も災いしてか、それ以降国内では目立った研究がなされておらず存在すら忘れられてきた感のある稀覯資料です。

 本書は、55もの言語を網羅的に論じようとするものですが、本文上部の余白に「世界のあらゆる言語の起源の歴史」とあるように、言語の起源を探求することを目的としています。これは、ヨーロッパにおいて古代にまで遡る長い歴史を有する「起源の言語」を探求しようとする、いわゆる言語起源論と呼ばれるものです。その背景には強い神学的動機が働いており、言語の分裂をもたらしたとされる「バベルの塔」以前に存在していたという、言語の複数性という概念が成立する以前の唯一の言語、全ての人間が解すことができ、あらゆる事物と直接結びついていた言語を「起源の言語」として探求することによって、神が最初に発した言葉に近づこうとする目的があります。そうした神学的動機を背景にした言語起源論は、やがて「起源の言語」を継承する特別な言語が現存しているのではないかという考えに至るようになり、そうした「起源の言語」としてヘブライ語が位置付けられるという「ヘブライ語起源説」を提唱するようになります。この「ヘブライ語起源説」は16世紀頃に最も趨勢を誇ったとされています。


「その本源的形態において、すなわちそれが神によって人間にあたえられたとき、言語は、物に類似しているがゆえに物の絶対的に確実で透明な記号であった。(中略)この透明性は、人間を罰するためバベルの塔において破壊された。諸言語が分化し、たがいに両立せぬものとなったのは、言語の最初の存在理由だったこの物との類似が、まず消え去ったからにほかならない。われわれはいま、この失われた相似を基底として、それが消え去ったあとの空虚な空間において話しているのにすぎない。ただひとつの言語だけが、この失われた相似の記憶をとどめている。それは、この言語がいまでは忘れられたあの最初の語彙から直接派生したものだからであり、バベルの懲罰が人間の思い出から消えることを神が望まなかったからであり、この言語が神とその民との古い〈契約〉を語るに役だったにちがいないからであり、そのうえ、神はその声に耳を傾ける者たちにまさしくこの言語で語りかけたからである。だからヘブライ語は、原初における命名の痕跡を名残りとしてとどめている。(中略)だが、それらはもはや断片的な遺物でしかない。他の言語はこれらの根源的な相似を失ってしまい、わずかにヘブライ語だけがそれを保持し、それがかつては神とアダムと原初の大地の動物たちに共通の言語であったことを示しているのにすぎない。

 けれども言語は、その名指す物にもはや直接類似してはいないにせよ、だからといって世界から切り離されているわけではない。それは別の形態のもとに依然として啓示の場であり、真理が顕現しかつ表明される空間にほかならない。なるほど言語は、もはや起源におけるあの可視性をそなえた自然ではなかろう。だがそれは、特権的なわずかの人だけがその力を認識するような、神秘的な道具でもない。それはむしろ、自らの罪をあがないつつ、ついにまことの言葉に耳を傾けはじめた世界そのものの形象である。それゆえにこそ神は、神の教会の言語たるラテン語が、地球上にあまねく広められることを望んだのだ。この征服のおかげで知られるにいたった世界のあらゆる言語が、あいつどって真理の似姿を形成するのもまたそれゆえである。原初における名の配置が、アダムのため神のあたえた物と類似していたように、あらゆる言語の展開する空間とそれらの錯綜は、救われた世界のしるしを浮びあがらせる。クロード・デュレの指摘するするところによれば、ヘブライ人、カナン人、サマリヤ人、カルデヤ人、シリヤ人、エジプト人、ポエニ人、カルタゴ人、アラビヤ人、サラセン人、トルコ人、マウル人、ペルシャ人、韃靼人は、右から左へと文字を綴るが、これは『大アリストテレスによればきわめて完全で一なるものに近い、第一天の日々の運行』に従うものだという。ギリシャ人、グルジヤ人、マロ派のキリスト教と、ヤコボ派のキリスト教徒、コプト教徒、ツェルヴィヤ人、ポスナニヤ人、そしてもちろんローマ人や全てのヨーロッパ人は、『7つの惑星の集まりである第二天の運行』にしたがって左から右へと書く。それに対して、インド人、契丹人、シナ人、日本人は、『頭を人間の上部に、足をその下部にあたえた自然の秩序』に応じて上から下へと綴り、『上記の者たちとは逆に』、メキシコ人は、あるいは下から上へ、あるいは『太陽が黄道上の歩みにおいて一年間に描くような螺旋状の線』に沿って書く。このようにして、『これら5種類の書き方により、世界の十字形の形象と十字架の形態との秘密と神秘、天空と大地の円みのすべてが、的確に示され表現されるのだ』諸言語は世界に対して、意味作用の関係にあるという以上に、類比するものとしての関係にある。というよりはむしろ、言語の記号としての価値と二重化する(=模写する)機能とが重なりあっていると言うべきかもしれない。(中略)言語のうちにはひとつの象徴機能がある。けれども、バベルの厄災以後−わずかな例外を除いて–もはやそれを語そのもののうちに求めてはならぬ。それは、言語の実在そのもののうちに、言語と世界全体との全体的な関係のうちに、言語の空間と宇宙のさまざまな場所や形象との交錯のうちに、求められなければならない。

