書籍目録

『外国人の目から見た日本と日本人:日露戦争の勃発に先んじて』

河上清

『外国人の目から見た日本と日本人:日露戦争の勃発に先んじて』

初版 1905年 東京刊

Kawakami, Karl Kiyoshi(ed.)

JAPAN AND THE JAPANESE AS SEEN BY FOREIGNER PRIOR TO THE BEGINNING OF THE RUSSO-JAPANESE WAR.

Tokyo, Keiseisha(警醒社書店), 明治38年9月11日印刷 / 13日発行. <AB20191>

Sold

First edition.

12.5 cm x 19.0 cm, pp.[I(Title.)-V), VI-XVI, [1], 2-230, 1 leaf(colophon / advertisement), Original pictorial cloth.
アメリカの神学校(Meadville Theological School)旧蔵書のため見返しにラベルの貼付とタイトルページにパンチング、背表紙に配下番号の記入あり。

Information

異色の国際ジャーナリストとして活躍した「カール・カワカミ」が編纂した西洋人識者による日本論集

 本書は、幕末から明治期にかけて日本を訪れた外国人による日本論を編纂したもので、1905年(明治38年)という日露戦争期にアメリカ在住の日本出身ジャーナリストが編纂したという大変ユニークな書物です。著者の河上清は、萬朝報の論説委員を務めた後、1901年単身渡米し、以後はアメリカのジャーナリズム界の中枢で活躍し続けたという異色の明治生まれの言論人です。ハーン(小泉八雲、Patrick Lafcadio Hearn, 1850 - 1904)やシドモア(Eliza Ruhmah Scidmore, 1856 - 1928)、オールコック(Rutherford Alcok, 1809 - 1897)、ディオシー(Arthur Diósy, 1856 - 1923)、ブリンクリー(Francis Brinkley, 1841 - 1912)、チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain, 1869 - 1940)、アストン(William George Aston, 1841 - 1911)、グリフィス(William Elliot Griffis, 1843 - 1928)といった多彩な執筆者による様々な分野における日本についての論考を河上自身の視点で編纂しており、日本に対して好意的であるか否かを問わず、国際社会における明治日本の現状を省みるために有用と思われる鋭い考察が厳選して掲載されています。

 本書が非常にユニークなのは、当時多くの外国人が幕末、明治日本についての言説を発表していた中で、逆に日本から見た立場において、こうした言説を冷静に洞察しながら編纂されている点にあります。アメリカで厳しい人種差別の状況を身を以て体験していた河上は、外国の識者による日本賛美は、そこから学ぶべきものが多々あると同時に、それらが国際社会における日本の現実的な地位向上を決して意味しているわけではないことも、冷静に捉えようとしています。その上で、こうした言説から、今後日本社会がどのような視野を持って未来を切り開いていくべきかを考えるためのヒントを引き出そうとしています。

「本書を紐解く日本の読者が、外国人の日本賛美において発せられた賞賛を裏付けるような現実が、本当に存在するか否かについて洞察するのではなく、日本は西洋諸国の文明を遥かに凌ぐに至った、などど不注意にも自惚れることに甘んじ、その結果、最も遺憾とすべき類の傲慢、すなわち国家的自己中心癖あるいは狂信的愛国主義、そして偏見へと身を落とすのであれば、私は大いに失望して余りあるにちがいない。」(本書序文7頁)

 河上自身は情熱的な論調の言論家として知られていますが、本書の序文に見られるような、彼のこうした冷静な眼差しは、明治日本を生きた言論人が英語で発表したものとしては注目すべきものと言えるでしょう。

 河上清は、米沢藩の下級士族の子として生まれ、会津戦争で没落した生家の生計を苦心して支えていた家族の援助を受けて東京に学びながら執筆活動を開始、瞬く間に頭角を表し萬朝報論説委員に抜擢されます。キリスト教社会主義の強い影響を受けて言論活動を勢力的に展開(彼がアメリカで用いたミドルネームKarlはカール・マルクスに由来)しますが、社会民主党の解散命令を受けて日本での活動を休止して、1901年に単身渡米します。アメリカではアイオワ大学政治学部で学びながら、萬朝報にも寄稿を続け、完成させた修士論文『現代日本の政治思想(The Political Ideas of Modern Japan. 1903)は、極めて高い評価を受け、アイオワ大学出版会から単行本として刊行されています。アイオワ大学修了後は、ウィスコンシン大学へと移って経済学を学び始めますが、ここで体調を崩して、1903年にシアトルへと療養のために移ることを余儀なくされます。本書は、この療養期に編纂されたものです。

