書籍目録

『浮世形六枚屏風:57枚の原著木版画のファクシミリからなる、ある日本の物語』

プフィッツマイヤー / 柳亭種彦

『浮世形六枚屏風:57枚の原著木版画のファクシミリからなる、ある日本の物語』

初版 1847年 ウィーン刊

Pfizmaier, August / Tanefiko, Riutei.

Sechs Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Welt. Ein japanischer Roman in Originaltexte stammt den Facsimiles von 57 japanischen Holzschnitten.

Wien, (Aus) der Kaiser. König. Hof- und Staats - Druckerei, 1847. <AB201947>

Sold

First edition.

14.5 cm x 23.5 cm, pp.[I(Half Title.)-III(Title.)-V], VI-XIV, [1], 2-40, 1 leaf(blank), 41 to 20 numbered (in Japanese) leaves, 1 leaf(Title. of 2nd vol.), 19 to 4 numbered (in Japanese) leaves, 3 leaves(introduction and 6 illustrated character introductions), 1 leaf(Title, of vol.1). Original ? blue cloth card bound.
旧蔵者の蔵書票あり。

Information

日本文学のヨーロッパにおける最初の翻訳と翻刻

 本書は、オーストリアの東洋学者、日本学者であるプフィッツマイヤー(August Pfizmaier, 1808 - 1887)が、1821年に柳亭種彦(Riutei Tanefiko)によって書かれた『浮世形六枚屏風』をドイツ語に訳しただけでなく、原著の挿絵を亜鉛版リトグラフ印刷によって再現し、特殊な連綿体活字を新たに作成して、筆文字の日本語テキストを再構成した、翻刻復刻版と合冊したものです。タイトルページに、「挿絵は原著と全く同じくして、印刷も可能な限り類似のものとし、紙、製本も日本の様式に依る(Die Abbildungen sind den japanischen Mustern vollkommen gleich, die Druckfarbe der Tusche möglichst ähnlich; Einband und Papier nach japanischem Vorbilde.)」とあるように、木版のテキスト、挿絵、用紙、製本に至るまで、原著の再現を試みたという極めて稀有な書物です。ヨーロッパにおける日本文学の本格的な翻訳と復刻として最初の作品と言われており、日本研究、印刷史の双方の観点において極めて重要とされている一冊です。

 プフィッツマイヤーは、シーボルトの弟子で当時のヨーロッパを代表する東洋学者であったホフマン(Johann Joseph Hoffmann, 1805 - 1878)とほぼ同世代の研究者で、「ホフマンが〈日本学の共同研究者〉といい、〈日本語、日本文学に関するフィッツマイエルの努力は世の認めるところ〉とのべて、後述のロニーと並び称揚している」(杉本つとむ『西洋人の日本語発見:外国人の日本語研究史』、講談社学術文庫版、2008年、277頁)人物です。1840年代から日本、日本語に関する研究論文を次々と発表しており、特に日本語、日本文学の研究には非常に精力的に取り組み、多くの成果を生み出しました。

 本書は、プフィッツマイヤーが、シーボルトが持ち帰った日本の書物の中の一冊を翻訳、翻刻したもので、プフィッツマイヤーの日本語研究と文学研究の双方において代表作と言えるものです。この点について、またシーボルト・コレクションとプフィッツマイヤーの日本学研究との関係について、ヨーゼフ・クライナー氏は下記のように述べています。

