書籍目録

「瀬戸内、あるいは内海図:日本政府による海図、ならびにシルビア号をはじめとした英国による歴代の測量結果と、フランス政府による測量結果を加味して編纂」

英国水路部

「瀬戸内、あるいは内海図:日本政府による海図、ならびにシルビア号をはじめとした英国による歴代の測量結果と、フランス政府による測量結果を加味して編纂」

(2875号海図)1872年版を元に1893年10月改訂 [1893年] ロンドン刊

SETO UCHI OR INLAND SEA: COMPILED FROM JAPANESE GOVERNMENT CHARTS and from the Surveys of COMMANDERS J.WARD, C.BULLOCK, E.W. BROOKER, H.C.ST JOHN…with additions from recent French Surveys.

London, (Published at) the Admiralty…(Sold by) J.D. Potter (Agent for the sale of the Admiralty Charts), [1893]. <AB201994>

Reserved

No.2875 (JAPAN). 31st Decr. 1872...Large Corrections...Oct. 1893.

67.0 cm x 153.0 cm, Rolling sheet chart.
リネンによる裏打ち

Information

 本図は、1893年に刊行されたと思われるイギリス海軍水路部によって作成された「瀬戸内海図」です。本図の底本となっているのは、1872年に作成された改訂版ですが、本図はそれ以降の20年間に得られた追加情報が加えられているだけでなく、当初イギリスから海図作成技術を一から学ぶ必要があった日本が、本図が刊行される頃には、逆に信頼に足る情報をイギリスに向けて発信するようになるという、明治初期の日本の海図作成技術の劇的な変化を物語る大変興味深いものです。

 1861年、イギリス公使オルコックは、日本沿岸の水路情報が極めて不足していることにより、安全な航海が妨げられていることを主張し、幕府に対して日本沿岸測量実施の許可を申し出ます。幕府は、沿岸諸国の攘夷感情を刺激することを恐れ、交渉は難航しますが、最終的にオルコックの強硬な姿勢に幕府が折れる形で、イギリス船による測量に幕府の役人が同乗する形式での測量が許可されることになりました。この時、測量に当たったのは、アクテオン号の艦長であるワード中佐(Commander Ward)ですが、彼は幕府の役人が持っていた伊能図に強い関心を示し、その正確さに驚き、取り急ぎ伊能図をベースにする形で、「日本円海図((Japan. Niphon, Kiusiu & Sikok. 通称2347号海図)」と、「瀬戸内図(Seto-Uchi. Or Island Sea. 通称2875号海図)」を1862年に完成させます。これは、伊能図を基にした日本沿岸の近代的海図として極めて画期的な海図となりました。本図は、後者である「瀬戸内図」に端を発するもので、その表記にもワード中佐の名前を確認することができます。
 2875号海図は、その後も改訂を重ねていきますが、大きな改訂となったのが、1872年の改訂版です。これは、明治初期における日本に大きな影響を与えたシルビア号による測量を基に改訂が施されたもので、本図も直接的にはこの1872年の改訂版を底本としています。英国海軍シルヴィア号については、海上保安庁水路部が1971年に水路業務100年を記念して刊行した『日本水路誌 1871〜1971 HYDROGRAPHY IN JAPAN』には次のような記述があります。

「シルビア号(Sylvia)は1866年ウールリッチ(Woolwich)で建造された、150馬力750他の木造砲艦で、測量作業には最適のものであった。これの艦長としてブルーカー(Brooker)が指揮をとり、東洋に向かい(中略)1868年(慶應4)年の2月に長崎に到着した。(中略)1868年はまた明治元年でもあった。それ以来明治14年(1881)まで実に13年間にわたるシルビア号の本格的測量となった(後略)」(11頁)

「なお、(1869年:引用者注)12月にはセントジョン(St. John)がシルヴィア号の艦長に着任した。彼が以来明治9年まで日本の海域測量に従事した功績は大きく、また翌3年(1870)の黒潮観測の傍ら、避難港として的矢および尾鷲の測量以来、日本の水路業務に協力した事実も大きいものであった。」(12頁)

 このシルビア号が明治初期の日本にとって非常に重要となるのは、シルビア号の測量活動に日本が同行することで、彼らから最新の海図作成技術を急速に学ぶことができたからに他なりません。1870年から、明治政府は日本の艦船をシルヴィア号に同行させ、本格的な測量術の習得を開始させます。当初は「事実上イギリス式測量の実習の域を出ないもの」(前掲書14頁)でしたが、1870年夏からの瀬戸内海測量において、「塩飽諸島、すなわち今日の備讃瀬戸の大部分に渡る測量に際しては、日英の合併測量にもかかわらず、柳(楢悦、ならよし:引用者注)御用掛以下の努力が実り、ついに翌明治4年1月に、「塩飽諸島実測図」を独自の手で完成した。そこで一応の照合をセントジョンに求めたところ、シルビア号による測量成果とほとんど一致する成果となっており、柳らの進化が十分に発揮されたものとなっていた。セントジョンは政府に対する報告書に添えて「もはや他の助力を要せずして水路業務を実施することができる」と記したので、柳以下測員は大いに面目をほどこした。」(同上)
 シルビア号が、本図である瀬戸内海の測量に重点を置いたのは、いうまでもなく開港地である神戸をはじめとして、多数の船舶が往来する重要な海域である一方で、難所が多く海難事故が絶えなかったことが背景にあります。正確な測量に基づいた海図の整備により、安全に航行できる航路を周知することによって、貿易をより促進する必要があったことは容易に推察できます。この時の測量により、2875号海図は、従来のものから大幅に情報が増加することになり、全面的に刷新されることになりました。本図は、その後の様々な改訂を経た上で、1893年10月の改訂が加えられたものですが、20年以上前の1872年のシルビア号の測量に基づいて改定されたものが底本となっていることから、この1872年の改訂版がいかに優れたものであったのかが窺えます。
 また、本図は、「フランス政府の最新の測量による追加情報を加えて」とありますが、これはおそらく、シルビア号が一時的に測量を中断していた時期に行われたフランスのシュープリース号による測量結果と思しき成果のことを指しているのではないかと思われます。イギリスをはじめとした欧米諸国による日本沿岸測量は、日本自身による技術力の向上に伴い次第に少なくなり、1883年のイギリスによる測量を最後として、それ以降は日本海軍自身による測量成果に基づく海図が、欧米諸国に対して公開されていることになります。本図において、「日本政府による海図から編纂された」とあるのは、こうした変化を反映したもので、1890年代には、逆に日本からの測量情報が、イギリスの海図に情報をもたらしていくようになるという、1870年代以降の20年間の劇的な変化を物語る大変興味深い内容です。

「シルビア号に代わって、明治13年(1880)秋、日本に来航したのはホスキン中佐(R.F.Hoskin)指揮によるフライングフィシュ号(Flying fish)であった。翌14年(1881)から行動を起こし、御前埼前面の探礁、神子元島北方の探礁から、夏には津軽海峡の函館と大間埼(Toriwi Saki)を結ぶ線の東側を測量し、函館港も最測量した。(中略)イギリスのフライングフィシュおよびマグバイ号は、明治16(1883)に修理のため日本を去ったが、以来ふたたび来日することはなく、イギリスによる日本沿岸測量は一応終了したのである。一面には全国海岸測量12か年計画の成功に期待をかけていたことはもちろんである。」(前掲書36-7頁)