書籍目録

『ジャパン・パンチ』1865年から1870年 

ワーグマン

『ジャパン・パンチ』1865年から1870年 

計37号(2冊に合冊) 1865ー70年 横浜刊

Wirgman, Charles.

THE JAPAN PUNCH.

Yokohama, 1865-70. <AB201985>

Sold

37 issues in 2 vols.

25.3 cm x 26.7 cm, Printed on recto only. *詳細な書誌情報については、下記解説文を参照, Bound in Japanese style, stored in special box.

Information

極めて貴重な初期号を当時の所有者が合本したと思われる形で保存

 本書は、ワーグマン(Charles Wirgman, 1832 – 1891)による幕末期から明治初期の日本を描いた風俗雑誌「ジャパン・パンチ」の1865年から70年にかけての37号を2冊(和本仕立て)にまとめたものです。ジャパン・パンチは、1862年から1887年まで刊行され、日本の「ポンチ絵」の原型となったことや、優れた風刺画の歴史教科書への掲載でもよく知られる雑誌です。創刊された1862年に3号ほどを刊行してから、以降1865年までは刊行を休止していますので、本書に収録されているのは、最初期の1862年刊行分を除く貴重な初期の号ということになります。いうまでもなく幕末から明治初期にかけて日本国内が激動の時期にあたることから、非常に興味深い記事を数多く見出すことができます。また、ジャパン・パンチは、その刊行頻度や時期、それぞれの内容となると、復刻版の存在にもかかわらず依然として不明な点が多々あることでも知られますが、本書には雄松堂による復刻版に収録されていない号(1870年1月あるいは2月号)が収録されており、ジャパン・パンチの全貌をより明らかにするための貴重な史料とも言えます。

 これらに加えて、本書には当時の横浜在住外国人所有者によるものと思われる書き込みのある和紙と名刺が挟み込まれており、これらも大変興味深いものです。和紙には「シュヴィリエ(Chevrier)90番(九十番)」とあり、挟み込まれた名刺の書き込みにもシュヴィリエによる署名があります。このシュヴィリエがどういった人物であるのかは分かりませんが、横浜の居留地番号を示すと思われる90番という場所は、スイスによる日本との通商条約のために1863年に派遣された使節団の商業部門を担当する公使館参事官として来日して以降、横浜に居を構えていたブレンワルド(Casper Brennwald, 1838 - 1899)によるシイベル・ブレンワルド社が1868年以降の所在地としていたことで知られる場所です。名刺は、リベロール(Henri de Riberolles )とありますが、恐らくこのリベロールとは、大学南校を経て、1872年から74年にかけて司法省法学校の教員となっていたリベロールのことと思われます。名刺の書き込みは、『ジャパン・パンチ』とその著者であるワーグマンについて簡単に紹介したもので、1898年1月9日付とあります。この書き込みでは、「私が信じるに2年前に横浜で亡くなった私たちの日本の友人による」ものとして『ジャパン・パンチ』のことを紹介しています(ワーグマンが亡くなったのは1891年のことですので「2年前」というのは明らかに間違いですが)。

 ジャパン・パンチの初期号は、タイトルページに月表記がなく、また本書のように、現存するものは当時の所有者によって、個別のタイトルページをのぞいて合冊されたものが多いことから、各号がいつ、何ページで刊行されたのかを確定することが非常に難しくなっています。先述の復刻版では、現存する各種本を比較照合し、また記事内容から推察して、個別の号を特定する試みがなされており、これが一つの指標として非常に役立ちます。本書に収録されている内容を、復刻版と対照してみますと、下記のようになります。

Vol.1 (I, II)