「文学的な日本学は1850年代、19世紀半ばごろから、ヴィーンで始まりました。その出発点になる資料は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがその第1回目の日本滞在中に収集した日本の書物のうち、約60冊を彼が1830年代にヴィーン帝室図書館に寄贈したものです。もちろん当時は誰もそれを読むことができなかったので、ただ本棚に入れておいたと思いますが、1840年代に入ると、プラハ大学医学部を卒業した医師、アウグスト・プフィッツマイヤー(August Pfizmaier)がヴィーンに現れます。この人は語学の天才で、既にプラハ大学時代にロシア語、トルコ語、ペルシャ語を身につけており、ヴィーンに来たときにシーボルトの残した約60冊の日本の書物と出合い、独学で日本語を勉強して、その1冊の翻訳に取り掛かったのです。
 プフィッツマイヤーがなぜ柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』という、今は日本でも誰も知らない戯作小説を選んだのかは分かりませんが、ひょっとしたら、それほど分厚くなくて難しいものではなかったからではないかと思います。いずれにしても、1847年、柳亭種彦が亡くなった2年後にドイツ語で出版し、さらに日本の原本もヴィーン大蔵省印刷局でそのために初めて草書の活字を作り印刷し、合本にして出版したのです。それが初めて外国語に翻訳された日本文学作品でした。あるドイツの文学雑誌の書評は、「日本の文学がこんなレベルであるのならば、それ以上知る必要はないであろう」という厳しい批判をしたのですが、それにもかかわらずベストセラーとなりました。そして、ドイツ語から英語訳、フランス語訳、イタリア語訳もできましたし(正確にはこれらは単純な重訳ではない:引用者注。この点については、佐藤文樹「『浮世形六枚屏風』の仏訳本」『ソフィア』1969年11月30日号所収を参照)、第二次世界大戦、ドイツ陸軍が同盟国日本を理解するために『浮世形六枚屏風』のドイツ語訳を再版(1942年のKranich版のことか:引用者注)して、兵士に配っていたのです。
 プフィッツマイヤーは独学で日本語を身につけたので、和独辞典も手掛けました。それが1851年に出版された和独辞書『Wörterbuch der japanischen Sprache』です。先日たまたま神田の古本屋でこれを見たのですが、宣伝文には大きく「プフィッツマイヤーの世界で初めての和独辞典」と書いてありました。ただし、「イ」までです。「イ」はローマ字のアルファベットなら、完成度三分の一強と言ったところでしょうか。値段はそれに相当するくらいでした。ところが本物をみると、何と、「いろは」の「イ」でした。ですから、薄っぺらのものです。でも大変な苦労だった思います。プフィッツマイヤーはそれを基にして、明治12年に亡くなるまで、『万葉集』や『古事記』の一部を含む、日本の80ぐらいの文学作品の翻訳を成し遂げています。本当に日本学の事初めと言ってもいいのですが、そのバックグラウンドにフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの日本の文献のコレクションがあるのです。」
(ヨーゼフ・クライアー「シーボルト親子の日本コレクションとヨーロッパにおける日本研究」人間文化研究機構第27回公開講演・シンポジウム『没後150年シーボルトが紹介した日本文化』基調講演、『人間文化』第26号所収、2016年より)

 本書は、このように、ヨーロッパにおける日本語研究、日本文学研究の観点から非常に高く評価されている文献です。そのことに加えて、本書は、特殊な連綿体活字を新たに作成し、和本を模して用紙を袋とじにするという、途方も無い労力を費やしてまで完成にこぎつけた翻刻復刻版を収録している点において、印刷史、活字史の点からも極めて高い評価を受けています。

「本資料を紹介する上で特筆すべき点は、原本を復刻するのに、一枚の版木を彫って印刷する方法(木版印刷)ではなく、わざわざ絵の部分の版と文字の部分の版をそれぞれ分け、文字は筆書きの形に近い特殊な連綿体かな活字を用いて印刷している点であり、それを行なった西洋の発想です。なぜなら、活字は版を作る以前にあらかじめ量を作ってストックしておく必要があり、一次的な方法では済まない、非常に負担のかかる方法であるからです。もしこれが東洋であれば、原本と同様に木版によってコピーすることでしょう。
 文字と絵は異なる要素のもの、そして文字を操ることが真の文化理解に結びつくとも言いたげに、文字を活字化し、絵と分け手間をかけて翻刻する。これは思いのほかすごいことなのです。」
(印刷博物館ホームページ、「コレクション探訪、ウィーン版「浮世型六枚屏風」より)

 活字研究の点からの本書に対する詳細な言及は、小宮山博史氏による各種の優れた研究成果があり、毛筆の手書き日本語を再現するための活字作成を日本に先駆けて行なった本書に対する高い評価が与えられています。

