書籍目録

『日本遠征に関するピアース大統領報告(遠征記録)』

(ペリー)

『日本遠征に関するピアース大統領報告(遠征記録)』

(米国第33回議会、第2会期、上院行政文書34号) 1855年 [ワシントン刊]

(Perry, Matthew Calbraith)

MESSAGE OF THE PRESIDENT OF THE United States, TRANSMITTING A report of the Secretary of the Navy, in compliance with a resolution of the Senate of December 6, 1854, calling for correspondence, &c., relative to the naval expedition to Japan.

[Washington], 1855(JANUARY 31, 1855. -Read and referred to the Committee on Foreign Relations. FEBRUARY 2, 1855. -Ordered to be printed). <AB201986>

Reserved

(33D CONGRESS, 2d Session. SENATE. Ex. Doc. No. 34)

8vo (14.5 cm x 22.7 cm), pp.[1], 2-195, Original embossed cloth.
全体にヤケシミや痛みが見られるが、判読に問題なく、おおむね良好な状態。

Information

『日本遠征記録』刊行の1年前に刊行されていた「もうひとつの遠征記録」

 本書は、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)による1853(嘉永6)年の浦賀来航と翌年の日米和親条約の締結に関する、ペリーと海軍省を中心とした関係者との通信記録を纏めたものです。ペリーによる日本遠征についての包括的な記録としては、ホークス(Francis Lister Hawks, 1798-1866)が全てを編纂、執筆した『ペリー艦隊日本遠征記録(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China seas and Japan...3 vols. 1856)』(以下『日本遠征記』)が非常に有名で、各種翻訳本も古くから刊行されています。本書は、よく知られる『日本遠征記』よりも1年ほど先んじて刊行されたもので、上院議決に基づくアメリカ議会文書の一つとして刊行されていて、ペリーの日本遠征に関する重要な文書の大半が収められていることに価値があります。

 本書には、後掲するように120を超える通信記録が収録されていて、その多くは、後年の『日本遠征記』にも用いられていますが、そこに採用されなかった文書や、ホークスが編集時に、自らのテキストに置き換えたものも多数見受けられることから、『日本遠征記』にはない独自の一次資料を数多く見いだすことができます。収録されている多くの通信記録は、ペリーと海軍省長官との間で交わされたものですが、広東や上海といった大陸に駐在していたアメリカ公使や、主要商人とのやりとりも含まれており、ここからアメリカの対東アジア政策全体の中で、日本遠征がどのように位置付けられていたのかを辿ることも可能です。また、小笠原諸島の領有権を巡ってイギリスからの牽制を受けた際のやりとりに、ペリーが、フランスの東洋学者クラプロート(Julius Heinrich Klaproth, 1783 - 1835)が仏訳した林子平の『三国通覧図説』や、ケンペル(Engerbertus Kaempfer, 1651 - 1716)の『日本誌(The History of Japan. 1728)』の一節を引用して反論を加えている書簡といった、ペリーが事前に入手していた日本関連情報の幅広さとその実践的活用を伺わせる文書も収録されており、『日本遠征記』には収録されていない興味深い資料を見ることができます。

