書籍目録

「紀元二千五百三十七年 西海道全図」

陸軍参謀局

「紀元二千五百三十七年 西海道全図」

石版刷と銅板刷との2枚セット 1877年(明治十年四月) (東京刊)

<AB2018217>

Sold

folded 2 maps, ①銅板刷:117.5 cm x 157.7 cm(折畳時:20.0 cm x 30.0 cm) / ②石版刷:121.0 cm x 157.0 cm(折畳時:18.8 cm x 30.8 cm),
和紙をつなぎ合わせて大判の地図としているため、接合部分の糊に剥がれが生じている箇所あり。

Information

西南戦争勃発を受けて伊能中図を元に急遽作成された九州全図

 本図はその名が示す通り「西海道」すなわち、九州を描いた大型の地図で、伊能中図を元に国絵図で地名を補う形で作成された、1/216,000縮尺の地図です。1877年の西南戦争勃発を受けて、陸軍省参謀局において急遽作成されたという非常に興味深い政治的背景を有する地図で、同じように見える地図が2枚あるのは、石版刷と銅板刷という異なる印刷技法を用いて2種類が作成されていたことによります。石版刷と銅板刷の2種類の地図が存在するということは、軍用地図、海図、紙幣印刷といった明治初期の日本社会の多方面において極めて重要な役割を果たした印刷技術の発展史の足跡を物語っており、明治初期の官製印刷史の観点からも大変興味深いものです。

 西南戦争の勃発に際して、何よりもその必要性が痛感されたのは、戦地となった九州の正確な地図でしたが、近代的な測量方法でもって作成された地図は当時まだ存在しておらず、急場を凌ぐために伊能中図を元に本図が作成されました。本図の特徴について調べた小論である清水靖夫氏の「明治十年西海道全図について」(日本地理学会『地図』第5号(2)、1967)によりますと、「(前略)骨子は伊能図から採り、道路・集落等は県あるいは幕府の国絵図などから採ったことが知れる。地形はケバで示されており、交通路は郵便(主要道路)と道路(普通道路)とに分け紅の2本あるいは1本の線で示し、これは凸版(木版)によって加刷され、道路に沿って紅文字で、里程が示され、収録は人口別にそれぞれ1000以下〜10000以上まで第2図(下掲写真参照)のように区分され、そのうち郵便所はその記号の中を紅の平行斜線を用いて区分している。他に電信局も示されている。
 経度は京都零度を用い、九州図であっても中央部の子午線は右上より左下にむかって若干傾いておりこれも伊能の中図の特徴があらわれている」(同論文88頁)とされています。既存の地図資料を最大限に生かして火急の要請に応えようと苦心して作成された地図であることが伺え、同時期には「薩摩大隅日向三国図」や「鹿児島実測図」なども作成されています。

 実戦上においては、時期的にも地図としても本図はあまり有効に活用されなかったようですが、このことが契機ともなって参謀局は陸軍から天皇直属の参謀本部となり、全国測量と地図作成を精力的に行なっていくことになります。本図作成直後に刊行された、本図と同じ縮尺である「軍管図」(全国に配備されていた陸軍の全6軍官を1/216,000縮尺の地図としたもの)や、後年長い年月をかけて順次完成させていった1/20,000縮尺の迅速測図などは、こうした系譜上にある陸軍系の地図ということができます(菱山剛秀「明治時代の伊能図の利用と地理空間情報」日本国際地図学会第42回地方大会(北九州)講演要旨、2008年参照)。

 また、本図は印刷技法、製図様式の点においても大変興味深い特徴を有する地図でもあります。清水氏の前掲論文では「陸地測量部沿革誌中にあるのは、石版刷とあり、これは明らかにこの九州(西海道)図を指すものであるが、(清水氏が実見した地図は;引用者註)銅板刷であり、石版ではない。しかしあるいは、戦略用に石版刷を出版したかも知れないが、現在までのところ実見していない」と書かれていますが、清水氏が推察したように、ここでご紹介している2枚の地図が、参謀局で銅板と石版の双方で同じ地図を作成していたことを物語っています。陸軍における近代印刷技術の導入は非常に早く、しかも当時最新の印刷技術であった石版印刷から始められていることにその特徴を見い出すことができます。

「陸軍は、明治16年にドイツ式へと転換するまで組織や教育などのすべてをフランス軍に倣っていた。フランス式の地図では地形を表すのに実景スケッチがとりいれられたため、兵学寮の士官学校や教導団では画学教育が行われていた。そこで用いる教材を製作する必要から陸軍の石版の研究は始まった。一方諜報活動や地図製作を専門に行う参謀局でもまた石版術が行われていた。この双方に関わって石版研究の成果を上げたのが洋画家川上冬崖である。
 開成所で西洋画を教えていた冬崖は、明治5年(1872)10月から陸軍兵学寮に出仕している。当時兵学寮にはプロシャのオイレンブルク伯の使節団が幕府に献上した石版印刷機が使われぬまま眠っていたが、この機械は静岡の沼津兵学校が明治4年(1871)に兵学寮の直轄となったのに伴い沼津から移されたものだった。冬崖や弟子の小山正太郎が機械の組み立てから試行錯誤を重ね、お雇い外国人に質問を重ねるなどして石版印刷に成功したのは明治6年(1873)のことであった。この年の3月には陸軍省の組織改訂が行われ、石版印刷は兵史の収集や地図製作、印刷と写真業務を行う第六局(明治7年参謀局に改変)に移管されるが、冬崖も同年6月に第六局に異動して研究を続けた。」