1 leaf(blank), Title. dated 1869,
1. 12 leaves (August, 1865),
2. 14 leaves (September, 1865)
3. 14 leaves (October, 1865)
4. 13 leaves (November, 1865)
5. 14 leaves (December, 1865)
6. 15 leaves (January, 1866)
7. 13 leaves (February, 1866)
8. 13 leaves (March, 1866)
9. 13 leaves (April, 1866)
10. 13 leaves (May, 1866)
11. 13 leaves (June, 1866)
12. 13 leaves (July, 1866)
13. 14 leaves (August, 1866)
14. 12 leaves (September, 1866)
15. 12 leaves (October, 1866)
16. 13 leaves (November, 1866)
17. 14 leaves (December, 1866)
18. 14 leaves (January, 1867)

Vol.2 (III, IV)

Title, dated 1868,9.
1. 13 leaves (July, 1867)
2. 14 leaves (October, 1867)
3. 15 leaves (December, 1867)
4. 11 leaves (January, 1868)
5. 11 leaves (February, 1868)
6. 11 leaves (July?, 1868)
7. 17 leaves (June?, 1868)
8. 18 leaves (September, 1868)
9. 15 leaves (November, 1868)
10. 15 leaves (December, 1868)
11. 14 leaves (January, 1869)
12. 11 leaves (February, 1869)
13. 14 leaves (April, 1869)
14. 13 leaves (May, 1869)
15. 13 leaves (June, 1869)
16. 13 leaves (August, 1869)
17. 11 leaves (December, 1869)
18. 12 leaves (February?, 1870)*復刻版未収録
19. 13 leaves (January?, 1870)

 第1巻(表紙にはVol I.IIと記載)は、1869年の表紙を最初に付しており、1865年2月号から1867年1月号までの18号を収録しています。先述の通り、ジャパン・パンチは、1862年に3号ほどが刊行されてからすぐに休止しており、1865年2月号から再開されていますので、第1巻は再開後の初期号を網羅していることになります。収録号は、復刻版と合致していますが、細かい点では、1866年7月号と12月号の一部のページの綴じ順に違いが見られます。

 第2巻(表紙にはVol. II IV.と記載)は、1868年の表紙を手書きで修正して1869年とした表紙が最初に付されており、1巻の続きとなる1867年7月号から1870年2月?(特定には注意を要するため後述)までが収録されています。
 1867年に刊行されたものは、現存する諸本の間で相違が見られることから、号を特定することが非常に難しくなっています。復刻版では、1月、6月、7月、10月、12月の5号が収録されていますが、現存する諸本の中には、6月号を収録していないものが確認されており、本書もそれらと同様に6月号とされるものは収録していません。また、一方で復刻版には収録されていない11月号がごく一部存在していることが分かっていますが、これもやはり本書には収録されていません。
 1868年に刊行されたものも、同様に現存諸本の間で相違が確認されていますが、復刻版で6月、7月とされている号が、本書では逆順に綴じられており、両者のいずれが正しい順序であるのかについては、より詳細な調査が必要と思われます。また1868年にも復刻版に収録されていない8月とされる号がごく一部存在していることが分かっていますが、本書には収録されていません。それ以外は、復刻版に収録されている全ての号を本書では収録しています。
 1869年は、復刻版に収録されている11月号が本書には収録されていないことが確認できます。復刻版にはありませんが、11月号以前に9月、あるいは10月号と思われる号が、ごく一部存在することが確認されていることから、この時期の発行には混乱があったのかもしれません。
 1870年は、復刻版は、1月号に次いで、3月号が掲載されていますが、本書には復刻版で1月号とされている号の前に、復刻版に収録されていない号が収録されていることが注目されます。この復刻版に収録されていない号もやはり、ごく一部の現存本に収録されていることが分かっていますが、そこから推察すると、復刻版で1月号とされているものが、実際は2月号と考えるべきではないかと思われます。いずれにしましても、復刻版に収録されていない非常に貴重な号を収録している点は、特筆すべき点でしょう。