「1847年、ウィーンの王立印刷所、K.K. Hof-und Staats Druckerei から Sechs Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Welt が刊行された。これは文政4(1821)年1月永寿堂が出版した柳亭種彦の『浮世型六枚屏風』の復刻である。序文で東洋学者アウグスト・フィッツマイヤー(Prizmaier, August)は「文政18年に江戸で出版されたもので、王立印刷所が収蔵しているものを beweglichen Typen gedruckt(可動活字印刷)で復刻した」と記している。また序文には「18. Jahre Monsei's (1821)」とあり、西暦は正しく表記されているが、日本の年号は間違っている(文政は13年までで18年はない)。
 この復刻版は、原版の手書き木版の印刷面を再現するために連綿体活字を採用していることが大きな特徴である。日本語の連綿体活字は1591年から1611年までの20年間に刊行された「きりしたん版」の活字が最初で、250余年をへたこのウィーン王立印刷所の連綿体活字がそれに次ぐ。フィッツマイヤーは同じ序文の中で「日本以外でいまだかつて作られたことのない日本語の活字」と、これを制作した印刷局長アロイス・アウエル(Aloys Auer)を賞賛しているが、確かに原版と遜色はないほどのできばえである。なお歌川豊国の絵は zinko-lithographirt(亜鉛版)によって再現されている。
手書き木版の印刷面を再現しようとするとき、活字の原則である一字種一字形では役に立たず、組版が煩雑になる一字種多字形と多種の活字幅を採用するほかない。ではウィーン版に使われた連綿体活字はどのくらい用意されたのか。(中略)
 総計845字である。漢字は別として手書き木版の原本に近づけるために平仮名で475字、片仮名で139字という膨大な字形を製作している。(中略)
 これだけの字種を駆使して原本と見まごうばかりの組版をするためには、日本語と日本文字に造詣の深い人物がいなければむずかしい。これをみてもヨーロッパにおける日本語学の水準の高さと、復刻に必要な印刷術と活字製造の優れた技術力が理解できるのである。」
(小宮山博史「ウィーン版『浮世型六枚屏風』の日本語活字」月刊『アジア遊学』第109号、2008年、勉誠出版所収、181-4頁)

 このように本書は、様々な角度から現在でも高く評価されている書物ですが、国内において比較的早い時期から注目が注がれてきました。刊行当時こそ、その存在が知られることがなかったものの、幕末から明治の初期にかけて、アメリカ東洋学会(American Oriental Society)誌(1849年)に掲載された英語での紹介(これについては、当店ホームページ内で紹介した、「ある日本の物語(柳亭種彦『浮世形六枚屏風』)について」「日本の仮名文字についての覚書」ほか『アメリカ東洋学会雑誌』第2巻所収、1851年 ニューヨーク / ロンドン刊を参照)をもとにした翻刻本が出されており、日本文学をヨーロッパに翻訳紹介した嚆矢として、研究者、書物愛好家から数多くの言及がなされてきています。

「柳亭種彦の凡作に過ぎない合巻臭草紙の『浮世型六枚屏風』(6巻)2冊物が、欧州諸国の言語に翻訳されて一頃彼土にもてはやされたこと程不思議な話はない。
 この草双紙は文政庚辰3年7月稿成り、翌年の辛巳4年正月の発刊であった。すなわち西暦1820年に出来て、陽暦では多分同年の末あたりに発売されたものと見てよい。シーボルトが来朝に先立つこと3年である。さればシーボルトが日本を去った天保元年の1830年には、この小説本を彼は和蘭に持って帰ることも出来た筈である。従って彼がホフマンとともに編輯刊行した蒐集目録のうちに、その書名を見出すのである。該書目は、ライデンに於て1845年すなわち弘化2年に出版されているが、かの小説は『鏡山』だの『お染久松』だの『妹背山』だの『一の谷嫩軍記』だの『忠臣蔵』だのという名作と共に将来されたのであった。
 シーボルトが本国に帰着したのは、1830年の7月7日であり、それから15年後の1845年に、『六枚屏風』は前記の書目に著録されたのであるが、更にそれより2年後の1847年すなわち弘化4年に当たる年に、それが澳国に於て独訳されたのである。
 その独訳者は、日本の言語文学等の研究率先者を以て名高い澳国のアウグスト・フィッツマイエルである。『万葉集』の歌を独訳したりアイヌの語学書を著したりしたのでも古くから日本にきこえている。」
(新村出「柳亭種彦が『浮世型六枚屏風』の欧訳」、初出『仏教文学』、1930年1月、『新村出全集』第7巻、1972年、筑摩書房、117頁より)

「今日、欧米では、日本文学書は、沢山、翻訳が出版され国文学史の刊行もだいぶん出ているが、八十有余年以前の日本文学翻訳の嚆矢本であるこの澳訳の一書は、その内容や、印刷や、体裁などから見て、当時の日欧交通史について種々の感興を惹起さしめるものがある。しかも後年、欧州各邦で、続々、この書の翻刻が刊行されたという事は、猶、一段の興味を覚えしめるのである。」
(亀田次郎「浮世型六枚屏風の澳訳本」伊藤長藏編『書物の趣味』第6冊、1930年所収、156頁より)

