書籍目録

「蝦夷記」/ 「ティツィング日本コレクション概説」/「日本から帰還したロシア人について速報」ほか『地理と歴史の航海年代記 第24巻』所収

ティツィングほか

「蝦夷記」/ 「ティツィング日本コレクション概説」/「日本から帰還したロシア人について速報」ほか『地理と歴史の航海年代記 第24巻』所収

1814年 パリ刊

Titsingh, Isaac...[et al.]

DESCRIPTIONS DE LA TERRE IESSO, TRADUITES DU JAPONAIS. / NOTICE SUR LA COLLECTION DE LIVRES, MANUSCRITS, DESSINS, CARTES ET MONNOIES DU JAPON, FORMÉE PAR FEU M. TITSING…and others IN ANNALES DES VOYAGES…TOME VINGT-QUATRIÉME.

Paris, Volland / Brunet, 1814. <AB201973>

Donated

8vo (12.5 cm x 19.5 cm), pp.[1(Half Title.)-3(Title.)-5], 6-284, 185[I.e.285], 286-411, 1 leaf(blank), Contemporary half leather on plain boards.
(Adami: 43 / Not in Cordier)「蝦夷記」は、145頁から213頁にかけて、「ティツィング日本コレクション概説」は、214頁から226頁にかけて、「日本から帰還したロシア人について速報」は、271頁に掲載。

Information

ティツィングによる新井白石『蝦夷志』ほか1作品のフランス語訳を収録

 本書は、雑誌『地理と歴史の航海年代記(Annales des Voyages, de la Géographie et de l’Histoire)』の第24巻(おそらく最終巻)に当たるものです。この叢書(雑誌)は、ヨーロッパ各国の最新の航海記や旅行記の紹介、世界各地の文明、言語、習慣などを紹介する学術誌で、1801年から1814年にかけてパリで刊行されています。本書が非常に興味深いのは、オランダ東インド会社日本商館長を務めたティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)による「蝦夷記(IESO-KI)」と、彼が日本滞在中に収集した膨大なコレクションの一部の目録が収録されている点です。

 ティツィングは、アムステルダムで外科医となった後、ライデン大学で法学を修め、1765年にオランダ東インド会社の商務員としてバタフィアに派遣され、1779年8月から1784年11月までの間、3度、述べ3年半にわたって日本商館長を務めました。ティツィングが日本商館長を務めた時期は、いわゆる「田沼時代」と称される政治的に寛容な時代であり、蘭学勃興期にあたる時期でもありました。商館長在任当時から、多くの日本人と学術交流を深め、膨大な書物や美術品、地図を蒐集し、しかも後のシーボルトと異なり、幕府から正式にそれらをヨーロッパに持ち帰る許可までをも得ています。離日後の1785年から1792年の間は、オランダ東インド会社のベンガル貿易総監を務め、その後同社評議会員外参事としてバタフィアに赴任し、遣清大使を務めたことで、日清双方の宮廷を訪問した稀有なヨーロッパ人となりました。ティツィングは日本滞在時から蒐集を続けていたコレクションと、それらを用いた様々な日本に関する論説を執筆しましたが、それらは生前ほとんど刊行されることはありませんでした。

 「蝦夷記」序文において、編者は、ラ・ペルーズ(Jean François de Galaup. comte de la Pérouse, 1741 - 1788?)、クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern, 1770 - 1846)、ブロートン(William Robert Brouhton, 1762 - 1821)といった(当時最新の)優れた調査が行われたにも関わらず、蝦夷は、長きに渡って「謎の土地」となっていることを述べています。編者は、こうした状況にあって、実際に蝦夷に足を踏み入れたものによる報告は珠玉の価値を有するに違いないと述べ、それがまさに本書に収められた2つの「蝦夷記」であると述べています。そして、これらは、ティツィングが江戸と長崎滞在中に収集した膨大な日本の書物コレクションの中の2つの書物のフランス語訳であることを説明しています。一つは、勘右衛門(Kannemon)によって宝暦2年(seconde année du Nengo Foreki, ou en 1652)に出版されたもの(ただし、西暦1652年とあるのは1752年の間違い)で、これはおそらく蝦夷通詞であった勘右衛門による談話を松宮観山が筆写した『蝦夷談筆記』のことではないかと思われます(ただし店主は1752年の刊本は確認できず)。もう一つは、新井筑後(Araï-Tsikogo)、すなわち新井白石による1720年の書物とあり、これは『蝦夷志』のことを指しているものと思われます。編者は、いずれの文献も、学識豊富かつ実際に蝦夷を訪れた人物によるもので非常に重要であると述べています。特にヨーロッパの学者にとっては、日本という、ヨーロッパ人と極めて異なる文明の基準に基づいて、日本の2人の学者が、これまでほとんどヨーロッパ人に知られていない蝦夷をどのように解釈しているのかを知ることは極めて興味深いことに違いないと述べています。