 本書は、このように書誌情報の特定が非常に困難で、また現存数が後年の号よりも少ないことで知られる貴重なジャパン・パンチの初期の号を比較的纏った形で、しかも当時の所有者による合冊の形を保っているという点で、非常に価値のある文献ということができます。もちろん、幕末から明治初期にかけて大きな転換期を迎えることになった日本社会を横浜外国人居留地の人々の目線から描いた貴重な史料として、その内容がかけがえのない価値を有していることは言うまでもありません。


「1862(文久2)年7月、ワーグマンによって横浜居留地で創刊された『ジャパン・パンチ The Japan Punch』は、同じ月にEXTRA版が出されるが、それ以後3年間中断してしまう。本業の『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の仕事に多忙だったためだろう。1867年以降は毎月刊行となり明治20年3月まで続いた。
 この雑誌は木版刷(明治16年12月号から石版刷)で部数はせいぜい数百部といったところだった。それでも東京・神戸・長崎の居留地から上海までも販路をひろげていた。内容は、横浜居留地の出来事や風俗を渦中の人の似顔絵入り漫画で描き、日本をめぐる各国の外交の動向や、居留地ジャーナリズムの評判や、日本の風俗などを紹介した。
 そのため、居留地史、幕末維新外交史、舶来文化移入史などを見る上にきわめて重要な資料であり、その観点でこの雑誌は見られてきた。しかし、25年余に渡って刊行されたこの雑誌にはたくさんの日本人が描かれていて、それらを取り出してみるだけでも、ワーグマンの日本人観が鮮明になって興味深い。日本人が開国以来、西洋人をどう受け入れ、西洋文明をどう吸収していったかをワーグマンは漫画で証明しているのである。また、幕末から明治20年という四半世紀の急激に変わっていく日本社会と日本人をビジュアルに記録したということできわめて貴重な作品と言わねばならない。」

(清水勲『ワーグマン日本素描集』岩波文庫、1987年、60, 61頁より)


「『ジャパン・パンチ』表紙論
 JP(ジャパン・パンチの略;引用者注)の表紙は、袴をつけたワーグマンの分身である。JPないで様々な表記をされるが、その中でも衣装から考えて「パンチの守」が最も相応しかろう。パンチの守は創刊当初は除き、1865年から終刊まで一貫して表紙デザインとして存在した。その鷲鼻は、(中略)ワーグマンの身体的特徴である。だが同時にそれは、開国当時、例えばペリー像が代表的な例のように、頻繁に外国人像の象徴として描かれたものである。その種の画像の引用に敏感だったろうワーグマンは、ダブルイメージとして自身を描き続けたに違いない。

モノとして見た『ジャパン・パンチ』
 1862年の創刊から1883年11月号まで、同誌は和紙に木版刷り、表紙に加え10頁から構成された雑誌であった。あえて和紙に木版刷りという材質、技法を選択したのには、石版画印刷や銅版画印刷が創刊当時のころには横浜でもそれほど一般的ではなく、高価だったからと推察される。しかし、ワーグマンの緩やかな描線は、むしろその材質、技法と絶妙にあわさり、より軽妙な、空想めいた世界を表現するのにふさわしい要素となっている。そのような軽妙さは、彼自身が肩の凝らない雑誌という編集方針のもとの選択でもあったはずだ。それがモノの形態にもあらわれている。すなわち、薄く軽い素材のゆえの脆弱さである。おそらく居留地の人々は、異国の形態の中に生き生きと暮らす自身の姿を、日々の余白に手にしていたのだろう。そのような消費形態が、現存数の少なさの理由の一つでもあるのだろう。

「横浜にとっての『ジャパン・パンチ』
 JPには数々のスポーツ、レクリエーションがとりあげられている。それらは西洋において当時おこなわれていたものを、日本でおこなったという面白さ、彼らの狂態などを描いたものである。そしてこのような新種の風俗や文化が、その後、日本全国へ普及していったものが多い。横浜は海外に開かれた港であり、異国情緒といった形容詞が見事にはまる場所となったのは、彼らの活発な活動からである。そのためJP、そしてワーグマンは横浜の歴史を語るときに、必ずといってよいほど参照される。しかしながら、JPの内容はさほど容易に読み解けるものではない。当時の社会背景などに習熟していないと訳のわからない図様が少なくない。風刺、漫画はとかく教養の豊かな人々の間で嗜好されたものであることもJPは示唆するのである。そして横浜の歴史をひも解く上で、今後さらに多くの人々によって、JPの研究が進展することが期待される。