 このように早くから国内でも注目を浴びてきた本書ではありますが、おそらく途方もない手間とコストがかかることが原因で発行部数は決して多くなかったものと思われることから、日本国内で注目を集め始めた当時から既に極めて稀覯となっていたようです。それに加えて、数少ない貴重な国内所蔵本も関東大震災で消失してしまうという憂き目にあったことも災いして、現在でも国内の所蔵は極めて限られており、また海外の古書市場において出現することも滅多にありません。その意味でも、非常に状態の良い本書は、この早くから注目されてきたヨーロッパに日本文学を最初に翻訳したとされる記念すべき書物として、大変価値ある書物ということができるでしょう。


「武士道の規範とはおおよそ無縁な生き方をしたこの旗本が悲劇的最期をとげてから5年後の1847(弘化4)年、はるか西方のウィーンの「帝室・王室印刷局」から1冊の書物が出版された。この小型の本には、次のようなドイツ語の表題が掲げられていた。すなわち『浮世の6枚の屏風、原典及び日本木版画57葉を所載した日本小説、アウグスト・プフィッツマイヤー博士訳および発行』とある。このタイトルのなかに原典という文字があるが、これは決して誇張ではない。それというのも、この本は、左開き、右開きに前後二分され、左開きの前半部には独訳文が、そして右開きの後半部(逆に日本人には前半部となるが)には日本語原文および初代歌川豊国の貴重な挿画が模刻印刷されているからだ。オリジナルの種彦本にある変体仮名が、帝室・王室印刷局の献身的ともいえる精密無比な作業によって模刻されたのである。すなわち、平仮名文字が各部分部分に分解され、その部分ごとにそれぞれ金属活字が鋳造され、その各部分が印刷時にあらためて文字として繋ぎ合わされた。」

「(前略)百歩譲って原作の文学性は大時代としても、『浮世型六枚屏風』のプフィッツマイヤー訳はなんといっても日本文字が西欧語に翻刻された嚆矢であることにまちがいはない。それに、江戸後期にあたる同時のウィーンの人間プフィッツマイヤーには、日本の文学作品を手に入れることはきわめてむずかしかったのだ。
 アウグスト・プフィッツマイヤーは、柳亭種彦より25年後に生まれた同時代人である。したがってプフィッツマイヤーは、同時代の日本文学を、つまり独学で苦労して習得した日本語からリアルタイムでドイツ語に訳出したのである。」

「(前略)日本学者としてのプフィッツの名声を不動のものにしたのは、ほかならぬこの『浮世型六枚屏風』のドイツ語訳である。この翻訳が出版されると、それが契機となって英語訳(横浜、1867)イタリア語訳(フィレンツェ、1872)、それにフランス語版(ジュネーブ、1875)がつぎつぎに重訳出版された。そればかりかドイツでは、76年後の1923年、パウル・キュネールによる新訳 Asobi. Altjapanische Novellen がミュンヘンで刊行され、さらにその19年後、第二次大戦中の1942年にはアルフレート・リヒァルト・マイヤーによるプフィッツマイヤー訳のリライト版がドイツ軍用の小型判の本として出版された。こうして江戸の戯作者種彦は、プフィッツマイヤーによる日本語からの最初のドイツ語訳によってヨーロッパでは少なからぬ名声を得ることになった。」

(ヨーゼフ・クライナー / 安藤勉訳『江戸・東京の中のドイツ』講談社、2003年、59-62頁より)

シルクのような薄い布のカバーに覆われた厚紙製本。保存用の紙ケースが付属している。
見返し部分は表紙と同じような素材の黄色い布が貼られている。
旧蔵者の蔵書票
独文タイトルページ。
プフィッツマイヤーによる序文冒頭箇所。
柳亭種彦の序文冒頭箇所。
翻訳本文冒頭箇所。
反対側から開くことで、翻刻版の和文テキストを読むことができる。上掲は、上巻の表紙を翻刻したページ。
柳亭種彦による序文。
登場人物紹介。
翻刻本文冒頭箇所。原著をそのまま翻刻したように見えるが、テキストは金属活字によって全て再構成されており、原著とは、テキストの配置や量が異なる。
これだけの和文草書を金属活字で再現するには途方も無い労力と技術が必要である。
上巻末尾と下巻表題
下巻末尾。
和本を模して、全ての用紙を袋綴じにしてある。(独文テキストも同様の作り)