 この2つの「蝦夷記」はティツィングが生前にフランス語に翻訳し終えていましたが、(ティツィングの死後その蔵書の一部の譲渡に協力した)フランスの東洋学者ラングレ(Louis-Mathieu Langlees, 1763 - 1824)によると、ティツィングは生前これらを、この雑誌『地理と歴史の航海年代記』に掲載することを望んでいたということも序文では述べられており、こうしたティツィングの生前の遺志に応える形で本書に掲載する旨が述べられています。

 『蝦夷談筆記』の翻訳と思われるものは、「蝦夷記、あるいは蝦夷ヶ島の記録、シャクシャインの反乱についての覚書を付す。通詞勘右衛門によって編纂され、宝暦年間、第2の年の8月、すなわち1652年に出版されもの(IESO-KI, ou Description del île d’Iesso, avec une Notice sur la révolte de Samsay-in, composée par l’interprète KANNEMON, et publié le huitième mois de la seconde année du Nengo Forekki ou en 1652.)」という題がつけられています。ここでは、蝦夷の成り立ちや、江戸幕府の松前藩との関係とその歴史などが説明されていて、頼朝に追われた義経が江戸に渡ったという伝説の類も説明されています。また、アイヌ語と日本語の語彙集も収録されており、そこにフランス語が追加されていて、仏和アイヌ語彙集となっています。後半ではシャクシャイン(SAMSAY-IN)による蜂起についても解説されていて、蜂起に至る歴史的経緯や事件の推移、結果などが論じられています。

 『蝦夷志』の翻訳と思われるものは、「蝦夷記、あるいは蝦夷の記録、将軍綱吉の教師である新井筑後守による(Jeso-Ki, ou Description de Iesso ; par Araï Tzikoego-no-Kami, précepteur du Zjogoen Tsoena Josi)」という題がつけられています。『蝦夷志』は和人による体系的な蝦夷の地誌として知られていますが、序文において編者は、本書の内容をたたえつつも、10世紀のイスラム世界を代表する地理学者イブン・ハウカル(Ibn Haukal)を引き合いに出して、新井が彼のように緯度、経度についての知識を持ち合わせていたならば、より一層優れた作品になったであろうことを惜しんでいます。

 ティツィングによってフランス語に訳され、本書に収録された2つの「蝦夷記」は、日本語原著との比較によって、ティツィング自身による加筆修正の有無や異同の研究が待たれる非常に興味深いものです。また、18世紀末の日本において優れた蝦夷の記録とみなされていた文献が、すでに19世紀初めにおいてヨーロッパ紹介されていたことによる影響なども興味深い研究テーマと言えるでしょう。