(川野実ほか編『描かれた明治ニッポン〜石版画[リトグラフ]の時代〜展図録』描かれた明治ニッポン展実行委員会、2002年、26頁)(*ただし、引用文中で川上冬崖が異動したとされる「第六局」は第五局の誤りと思われる。第六局は主に測量を担当し、その成果を製図印刷するのが第五局の役割であった;引用者註)

 本図には川上冬崖の名前こそありませんが、彼とその弟子たちによる石版印刷技術が本図の石版刷に活かされたことが推察されます。しかしながら、非常に細やかな線を鮮明に印刷する必要がある地図印刷において、当時の参謀局の石版印刷技術は十分でなかったようで、銅板刷のものと比べると陰影がはっきりしておらず、より不鮮明な印象を受ける出来栄えとなっています。陸軍では本図刊行までに石版印刷を用いた出版を多数行っていましたが、地図印刷に用いたのは本図が最初とも言われており、最初期の試みとして苦労した痕跡が本図から見て取れます。陸軍における銅板印刷技術の導入は石版よりも後年でしたが、少なくとも本図作成時点においては、こと地図作成に関する限り銅板印刷の方が高い技術水準にあったことが石版刷、銅板刷2種の比較から伺えます。とはいえ、海軍における石版印刷による地図刊行の試みが始められたのは、ようやく1880年頃になってからとされています(その頃の海軍側の記録として「当時すでに石版施設のあった陸軍参謀本部に伝習を依頼したが、なお研究中とのことであったので、その技術習得には困難であった。」という記述があります。(海上保安庁水路部編『日本水路史』日本水路協会、1971年、65,66頁))ので、地図作成に石版刷を用いる先駆的な試みとしては相当に早い時期の作品と言えます。印刷に用いられている用紙も印刷方式の違いに応じて異なっており、いずれも和紙に印刷されていますが、石版刷の地図の方がより厚みのある用紙が用いられています。また、銅板刷、石版刷のいずれであっても大図積の地図を印刷できるような原版を作成することは当時の技術水準では不可能だったものと思われ、いずれの地図もA4大ほどの和紙を細かく繋ぎ合わせることで1枚の地図となるように作成されています。

 西南戦争という明治政府にとって未曾有の危機に対峙するために急遽作成されたという政治的背景を有し、石版刷と銅板刷の2種類によって作成されたという印刷技術史の一コマを物語る本図は、明治初期の官製地図として非常に重要な地図ではないかと思われます。

 なお、本図も含めたフランス式地図作成に精通した川上冬崖ら、明治初期の参謀局において活躍した主要人物達の多くは本図刊行から間もない1881年に相次いで不審な死を遂げるという悲劇的な運命をたどることになりました。これには、陸軍をそれまでのフランス軍制からドイツ軍制に変更することを目論んだ桂太郎の思惑や、本図を含めた西南戦争時に作成された地図の出来栄えに強い不満を持っていたとされる山県有朋の意向が背景にあったとも言われていますが、確かなことはわかっていません。いずれにせよ1871年を契機としてフランス式地図製作技術の向上に貢献した主要人物のほとんどが一掃され、地図製作のみならず軍制全般がドイツ式へと急激に変更されていくことになります(参照:長岡正利「明治草創期、政府測量機関での暗闘」日本測量協会『測量』2004年6月号所収)。そうした意味においても、それ以降に陸軍系統で作成された地図とは一線を画する地図として、本図は特異な意義を有する史料ということができるものと思われます。

  • ①銅板刷折畳時の題箋
  • ②石版刷折畳時の題箋
①銅板刷全体
②石版刷全体
①銅板刷上部
②石版刷上部
①銅板刷下部
②石版刷下部
①銅板刷題字部分
②石版刷題字部分
①銅板刷符号(凡例)
②石版刷符号(凡例)
①銅板刷鹿児島市街図(図中都市図)
②石版刷鹿児島市街図(図中都市図)
①銅板刷熊本市街図(図中都市図)
②石版刷熊本市街図(図中都市図)
①銅板刷屋久島、種子島(図中島嶼図)
②石版刷屋久島、種子島(図中島嶼図)
①銅板刷五島列島図(図中島嶼図)
②石版刷五島列島図(図中島嶼図)
①銅板刷壱岐・対馬(図中島嶼図)
②石版刷壱岐・対馬(図中島嶼図)
①銅板刷鹿児島近辺
②石版刷鹿児島近辺