『ジャパン・パンチ』の周辺
 JPの発行形態については謎が多い。ワーグマン自身が取材し、文章と絵を描いたことは疑いない。だが、それを版におこし、仮製本した商社、ないしは人物がいたはずだ。しかし、それを特定することは叶わず、また販売形態も不明だ。1869年の記事によれば、Japan Times社が取次販売をしているが、それがいつからいつまでなのかは不明である。また、1883年末頃から木版印刷から石板印刷へと変更されるが、それを担ったのがアル・メイクルジョン商会であった。このように横浜居留地内の会社等が協力し、発行・販売されていたと想像されるのである。」

(神奈川県立歴史博物館『特別展ワーグマンが見た海』2011年、70-77頁より)


「勤務時間の短い社会であった。会社や銀行や商店はたいてい9時半か10時に始り、4時半にはしまっていた。夕方になるとトラップと呼ばれる香港製の2輪馬車でごった返し、その車内にはブラフへの家路を急ぐマイホーム亭主や、グランドホテルのバーで友人たちと合流する男たちや、ビリヤードをするか飲むためにユナイテッド・クラブへ向かう若い男たちが乗っていた。週末には、入り江でヨットが帆走し、根岸競馬場ではレースが行われ、ゲーテ座(のちのぷブリック・ホール)では芝居や歌があり、クリケットのグラウンドではクリケット・ゲームがあった。さらに、テーラーや靴職人や散髪屋を訪れるという日常的な行動もあった。横浜の外国人は、望めば静かな生活を送ることもできたが、もっと正気のある生活の方がより一般的であった。(宣教師たちの必死の説教にも拘らずである。)
 
 1862年、チャールズ・ワーグマンはジャパン・パンチの第1号と一緒に、そういう環境の中へやって来た。彼は、金持ち、貧乏人、政治家、宣教師、船乗り、商人たちを風刺して、この社会を25年間にわたり楽しませた。彼は、何百人もの人々が来ては去るのを見た。短期間の滞在の者もいれば、帰国するまで長年住んだ者もいたし、また彼自身のように横浜に永住した者もいた。(中略)

 Mr.パンチの登場は1865年以前は表紙だけであったが、1866年以降イラストへの登場が確立され、やがて大きな鼻のハゲ頭の人物へと進化してゆき、たいていは日本風に着物姿で現れる。Mr.パンチの友人が3人、この冒険に共演者として特に頻繁に登場する。−”コロジオン伯爵”(フェリックス・ベアト 、写真家)、”好奇心旺盛男”(ウィリアム・H.スミス、野菜マン)、”スマイルズ卿”(ハリー・スミス・パークス卿、英国公使)の3人である。」

(ジョゼフ・ロガラ『Mr.パンチの天才的偉業』有隣社、2004年、序文より)