 また、本書には「蝦夷記」に続いて、上述したティツィングのコレクションの一部の目録が掲載されています。彼が遺した膨大な日本コレクションは、ティツィングの死後、次第に散逸していきますが、その足取りと現在の所在については、F・レクインによって明らかにされました(Leuin, Frank. A la recherché du Cabinet Titsingh. 2003)。それによると、ティツィングの日本コレクションは彼の遺志によって大英博物館に全て寄贈されるはずでしたが、死後その動きを察知したフランス政府によって国家財産として1812年に差し押さえられた後、1814年11月まで留められました。差し押さえが解かれたのちは、ティツィングの息子ウィリアムに返却されましたが、残念ながら彼自身はこのコレクションに対して興味を示さず、東洋学者で著名なラングレ(Louis Mathieu Langley, 1763 – 1824)の助言により、1818年、パリの出版社ヌヴーの元にその多く(全てではないことは彼の出版物に掲載されたティツィングコレクション目録の不十分さが示しています)がもたらされました。しかし、ヌヴーは数点のティツィングの作品を刊行した後1828年にあえなく破産、残されたコレクションは、ヌヴーによるティツィングの『歴代将軍譜』を編纂した東洋学者レミュザ(Jean Pierre Abel Remusat, 1788 – 1832)、同じく東洋学者で著名なドイツ人、クラプロート(Heinrich Julius von Klaproth, 1735 – 1835 彼自身もティツィングの遺稿に基づき『日本王代一覧』を1834年に刊行)にもたらされましたが、それらもクラプロートの死後1840年に彼の蔵書が売却され、次第に散逸し始めます。アルシュタイン男爵(Baron Pierre-Leopoldo van Alston, 1792 – 1862)がその多くを入手したことが記録されていますが、男爵の死後1863年に売りに出された際に、古書店主クォーリッチ(Bernard Quaritch, 1819 – 1899 現在もその名を継がれるロンドンの老舗古書店、シーボルト『日本』の再販でも著名)が、スコットランドの貴族リンジー伯爵(Alexander Lindsay, 25th Earl of Crawford and 8th Earl of Balcarres, 1812 – 1880)の図書館のために購入したことが確認されています。こうした数奇な運命を辿ったティツィングの日本コレクションは、その規模、収集範囲、学術的精度の点において、後年のシーボルトのそれに勝るとも劣らないものであったにもかかわらず、多くの国々に散逸してしまいました。

 本書に収められている記事は、後年散逸してしまうティツィングの比較的初期のコレクションの状態を知る貴重な手がかりになりうるものと思われます。ティツィングの死後に刊行された『日本風俗図誌(Cérémonies usités au Japon…1819)』には「ティツィング氏の遺稿についてのフランス出版業者ヌヴーの言葉」と題した出版社による小論が収録されており、本書記事に言及しています。

「結局、私はティチング氏の所有であった図画類、原稿類−日本語、オランダ語、フランス語、英語の原稿類全部とそのほか彼の所有であった珍しい品物若干を買い取ることができた。その目録はこの書物に乗せてある。これらの品物についての詳しい記事は、すでに1814年に「航海年代記」Annales des Voyagesの第24巻中に出してあるが、その冒頭には次のような言葉が付されている。

 『ティチング氏が集めたコレクションは、日本の新しい歴史−政治上、また市民生活上、地理学並びに自然上−の材料を与えてくれるものである。そのコレクションは、有益な知識の増加を切望する、すべての国の政府の注目をひく価値が十分ある。それは特に商業上、または政治上の利害関係から、日本と今以上に規則的な関係を樹立しようと希望する人々の注意をひくべきものである。イギリスやオランダ、あるいはロシアなどの諸国が、独力でこのコレクションを手に入れようとすることは疑う余地がないが、幸いにもそのコレクションは、自国の栄誉を失うまいと努力し、また、これらの貴重な資料が自国の言葉で文学上の記念塔を打ち建てるのに用いられるのを見たいと切望している、一フランス人の手中に帰している。』」
(「ティチング氏の遺稿についてのフランス出版業者ヌヴー氏の言葉」 沼田二郎訳 ティツィング『日本風俗図誌』所収より)

 なお、本書に日本に抑留されたロシア人ゴロウニンの帰還についての簡単な紹介記事も掲載されており、関係者らによる書物が刊行される前に、すでにヨーロッパで話題になっていたことをうかがい知ることのできる興味深い資料となっています。

巻全体のタイトルページ。
「蝦夷記」冒頭箇所。最初に編者による序文が掲載されている。
蝦夷通詞であった勘右衛門による談話を松宮観山が筆写した『蝦夷談筆記』のフランス語訳と思われるもの。
アイヌ語、日本語、フランス語の語彙集
シャクシャインの蜂起についても詳しく論じられている。
新井白石(筑後守)の『蝦夷志』のフランス語訳と思われるもの。新井白石の序文に続いて本文が訳出されている。
『蝦夷志』の中にも豊富な語彙集が収録されている。
「ティツィング日本コレクション概説」冒頭箇所。散逸の憂き目にあったティツィングのコレクションの初期の姿を知る手がかりとなりうる資料。
「日本から帰還したロシア人について速報」ゴローニン事件の速報として興味深い。