店主が調べた限りの、本書の収録内容は、下記の通りです。

1. 1855年1月30日、ワシントン発:ピアース大統領から米国議会上院へ
2. 1855年1月29日、海軍省発:ドビン(J.C.Dobbin)から米国大統領へ
3. 1852年11月13日、海軍省発:ケネディ(John P. Kennedy)海軍長官からペリー提督へ
4. 1852年11月5日、国務省発:コンラッド(C.M.Conrad)国務長官代行からケネディ海軍長官へ
5. 米国大統領フィルモアから日本の皇帝への親書
6. 1852年12月13日、マデイラ発:ペリーからケネディ海軍長官へ
7. 1852年10月28日、イギリス海軍本部発、スタッフォード(Aug. Stafford)からペリー提督へ
8. 1852年、12月13日、マデイラ発:ペリーからスタッフォード英国下院議員へ
9. 1852年12月14日、マデイラ発:ペリーからケネディ海軍長官へ
10. 1853年2月15日、国務省発:エヴェレット(Edward Everett)からペリー提督へ
11. 1853年2月2日、喜望峰発:ペリーからケネディ海軍長官へ
12. 1853年4月7日、海軍省発:ドビン海軍長官からペリー提督へ
13. 1853年4月9日、香港発:ペリーから海軍長官へ
14. 1853年4月18日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
15. 1853年4月25日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
16. 1853年5月6・7日、上海発:ペリーから海軍長官へ
17. 1852年9月22日、ジャワ発:ツイスト(Duymaer van Twist)オランダ領インド総督からペリー提督へ
18. 1853年5月16日、上海発:ペリーから海軍長官へ
19. 1853年5月11日、上海発:マーシャル(Humphrey Marshall)米国上海駐在公使からペリー提督へ
20. 1853年5月7日、上海発:ラッセル社ほか(Russel & Co., Wetmore & Co., Augustine Heard & Co., Bull, Nye & Co., Smith, King & Co.)からマーシャル上海駐在米国公使へ
21. 1853年5月12日、上海発:ペリーからマーシャル上海駐在米国公使へ
22. 1853年5月13日、上海発:マーシャルからペリー提督へ
23. 1853年5月16日、上海発:ペリーからマーシャル上海駐在米国公使へ
24. 1853年5月15日、上海発:ケリー(John Kelly)艦長から(ペリー提督へ)
25. 1853年6月2日、那覇発:ペリーから海軍長官へ
26. 1853年9月5日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
27. 1853年6月25日、那覇発:ペリーから海軍長官へ
28. 1853年6月24日、那覇発:ペリー提督の日記からの抜粋(ケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651 - 1716)『日本誌』からの抜粋とクラプロート(Julius Heinrich Klaproth, 1743 - 1835)訳、林子平『三国通覧図説』からの抜粋含む)
29. 1853年6月28日、那覇発:ペリーから海軍長官へ
30. 1853年6月26日、那覇発:ケリーからペリー提督へ
31. 1853年5月18日午前11時、上海発:マーシャルからケリー艦長へ
32. 1853年5月18日、上海発:ケリーからマーシャル上海在住米国公使へ
33. 1853年5月23日、上海発:ラッセル社ほかからケリー艦長へ
34. 1853年5月28日、上海発:ケリーからラッセル社ほかへ
35. 1853年10月18日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
36. 1853年8月3日、洋上発:ペリーからドビン海軍長官へ
37. ペリー提督と日本代表との予備交渉を保留することが明らかとなった一連の出来事についての1853年7月の覚書(1853年7月12日、浦賀での出来事、戸田伊豆守への日本皇帝からの浦賀での親書受取についての書簡等、使節の身分を保証する文書翻訳文、1853年7月14日、浦賀発:ペリーから日本皇帝への書簡、1853年7月30日、那覇発:ペリーから日本皇帝への書簡、1853年7月7日、日本沖合発:ペリーから日本皇帝への書簡を含む)
38. 1853年11月14日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
39. 1853年8月31日、マカオ発:ペリーからドビン海軍長官へ
40. 1853年8月28日、香港発:シンクレア(A.Sinclair)少佐からペリー提督へ
41. 1853年8月18日、広東発:ナイ・パーキンス社ほか(Nye, Perkins & Co. / Augustine Heard & Co. / H.A.More & Co. / King & Co. / James Pardon / Russel & Co. / Henry H. Hubbell / W.C. Hunter / WM. D. Lewis / Lionel Moses / Thomas Walsh)からペリー提督へ
42. 1853年8月24日、マカオ発:ペリーからナイ・パーキンス社ほかへ
43. 1853年9月2日、マカオ発:ペリーからドビン海軍長官へ
44. ケリー提督への訓令からの抜書
45. 1853年7月30日、那覇発:ペリーからケリー提督へ(ケリー艦長への那覇にとどまることを命じる訓令)
46. 1853年8月22日、那覇発:ケリーからペリー提督へ
47. 1853年11月19日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
48. 1853年9月26日、マカオ発:ペリーからドビン海軍長官へ
49. 1853年10月9日、マカオ発:ペリーからドビン海軍長官へ
50. 1852(3?)年9月22日、上海発:マーシャルからペリー提督へ
51. 1853年9月29日、マカオ発:ペリーからマーシャル上海駐在米国公使へ
52. 1853年8月28日、香港発:シンクレアからペリー提督へ
53. 1853年10月24日、マカオ発:ペリーからドビン海軍長官へ
54. 1854年1月13日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
55. 1853年10月28日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
56. 1853年11月20日、マカオ発:ペリーからドビン海軍長官へ
57. 1853年11月5日、広東発:ハブル社ほか(Henry W. Hubble / Wetmore & Co. / WM. D. Lewis & Co. / Nye, Parker & Co. / Lionel Moses / Augustine Heard & Co. / Russell & Co. / king & Co.)からペリー提督へ
