書籍目録

『舌切雀』

ファンスケルンベーキ(譯述)

『舌切雀』

オランダ語訳(第2?)版 1886年 東京刊

van Schermbeek, P(ieter). G(erard).(Translator)

SHITAKIRI SUZUME.

Tokio, Kobunsha(弘文社), 明治十九年三月五日出版御届同年同月刻成. <AB201974>

Sold

(2nd?) Edition in Dutich.

11 folded plain Japanese papers, bound in Japanese style, silk tied.
平紙本。第8葉の袋部分が開いている状態だが、全体として良好な状態。

Information

大変珍しい長谷川による「欧文日本昔噺」シリーズ中唯一のオランダ語版

 ちりめん本とは、ちりめん布を模した柔らかい和紙に、欧文の日本昔噺を中心とした物語と、美しい挿絵を多色刷りで印刷した書物の総称で、主に明治期から昭和30年代ごろまで刊行されたものです。その美しい和紙の質感から海外ではCrepe paper booksと呼ばれています。元々は日本を訪れた外国人の土産用、ないしは外語学習用に作成されたと言われていますが、その実態や刊行されたタイトルがどれほどあったのかということについては、未だ熱心な研究が続いています。
 
 ちりめん本の中でも特に有名な版元であったのが、長谷川武次郎による弘文社で、長谷川が刊行したちりめん本はその量、質において他社を圧倒しています。特に、日本の昔噺を英語を中心に各国語に訳した「欧文日本昔噺(Japanese Fairy Tales)」 シリーズは、訳者に著名な御雇外国人や、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲, 1850 – 1904)といった文学者、チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850 – 1935)といった当代随一の日本研究科をそろえたことから、単なる嗜好品の水準をはるかに越えた内容となりました。長谷川による「欧文日本昔噺」シリーズは、英語をはじめとしてフランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、デンマーク語、スウェーデン語、イタリア語、ロシア語といった各国語版が刊行されましたが、それぞれの言語の訳者やマーケットの事情に応じて実際に刊行された巻数や発行部数には大きな違いがありました。また、ちりめん本ではなく、平紙本しか刊行されなかった言語もあり、例えば、デンマーク語や、本書であるオランダ語がそうです。

 「欧文日本昔噺」シリーズのオランダ語版についての詳細は、ほとんど分かっていませんが、『舌切雀』だけが、平紙本のみで刊行されたようです。ただし、2種類の異なる表題を冠した『舌切雀』が存在しており、すなわち一つが、DE MUSCH MET DE GEKNIPTE TONG というオランダ語の表題を冠したもの、もう一つが、SHITAKIRI SUZUME という日本語ローマ字表題を冠したものです。本書はこのうち、後者にあたるものです。両者は表題だけでなく、訳者や発行年の表記も異なっています。本文のテキスト内容は同じようですが、活字の組み方が異なっており、同じテキストを採用しつつも、異なる版組がなされています。

 オランダ語表題を持つものは、訳者が「ドクトル ア、グロフト」とあり、これは「欧文日本昔噺」シリーズの『舌切雀』などドイツ語版4作品の訳者であるグロート(Adolph Groth, ? - ?)のことと思われます。長谷川武次郎に関する英文解説書として比較的よくまとまっているシャーフ(Frederic A. Sharf)の Takejiro Hasegawa: Meiji Japan’s Preeminet Publisher of Wood-Block-Illustrated Crepe-Paper Books(Peabody Essex Museum Collections Volume 130, Number 4, 1994)によりますと、オランダ語版『舌切雀』の訳者はグロートで1886年の離日後、1892年にユトレヒトの書店との協力で刊行されたと言われています(同書44頁)。しかし、「ドクトル ア、グロフト譯述」と表記のあるオランダ語の表題を冠した『舌切雀』は、奥付に「明治十八年八月十七日版権免許同月出版」とありますので、これに従うと刊行年は1885年となりますから、シャーフがここで述べている「ユトレヒトの書店との協力で刊行された1892年版」とは異なり、グロートがまだ日本滞在中の時期に刊行されたことになります。店主の調べた限り、シャーフが言及している1892年版は、その存在すら確認できませんでしたが、ともかく『舌切雀』オランダ語訳の訳者がグロートとしている点は、オランダ語表題を冠した『舌切雀』において、確認することができます。

 日本語表題を持つもの(すなわち本書)は、しかしながら「ファンスケルンベーキ譯述」とあり、全く異なる訳者が奥付に明記されています。刊行年は、「明治十九年三月五日出版御届同年同月刻成」とあり、オランダ語表記を持つものの約半年後(1886年3月)に刊行されたことになります。また、本書の最後のテキストページに訳者名が明記されており、P. G. van Schermbeekとありますので、「ファンスケルンベーキ」とは、Pieter Gerard van Schermbeek のことを指していることが分かります。とはいっても、この人物についての詳細は、店主の知り得る範囲では不明で、またグロートや長谷川との接点も定かではありません。テキストは先述の通り、内容は全く同じと思われるものの、活字の組み方に相違があり、テキストの版組を新たにしていることが分かります。

 多種多様な「欧文日本昔噺」シリーズの中にあって、オランダ語訳『舌切雀』はいずれの版であっても、極めて稀覯とされていることに鑑みると、発行部数も決して多くなかったものと思われます。このわずか半年の間に出現した、2つのオランダ語版『舌切雀』がどのような関係にあるのか、なぜ同じテキストでありながら異なる訳者の表記がなされているのか等、オランダ語版にはまだ不明なことが多々あり、オランダ語版「欧文日本昔噺」が、なぜ1作品しか刊行されなかったかも含めて、興味深い研究テーマが数多く残されています。数少ないオランダ語版『舌切雀』は、古書市場においても滅多に出現することがありませんが、本書のように状態が良いものは、この種の資料の性格に鑑みると、研究上において非常に重要であると思われます。