書籍目録

『日本の禁教令とヨーロッパへの日本使節団(岩倉使節団)』

パジェス

『日本の禁教令とヨーロッパへの日本使節団(岩倉使節団)』

1873年 パリ刊

Pagés, Léon.

LA PERSÉCUTION DES CHRÉTIENS AU JAPON ET L’AMBASSADE JAPONAISE EN EUROPE.

Paris, Georges Chamerot, 1873. <AB201916>

Sold

Large 8vo (16.0 cm x 24.5 cm), Half Title., Title., pp.[1], 2-64, Original paper wrappers.
一部封切りされていないUnopendの状態。

Information

条約改正を目指す岩倉使節団の最大の障害となった禁教令をめぐる歴史を日本学の権威パジェスが論じる

 1871年から1873年にかけて欧米諸国を歴訪したいわゆる「岩倉使節団」は、政府首脳自らが、西洋の最新の文物を直接学ぶとともに、明治政府の長年の悲願となる条約改正の糸口を探るべく、各国首脳との会談に臨みました。この時、条約改正交渉の最大の障害となったことが、日本の政府首脳が思いもよらなかったこと、すなわち明治政府によるキリスト教弾圧であったことはよく知られています。本書は、幕末から明治初期にかけて行われてきたキリスト教弾圧をめぐるフランスを中心とした欧米各国と幕府、政府との交渉の経緯と、岩倉使節団の関係について、使節がちょうどヨーロッパを歴訪中であった1873年に、フランスを代表する東洋学者、日本学者であったレオン・パジェス(Leon Pages, 1814-1886)によって刊行されたものです。

 パジェスは、外交官として北京で活躍するうちにザビエルらによる東洋宣教の歴史に関心を持ち、ヨーロッパ人による様々な日本研究文献に目を通し、当時を代表する日本学者として名を馳せました。フランス国立東洋語学校において最初の日本語講座が開設された際には、同じく日本学者として名を上げつつあった当時気鋭の若手学者ロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)と初代教授の座を争い、惜しくも敗れています。彼自身は一度も来日することはありませんでしたが、日本についての情報源が極めて乏しかった時代に研究を深めた日本学者としてのパジェスの功績は決して小さくありません。こうしたことから、彼による日本のキリスト教弾圧と欧米諸国との関係史、そして目下訪欧中の岩倉使節団との関係について記した本書は、この件に関する世論形成に大きな影響力を持ったことが伺えます。

 本書において、パジェスは日本におけるキリスト教弾圧が江戸幕府から続く長い歴史を有していることから論を始めています。そして、幕末に至って欧米各国との条約締結がなされたこと、特にフランスとの条約においては、教会その他キリスト教施設を日本国内に設けることが認められたことの意義を(こうした条項を盛り込まなかったオランダと比較する形で)強調しています。こうして、大浦天主堂に代表される教会をフランスが建築し、ここを舞台にしてヨーロッパのカソリック界を揺るがす大事件となった、1865年のいわゆる「信徒発見」事件について説明しています。そして、過酷な弾圧を耐え忍んでカソリックの教えが日本で継承されてきたことの奇跡的な意義を述べ、その後続々と日本の信徒が各地から大浦天主堂に集まってきた状況を報告しています。しかし、その一方で、江戸幕府によるキリスト教弾圧政策は依然として継続しており、1867年に幕府は長崎浦上の信徒の一斉捕縛と取り調べ(拷問)を行います。これに対して、各国外交官は幕府を強く非難し、カソリック国を代表するフランス公使ロッシュ(Léon Roches, 1809 - 1900)が幕府(徳川慶喜)に正式な抗議の申し入れと交渉が行われることになりました。パジェスは、フランス以外のプロテスタント諸国も同じキリスト教を重んじる信仰心から、幕府を強く批判したのに対して、肝心のロッシュは極めて不十分な対応を取ったことを非難しており、ロッシュの当時の煮え切らない対応の背景には、彼が幕府の延命させることを最重視していたこと、彼が前任地のアフリカ時代にムスリムになったことがあったこと、を挙げ、いずれにせよキリスト教の教えに背く、恥ずべき振る舞いであったと厳しく批判しています。

 パジェスは、1868年に江戸幕府が瓦解し、明治政府になってからもキリスト教弾圧が依然として明確な意思を持って継続されてきたことを、「五榜の掲示」にキリスト教を厳禁し、密告者に報酬を与える内容が示されていたことがその証左であるとして具体的に指摘し、明治政府がこれを根拠にして、旧幕時代に捕縛していた浦上の信徒の流刑を決定したことを批判的に述べています。この明治政府の決定に対して、英国公使パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828 - 1885)を中心とした抗議が行われ、各国公使と澤宣嘉や岩倉具視ら政府首脳との会談が持たれたことを、激しい議論の応酬を記録した議事録を引用しながら説明しています。この時の議論において、各国公使が求めるキリスト教に対する寛容政策と、明治政府が許容し得ると考えていた寛容政策との乖離が甚だしいことが改めて浮き彫りになったことを述べており、ここから明治政府が依然として保持しているキリスト教に対する根強い偏見と、それに基づく弾圧姿勢の内実を明らかにしています。

 そして、こうした明治政府によるキリスト教弾圧に中心的な役割を持って関与してきた人物が、目下ヨーロッパを歴訪中の岩倉具視であり、この問題を看過しての条約改正交渉はあり得ないことを述べています。パジェスの論は、現代の視点から見れば批判されるべき植民地主義的な側面があることは否定できませんが、常に具体的な事件と歴史的経緯を公文書や当時の新聞、雑誌などの根拠で裏付けしながら展開されており、非常に説得力があったように見受けられます。本書は、64ページの小冊子とはいえ、この問題を中心的に論じた、しかも日本学者として高い見識が認められていた人物によって、極めて明瞭且つ説得力のある論旨でもって展開された、明治政府による禁教政策批判であり、おそらくこの問題を巡る議論の方向性を決定づける大きな一因となったものと思われます。

 本書は、現存部数が極めて少ないようで、国内研究機関では、上智大学キリシタン文庫、国会図書館にしか、その所蔵を確認することができません。そのため、岩倉使節団の条約改正交渉において禁教令が最大の問題となったことを論ずる研究においても、あまり知られてこなかった文献ではないかと思われます。本書は、上述のようにパジェスという極めて名高い日本学者によって、説得的に展開された明治政府による禁教令批判であることから、この問題を論じるに際して、欠かすことのできない重要文献であると言えます。

タイトルページ。
フランス公使ロッシュと幕府、フランス本国、そして「信徒発見」の当事者でもあったプチジャン神父(Bernard-Thadee Petijean, 1829 - 1884)との書簡のやり取りがパジェスによる解釈とともに詳しく掲載されている。パジェスはロッシュの幕府寄りの姿勢を痛烈に批判しているようである。
幕末に確認された信徒数なども掲載している。
各国公使と澤宣嘉や岩倉具視ら政府首脳らとの間で繰り広げられた激しい議論の応酬を議事録を引用して紹介している。
わずか65ページほどの小冊子だが、岩倉使節団の条約改正交渉が禁教令をめぐる欧米化各国の批判により挫折することになる経緯を研究する上で、欠かせない重要文献と思われる。