 本書編纂後に療養を終えた河上はアメリカ各地の新聞、雑誌に英文記事を寄港する活動を勢力的に開始し、ワシントンに移住した1923年には、アメリカのジャーナリズム界ではその名を知らぬ者はいないと言われるほど、当時日本からアメリカに渡った人物としては異色の在米ジャーナリストとなっています。国際社会において日本の政策が十分に理解されないままに批判されているのは、日本の言論による対外発信があまりにも貧弱であるからだという強い危機感を抱いていたと言われ、当時の日本においてメディア戦略の重要性にいち早く気づいていた数少ない人物だったと言えます。日本の社会、政治動向を批判的に考察しつつも、基本的には日本の大陸侵攻政策を擁護するスタンスに立って、膨大な英語記事を全米を代表する新聞、雑誌に書き続け、アメリカにおける日本の対外スポークスマンとまで見なされるようになりました。

 開戦直前まで日独伊の防共協定を批判し、アメリカとの戦争回避を強く主張し続けたにも関わらず、太平洋戦争勃発後、河上は日本のプロパガンティストとの疑いをかけられ厳しい管理下に置かれることになります。アメリカ当局者による取り調べにおいて、「この戦争の意義をどう考えるか」と尋問された際、この戦争は武力衝突というよりも思想革命としての戦争であると答え、その根幹にある思想が「アジア人のアジア」であり、「アジア人を支配し搾取する白色人種の”神権”に対する挑戦」がこの戦争の根底にある、と答えたとされています。
 ただし、「日本の軍閥がこの『アジア人のアジア』という思想を口実にみずからの過度の野心を満たそうとしてることは非難されるべき」とも述べ、「この戦争に日本は勝てないでしょう。だがたとえ日本が滅びても『アジア人のアジア』という思想や主義は厳然と残るでしょう。そして戦後、オランダ領のインドネシアも、イギリスのインドもビルマも、フランス領のインドシナも必ず独立するでしょう。」と熱弁を振るい、最後に尋問官から「日本はこの戦争に勝つべきか否か」と問われると、河上は、「私は『アジア人のアジア』主義を実現するためには日本が負けなければならないと信じます。日本は貧乏国であるため、占領したアジアの国々に対しどうしても搾取政策をとることになり、諸国の真の独立自立を助けることにはならないからです」と言い切ったたとされています(古森義久『嵐に書く:日米の半世紀を生きたジャーナリスト』講談社、1990年(文庫版)270-272頁を引用、参照)。この回答には、西洋によるアジア侵略に象徴される帝国主義政策を強く批判する一方で、それを克服すべき立場であるはずの日本が、同じ轍を踏んでしまったことへの激しい批判も躊躇しないという、河上の一貫する主張があったと思われます。

 しかしながら、こうした戦中の言説は、それまでの日本擁護から転向して開戦後にアメリカに阿った日和見発言であるとも非難され、戦後はアメリカでの言論活動もごく限られたものになってしまいました。他方、日本からの要望に応え、『米ソ戦わば? 祖国日本に訴う』(1949年)を日本語で刊行し、当時のベストセラーとなっています。
 
 河上清に対する評価はこのように極めて毀誉褒貶が激しく、そのことも災いしてか現在ではその名を知る人はほとんどいませんが、明治時代に単身でアメリカに渡り、当地で活躍し続けた異色のジャーナリストとしての先駆性は、注目に値すべきものであると思われます。本書は、西洋人識者による日本言説を、「観られる」立場にあった日本から、「観る」立場にあった西洋人の視点を逆照射して、日本社会のあるべき未来を構想しようとした、明治の国際ジャーナリストによる稀有な書物として、いまなお学ぶべきところがある文献と言えます。


「清は療養の日々をすべてのんびりと過ごしたわけではなかった。その間に「日本と日本人」という一冊の英文の本を編集していた。西洋の識者たちが明治の日本をどう見ていたのか、エッセーや見聞録を集めた230ページほどの書である。(中略)
 その本にはアンドリュー・カーネギー、B・H・チェンバレン、ラフカディオ・ハーン、イサベラ・バード、エドワード・モースといった欧米の学者、宣教師、実業家などの英語の日本論や日本見聞記を70本ほど盛り込んでいた。「アジアの模範生」「科学的ではなく芸術的な日本人」「裸身への無関心」「もっとも矛盾した人種」「武士道の本質」「日本女性の不貞」「日本の商人はなぜ非道徳か」といったタイトルの論文、エッセー集である。
 日本への礼賛、非難あれこれだが、いま読んでも深くうなずかされる鋭い考察も少なくない。外国からどう見られるかという、日本人にとっていわば永遠にピリピリとさせられる命題を、80年も前にこうした手法でさっと1冊の本にまとめた清の着想はやはりとびぬけた才からであろう。
 読者は日本で英語を学ぶ青年たちとして、東京の警醒社書店から1905年(明治38年)に出版されている。清が英語で書いた序文がこれまた現代にも通用するほど冷徹だった。外国からの賞賛には日本を数段、低くおいたうえでの、”サクラの花と富士山”式のほめ言葉が多いから、日本は西洋より優れているなどと信じるのは危険だし、その一方、批判や非難は無視したり、反発せずに冷静に考えてみることが必要だ−と説いたのである。」
(古森義久『嵐に書く:日米の半世紀を生きたジャーナリスト』講談社、1990年(文庫版)149,150頁より)