保存用の専用箱は近年作成されたものと思われる。
全2冊に綴じられている。表紙にVol. I. II. III. IVとの記載あるが、どういう区分を意味しているのか不明。
かなりボリュームのある和綴本。
「シュヴィリエ(Chevrier)90番(九十番)」という当時の横浜在住外国人所有者によるものと思われる書き込みのある和紙。このシュヴィリエがどういった人物であるのかは分かりませんが、横浜の居留地番号を示すと思われる90番という場所は、スイスによる日本との通商条約のために1863年に派遣された使節団の商業部門を担当する公使館参事官として来日して以降、横浜に居を構えていたブレンワルド(Casper Brennwald, 1838 - 1899)によるシイベル・ブレンワルド社が1868年以降の所在地としていたことで知られる場所。
挟み込まれている名刺の裏面にある書き込みは『ジャパン・パンチ』とその著者であるワーグマンについて簡単に紹介したもので、1898年1月9日付とある。この書き込みでは、「私が信じるに2年前に横浜で亡くなった私たちの日本の友人による」ものとして『ジャパン・パンチ』のことを紹介している(ワーグマンが亡くなったのは1891年のことですので「2年前」というのは明らかに間違い)。
名刺のリベロール(Henri de Riberolles )とは、大学南校を経て、1872年から74年にかけて司法省法学校の教員となっていた人物と思われる。
個別号の表紙はなく、1冊につき1枚の表紙が最初に綴じられている。
「1865(慶応元)年に掲載されたもので、『我々の日本との交際の結果』と題して1859年から1865年の7年間の日本の変化を端的に描いている。下のキャプションは『別当 1859年』(右)『士官と兵士 1865年』(左)とある。」(清水前掲書、61頁より)
「Mr.パンチは人生がいつも楽しいことやおふざけばかりではなく、人々が狭苦しい街で悪臭に悩まされることなく交流を楽しむためには、日常の雑用が必要であることを承知していた。Mr.パンチが、右手前でワイシャツを洗ってもらおうと急いでいるのが見える。真ん中でチェック柄のシャツを着て采配を服っているは、”公共心旺盛な”スミスと一般に呼ばれたウィリアム・スミスである。洗濯かごを持った”コロジオン伯爵”がこの二人の間にいる。(本名フェリックス・ベアト、写真家。コロジオンは写真の原板の作成に使う溶液のこと)。(1865)」(ロガラ前掲書、12頁)
「少し気持ちを変えてMr.パンチはジャーナリズムの経済性はその真実性よりも重要であるかもしれないとうそぶく。彼が現実的に述べているように、つまるところは、勘定を支払わなければならないのだ。イラストでは、残念ながらこの波止場で何が起こったのかわからないが、報道の自由は活動中であるようだ。左側にいるのはジャパン・タイムス(1865年から1869年)のオーナーであり創始者であるチャールズ・リッカビーで、右側はジャパン・ガゼットの創始者ジョン・レディ・ブラックである。手前の三人目の人物はMr.パンチお気に入りの名なしのキャラで、我々は彼の分身ではないかと推測している。下の文では、Mr.パンチは自分のことを中傷好きな人間だと警告する。もちろんジョークである....と願う。」(ロガラ前掲書、4頁)
英国公使パークス(勅許状と思しき書類を右手に持った人物)をはじめとした4カ国公使が、安政5カ国条約の朝廷による勅許を得られたことを喜ぶ場面を描いたと思われる図。
「『大君の血を抜くブリタニア』(下関戦争の賠償金300万ドルを日本からしぼりとる英国を示す図)」(神奈川県立歴史博物館前掲書、72頁)。この図はイギリスでもよく知られており、近年では、2019年5月23日から8月26日までBritish Museumで開催された「Manga マンガ」展でも出店された(同展図録 Nicole Colidge Rousmaniere / Matuba Ryoko. Manga マンガ。British Library.2019.23,27頁参照)。
ワーグマンの親しい友人であった「何でも屋ベアト」はジャパン・パンチに頻繁に登場する。