 16世紀末、あるいは17世紀初頭に現れたような百科事典的企ての形態は、まさにそこから由来する。それは、人の知ることを言語という中性的な場所に反映しようとするのではなく–百科事典における恣意的だが効果的な配列順序としてのアルファベットの使用は、17世紀後半にならなければ見られない–空間における語の連鎖と配置によって、世界の秩序そのものを再構成しようとするのである。(後略)」

(ミシェル・フーコー / 渡辺一民、佐々木明訳『言葉と物–人文科学の考古学』新潮社、1974年、61-63頁より)


 1613年に初版が刊行された本書でも、ヘブライ語の解説に相対的に多くの紙幅を割いていることから「ヘブライ語起源説」を基軸とした著作と言うことができます。同種の著作としては恐らく最後期の書物に当たるもので、本書は「ヘブライ語起源説」に基づいた探求の進展がもたらした賜物、それも予期せぬ形でもたらしたユニークな賜物ということができます。あらゆる言語と同様に比較可能でありながら、それらの参照軸となる特権的地位にある言語として、ヘブライ語を位置付けるという考え方は、ヘブライ語を特権的地位に置く一方で、あらゆる俗語の並列的な「比較」を可能にする点で、俗語の地位を等しく高めるという結果を同時にもたらすことになりました。その意味で、本書は、強い神学的動機を有した言語起源論の探究が、結果的に、知り売る限り全ての言語(俗語)を網羅的に論じようという、いわば言語の博物学的探求を可能にし、後年の世俗化された比較言語学への端緒を切り開くことになるという逆説を体現した非常に興味深い書物と言うことができます。

 こうした強い神学的動機を背景にして生み出された特殊な書物とも言える本書ですが、先述の通り、新村出によって、1926年という非常に早い時期に、「世界言語志の古版本」(昭和元年12月26日付、昭和2年1月「書物礼賛」『新村出全集』第4巻、筑摩書房、1971年、176頁)と題した記事において紹介しています。新村は、親交の深かった神戸の実業家で愛書家、出版社「ぐろりあ・そさえて」の創業者であった伊藤長蔵から、本書と同じ第2版(1619年イヴェルドン刊)を見せられたこと、また1922年に開催された大阪印刷文化展覧会に、京都帝国大学附属図書館が所蔵する第2版本が出展された(ただし新村が「目録265号に著録」としているのは誤りで、正しくは268号)ことを述べた上で、その詳細について下記のように述べています。