58. 1853年11月9日、広東発:ペリーからハブル社ほかへ
59. 1853年12月24日、香港発:ペリーからドビン海軍長官へ
60. 1853年11月12日、上海発:(ロシア帝国)プチャーチン(Pontiatine)からペリー提督へ
61. 1853年12月22日、香港発:(大英帝国)ボンハム(J. G. Bonham)からペリー提督へ
62. 1853年10月1日、(スコットランド)ビューリー発:シンプソン(Alex Simpson)からレイ(H. N. Lay)卿へ
63. 1843年冬に出版された小笠原諸島に関する1842年12月27日付 記事の抜書
64. 1853年12月23日、香港発:ペリーからボンハム大英帝国香港貿易監督官へ(クラプロート訳、林子平『三国通覧図説』からの抜書含む)
65. 1853年12月17日、上海発:ウォーカー(W.S. Walker)からペリー提督へ
66. 1854年1月2日、香港発:ペリーからドビン海軍長官へ
67. 1853年12月26日午前6時、広東発:マーシャルからペリー提督へ(機密)
68. 1854(3?)年12月29日、香港発:ペリーからマーシャル上海駐在米国公使へ
69. 1853年12月24日、上海公使館発:マーシャルからペリー提督へ
70. 1854年1月9日、香港発:ペリーからドビン海軍長官へ
71. 1854年1月4日、広東発:マーシャルからペリー提督へ
72. 1854年1月9日、香港発:ペリーからドビン海軍長官へ
73. 1854年1月12日、香港発:ペリーからドビン海軍長官へ
74. 1853年12月24日、上海発:ウォーカーからペリー提督へ
75. 1853年12月24日付、上海米国副領事カニンハム(E. Cunningham Esq.)からの書簡の抜書
76. 1854年1月8日、広東発:上海公使館発:マーシャルからペリー提督へ
77. 1854年1月12日、香港発:ペリーからマーシャル上海駐在米国公使へ
78. 1853年9月29日付、マカオ発のペリー提督からマーシャルへの書簡抜書
79. 1853年9月30日付、マカオ発のペリー提督からウォーカー艦長への書簡抜書
80. 1854年1月14日、香港発:ペリーからドビン海軍長官へ
81. 1854年1月25日、那覇発:ペリーからドビン海軍長官へ
82. 1854年1月25日、那覇発:ペリーからドビン海軍長官へ
83. 1853年12月23日、ジャワ発:ツイスト(Duymaer van Twist)オランダ領インド総督からペリー提督へ
84. 1854年1月23日、那覇発:ペリーからツイストオランダ領インド総督へ
85. 1854年5月30日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
86. 1854年2月9日、海上発:ペリーからドビン海軍長官へ
87. 1854年2月25日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
88. 1854年3月20日、横浜沖合:ペリーからドビン海軍長官へ
89. ペリー提督の第2回訪日時に生じた交渉に関する覚書(1854年2月20日付、江戸湾発、ペリーからポーハタン号アダムス船長への書簡、1854年正月27日付、林大学頭からペリー提督への書簡、1854年3月1日付、横浜発、ペリーから林大学頭への書簡、日本の委員会からペリーへの諸種の提案とそれに対するペリーの回答、1854年3月1日付、横浜発、ペリーから林大学頭への書簡(2通)、3月8日水曜日に通訳を介して日本側委員へ手渡された覚書、大統領から日本皇帝への書簡に対する返書(森山栄之助訳)、1854年3月10日付、横浜発、ペリーから林大学頭への書簡、1854年3月17日の日本側委員とペリー提督との交渉において合意された諸要点の日本側声明、1854年3月23日付、日本の委員会からの書簡のオランダ語訳文(森山栄之助訳文からの英訳)、同署間の中国語訳文(からの英訳)、1854年3月15日付、日本側委員(林ほか)からペリー提督への覚書を含む)
90. 1854年2月2日、那覇発:ペリーからドビン海軍長官へ
91. 1854年4月1日、神奈川沖合発:ペリーからドビン海軍長官へ(4月3日付覚書続編含む)
92. 日本との条約のいくつかの条項についての説明覚書(ペリー)
93. 1854年4月1日、神奈川沖合発:ペリーから林大学頭へ
94. 1854年4月4日、神奈川沖合発:ペリーからドビン海軍長官へ
95. 1854年5月30日、函館港発:ペリーからドビン海軍長官へ(1854年5月30日付、函館発、ベント(Silas Bent)からペリー提督への書簡含む)
96. 日米和親条約英文
97. 大琉球島の那覇への水路誌(ベント)
98. 大琉球等のメルビル(運天)港について(ベント)
99. 1854年7月18日、洋上発:ペリーからドビン海軍長官へ(1854年6月17日付、日米和親条約の追加規則、1854年6月12日付、下田発、ペリーからスパイデン(WM. Speiden)、エルドリッジ(J. C. Eldredge)への書簡、1854年6月15日付、下田発、スパイデンとエルドリッジからペリー提督への書簡、下田に入港する船員と補給についての諸規則(英蘭文)を含む)
100. 1854年7月18日、洋上発:ペリーからドビン海軍長官へ
101. 1854年7月19日、洋上発:ペリーからドビン海軍長官へ
102. 1854年7月20日、洋上発:ペリーからドビン海軍長官へ(当地で生じた水兵殺害事件に関する審理関連文書含む)
103. 1854年7月11日に締結された琉米修好条約
104. 1854年7月29日、香港発:ペリーからドビン海軍長官へ
105. 1854年7月22日、香港発:ケリーからペリー提督へ(1854年3月7日付、上海発、ゲスト(John Guiest)からケリー艦長宛書簡含む)
106. 1854年9月19日、海軍省発:ドビンからペリー提督へ
107. 1854年10月7日、洋上発:ペリーからドビン海軍長官へ
108. 1854年9月19日、シンガポール発:ペリーからマクレーン(McLane)へ
109. 1854年10月9日、インド洋上発:ペリーからドビン海軍長官へ
110. 1854年10月14日、紅海発:ペリーからドビン海軍長官へ
111. 1855年1月20日、ワシントン発:ペリーからドビン海軍長官へ
112. 1854年7月31日、パターソンほか汽船会社、石炭供給会社らからペリー提督へ
113. 1854年8月1日、マカオ発:ペリーからパターソンほか汽船会社、石炭供給会社らへ
114. 1854年9月4日、マカオ在住の全米国商人からペリー提督へ
115. 1854年7月7日、香港発:ペリーからマカオ在住の全米国商人へ
116. 1854年9月9日、香港発:キーナン(James Keenan)ほか(O.D. Williams / Henry Anthon, Jr. / George L. Haskell)からペリー提督へ
117. 1854年9月11日、香港発:ペリー提督からキーナンほかへ
118. モーリー大尉による下田湾への水路誌(1854年7月7日付、琉球発ベント報告)
119. モーリー大尉による函館への水路誌(1854年6月18日付、洋上発ベント報告)
120. モーリー大尉による江戸への水路誌(1854年9月4日付、香港発ベント報告)