1865年に横浜に設けられた仏語伝習所の校長メルメ・カションは、ジャパン・パンチにおいてしばしば登場している。フランスと幕府との関係強化のために奔走したカションと幕府との密接ぶりがユーモラスに様々に描かれている。
「横浜の金融地震 1866年5月ロンドンを震源地とする金融恐慌が勃発した。西インド中央銀行を始め、ヒンドゥスタン銀行、インド商業銀行が破綻。オリエンタル銀行、チャータード・マーカンタイル銀行、香港上海銀行はかろうじて持ちこたえた。倒産を免れたオリエンタル銀行の上に立って廃墟を眺めているのは横浜支店長ロバートソン。『ジャパン・パンチ』1866年7月号より)(横浜開港資料館編『図説 横浜外国人居留地』1998年、39頁より)
1866年8月に富士登山を行ったスイス総領事ブレンワルド。ベアト自身も1867年にオランダ公使ポルスブルックやパークス夫妻らと富士登山を行っており、自身が撮影した写真(FUSI-YAMA, FROM THE NEW ROAD)の解説文にそのことを記している。(参照:横浜開港資料館編『F.ベアト写真集1』明石書店、2006年)
「スミスの農園 イギリスの海兵隊の退役中尉A.H.スミスが山手の60〜62番辺りに開設。牛や豚の飼育と西洋野菜の栽培を行うとともに、日本人にその方法を教えたり、種や苗を輸入したりしていた。産物はスミスが支配人を務める横浜ユナイテッド・クラブにも供給されたことだろう。『ジャパン・パンチ』1866年10月号より」(横浜開港資料館編前掲書(1998)53頁)
「猛勉強のせいか全員目がねをかけた英語学校生。舶来の目がねを横浜で入手したのだろう。この学校は外人の子供たちのための学校らしい。キャプションに『若き紳士たちがあたらいい付加価値を授かるための施設』とある。先生はドクター・バーチ(『バーチ』は『ムチで打つ』の意)と称しているから、相当厳しい人らしい。1866(慶応2)年11月号掲載)」清水前掲書74頁
「黒船を知らなかった昨日のモード。帽子・洋服・靴を知った今日のモード。そして何もかも知ってしまって、刀に代わってステッキを持ち出す明日のモード。西洋との交流によって日本は急速に変わることを予見している。その牽引車は、この得意げに洋装を誇示する今日の青年たちである。上のキャプションは『服装のちょっとした堕落』となっている。1866(慶應2)年11月号掲載」(清水前掲書95頁)
1866年11月26日に発生した横浜大火後の復興協議を国際会議に見立ててユーモラスに描いた図。「横浜復興のための大国際会議 ワーグマン画 横浜大火後に開催されたパンチノカミ主催の仮想の復興会議。右から仏公使ロッシュ、英公使パークス、左から二人目はオランダ総領事ポルスブルック、左端はプロシャ領事フォンブラントのように見える。『ジャパン・パンチ』1866年11月号より」(横浜開港資料館編前掲書(1998年)24頁)
2冊目の表紙。
2冊目の冒頭に全体の表紙が綴じ込まれている。
改革(ROFORM)を象徴する蒸気機関車に乗ってひた走る日本をユーモラスに描いた図。掲げられているのは孟子の言葉で慌てて先に進む者は、退くのもまた早いというほどの意味。
「戊辰戦争中、東北諸藩を舞台として、兄弟で活動した外国人がいる。シュネル兄弟である。兄ヘンリー・シュネルは、プロイセンの元陸軍大将を名乗りつつ戊辰戦争さなかの会津藩・米沢藩の要路と接触し、奥羽列藩同盟の事実上の軍事顧問となって東北の各地に潜航し、戊辰戦争の先頭にも直接参加した。弟エドゥアルト・シュネルは、開港問題で揺れる同じ時期の新潟港にオランダ領事を自称して出現、その他各国の領事をも兼務し、兄シュネルと水面下で意を通じつつ、同盟諸藩に大量の武器弾略を供給(密売)した。」(福岡万里子「戊辰戦争に関与したシュネル兄弟の『国籍』問題」箱石大編『戊辰戦争の史料学』2013年、勉誠出版所収、107頁)
「帰国するサトウ 『ジャパン・パンチ』1869年[2]月号 明治維新に大きな影響を与えた『日本におけるわれわれの政策の中心人物』サトウが、横浜から帰国した時のワーグマンの風刺画。サトウは『ボンベイ経由の乗客』と書かれた旅行鞄をさげ、大粒の涙を流している。」(横浜開港資料館編『図説 アーネスト・サトウ』有隣社、2001年、72頁)