「『世界言語志宝典』とは仏国のクロード・デューレー Claude Duret が世界各国の言語凡そ五十数種について記載を試みた一千頁あまりの細字大冊本であって、諸国民族の言語文字文学の記述のほか、古文献に散見せる鳥獣の音声言辞までも書中に録してある。記述は仏文である。著者はムーランの人で博物家にして博言家を兼ね、土地の法院の学頭などをしたというだけの外、伝記を私は知らない。歿時は1611年9月すなわち我が慶長十六年だということが明らかである。(中略)本題は、THRESOR DE L’HISTOIRE DES LANGUES DE CEST UNIVERS というが、今訳して『世界言語志宝典』とした。私が見た両伊藤本は共に1619年の再版本であるが、初版は1613年に出ている。その初版本は未見であるが、コロンで印刷したらしく、再版本は瑞西のイヴェルドンで印行されたのであった。」

「(前略)すべて一括していうと、18世紀末期より19世紀初期にわたる約30年間に続出した是等学者の博言集にくらべると、この仏国のデューレーの『世界言語志宝典』は、200年以前に博言集の先鞭を着けた点に於て注意されねばならない。分量はよしや小さくとも、ともかく一千余ページを算し、誤解不備が多いながらも55種の言語を網羅しているのであるから、ライプニッツが露帝への進言以前百年の編纂として時代相当に認めてやらねばならぬと思う。」

「(前略)さて私が本誌の紙面を借りて特に述べようと思いたったのは、実は本書の909頁より922頁に渡って第76章をなす所の日本に関する一章十数ページのうち過半にあたる9ページほどの紙面に、日本の文字が甚だ興味深く刻せられているからである。無論文字は木版で摺ってある。
 デューレーが日本の言語と文字とについて記したところは、主として伊国のマッフェー Maffei(1536生1603年死)の『印度志』(第6巻)(Giovanni Pietro Maffei. Ioannis Petri Maffeii Bergomatis e Societate Iesu, Historiarum Indicarum libri XVI, Roma, 1588のこと;引用者注)によったのであるが、此書は1588年刊行された16巻の名著である。(中略)然しマッフェーからばかりでなく、当時の仏国の耶蘇会士や学者及び貴族の手から得た日本文字の標本もまじっておる。
 デューレーは第一に平仮名の伊呂波47文字と一二三の数字を百千万億まで挙げている。数字にはアラビア数字が附記してあるが、それは正確に充ててある。然し「いろは」の方は、僅に末の5字の外全然ローマ字を充て違えておるのは面白い。字体はよく出来ている。次に日本字が短冊形に二行書いてあるのが見えるが、右方の一行に、「賀溜次者不乱左之」とあり、左の一行に、「帝王之御兄弟の御子」とつづき、一句一句拉丁語で語解を施してある。「カルスはフランサの帝王の御兄弟の御子」という義である。次に名高い周防山口の大道寺建立に対する天文二十一年大内氏の免許状の本文の模刻がある。(中略)
 この免許状の最も古く刊本にあらわれたのは、今東京の東洋文庫に蔵せられている1570年葡国コインブラ版の『日本耶蘇会徒書簡集』(Cartas que padres e irmãos da Companhia de Iesus, que ando nos Reynos de Iapão…Coimbra, 1570のこと;引用者注)である。(中略)
 最後にゼスキリシトの恩名と、サンタマリヤの名号と、伴天連エモンド・アウゼル師の姓名と、この3名を左方から右方へ3行に万葉仮名を行書にかいたのを刻した一葉がある。(中略)師は仏人にして1530年の生れで1591年に歿し、マッフェーの拉文を仏訳した人であった(店主はこの仏訳本について確認できず。本書刊行以前のマッフェイの同書仏訳はFrançois Arnault de la Boirieによる1603年版のみが知られている;引用者注)。(後略)
 以上要するに、日本文字は(1)いろは(2)仏王族カルス(3)山口大道寺免許状(4)アウゼル師とマリヤキリシト、これらの4種であるが、第三の分だけは他の書物の模刻によったために字体が甚だしく崩壊して形が弁ぜられないようになっている。他の3種は筆蹟も明瞭でみごとに出来ている。1580年すなわち天正年度の遣欧使節のうちの者が書いたのか、それとも日本から伴天連がもちわたったのか、その辺は不明である。とにかく慶長十年代に西欧において印刻された文字として立派なものである。(後略)
 (前略)この1620年出版の『小文典』(ロドリゲス Joam RodriguezのArte Breve da Lingoa Iapoa tirada da Arte Grande da mesma Lingoa…Macao, 1620のこと;引用者注)の日本文字より、尚古いデューレーの『言語志』の日本文字は頗る珍重すべきものとせねばならぬ。」