「本学が所蔵しているペリー提督のもうひとつの遠征記録(以下『遠征記録』という。)は、下記の書名で1855年2月に米国第33回議会第2会期の上院行政文書34号として上院で承認を受け、同時に5000部の印刷・刊行が許可されています。先の『日本遠征記』同様、ペリー提督にもそのうち250部が贈呈されています。背表紙には、Japan / Perry と二段に分かれて表示され、全195頁、B5版サイズで刊行されています。
(書名標題略)
 これは、標題にも記述されているように、日本遠征に関わる海軍省の訓令、ペリー提督の通信書簡、条約締結の経緯などを上院に報告せよという決議に対して、時の大統領ピアースがその決議に応えたもので、『日本遠征記』の刊行に先立つ1年前ということになります。実はつきあわせてみるとよくわかるのですが、『日本遠征記』の第1巻の大部分は、この『遠征記録』のなかにある書簡、報告からまとめられています。
 『遠征記録』は、1852年11月5日付けのコンラッド国務長官代行からケネディ海軍長官へ宛てた大統領の日本遠征に関するペリー提督への支持内容の書簡と、それを受けた11月13日付けの海軍長官ケネディからペリー提督に対する支持の書簡に始まり、1855年1月20日付けのペリー提督から将軍宛書簡の再送付に関する書簡に至るまでの海軍とペリー提督との通信記録、ペリー提督自身の2度にわたる日本来航の交渉の経緯が収載されています。
 『日本遠征記』は、歴史家ホークス(F. L. Hawks)がペリー提督から依頼され、編集・執筆していますが、この『遠征記録』のなかの多くの書簡、記録類はペリー提督からホークスに渡されています。しかし、『日本遠征記』に採録されている書簡もあれば、ホークスの言葉に置き換えられてしまって、書簡そのものが再録されずにまとめられたものも数多くあります。『遠征記録』は、国内では数冊程度の所蔵を確認できますが、絶対数が少なく、歴史資料の観点から、また『日本遠征記』を補完するという意味でも大変貴重な資料であることが分かります。また歴史に関心のある方にとっては、この両者を比較しながら読むと、結構おもしろい読みものになるのではないかと思います。」

(山下洋一「ペリー提督『日本遠征記』ともうひとつの遠征記録」『金沢大学付属図書館報 こだま』第151号、2003年所収、3,4頁より)