 上記のように、本書で日本語、日本文字研究が掲載されていることの意義が、簡潔ながら極めて的確に指摘されており、昭和初期の時点で本書の重要性が十分に指摘されていたことが見て取れます。しかし、それ以降に本書が本格的に研究の俎上に載った形成は、言語学、対外交渉史研究のいずれにおいても確認することができず、今日に至るまでほとんど忘れ去られていた状態にあったのではないかと思われます。その要因としては、昭和初期の時点においてすら、本書がすでに極めて稀覯であったため、本書を手にして研究することが容易でなかったことが考えられます。1613年刊行の初版本は、現在の国内研究機関において所蔵が全く確認できず、新村出が実見した1619年刊行の第2版本でさえ、伊藤長蔵旧蔵本は現在行方が分からず、当時所蔵されていたはずの京都大学図書館にも(CiNii上では)なぜか確認できません(所蔵を確認することができるのは、九州大学図書館、長沼文庫に所蔵されている第2版本のみ)。早くから重要文献として紹介されていたにも関わらず、久しく本書の研究が進んでこなかったのは、本書の希少性とこうした国内の所蔵状況があったのではないでしょうか。
 
 ヨーロッパにおける日本文字、日本語研究の(キリシタン版以外における)原点ともいうことができる、記念すべき書物である本書は、新村出が早くからその重要性を指摘していたように、より詳細な多方面からの研究が今後待たれるものです。ヨーロッパ言語学史上において登場した最初期の日本語研究であると同時に、神学的動機を背景とした言語起源論の文脈において論じられた日本語研究でもある本書は、その希少性にも鑑みますと、ヨーロッパ人による日本研究文献として、極めて独自の高い価値を有する書物であると思われます。


 なお、本書の「ヘブライ語起源説」に見られるような、特定の言語に「起源の言語」としての特権的地位を見出すという試みは、一旦その思考様式が定まってしまえば、原理的にヘブライ語以外にも適用することが可能であったため、17世紀以降、次第にその神学的動機が揺らぐ(稀薄化する)ことになり、ヘブライ語以外の多くの俗語話者が、自身の言語がそのような特権的地位にあることを主張するようになり始めます。そして、ついには、あらゆる言語の起源となる特定の現存する言語を見出すことで、その言語に特権的地位を付与しようとすることすら放棄して、「起源の言語」にふさわしい言語を「創出」しようとする試みにまで至るようになるという、神学的動機を背景に有した言語研究が衰退していく「言語学の世俗化」が推し進められていきます(ヨーロッパにおける言語起源論の歴史については、互盛夫『言語起源論の系譜』講談社、2014年で非常に詳細に論じられています)。その中で日本語に対する関心が再燃するのは、上掲のロドリゲス『小文典』が、フランスアジア協会(La Société Asiatique)の中心人物であった東洋学者レミュザ(Abel-Rémusat, 1788 - 1832)の監督のもとで、ランドレ(Ernest Clerc de Landresse, 1800 - 1862)によってフランス語に翻訳される1825年頃からです。これ以降、神学的背景を残した日本語の起源をめぐる論争とともに、シーボルトやフンボルト、ホフマンといった19世紀を代表する言語学者、日本学者によって新しい日本語学研究が精力的に展開されていくことになります。