書籍目録

『模範とすべき日本の殉教者、アセンシオンの驚くべき生涯』

アルカラ / (日本二十六聖人殉教事件)

『模範とすべき日本の殉教者、アセンシオンの驚くべき生涯』

1739年 マドリッド刊

Alcara, Marcos de.

VIDA MARAVILIOSA DE SAN MARTIN DE LA ASCENSION, Y A GUIRRE, PROTO-MARTYR DEL JAPON,...

Madrid, Fernandez, M.DC.XXXIX.(1639). <AB2018213>

Reserved

4to (15.0 cm x 20.0 cm), Title., 55 leaves, Front., pp.1-312, 8 leaves, Contemporary parchment.
本体と表紙革との接合が外れかけている状態。テキストブロック自体の綴じの状態は良好。ところどころシミ、ヤケが見られる。

Information

「日本二十六聖人殉教事件」で犠牲となったフランシスコ会士アセンシオンの詳細な伝記と関係者の証言等で構成された事件の一級資料

 本書は、いわゆる「二十六聖人殉教事件」において犠牲となったアセンシオン(Martín de la Ascensión, 1566? - 1597)の伝記で、殉教を遂げることになった日本での布教活動と殉教前後の出来事を詳細に記していることから、日本関係欧文史料としても非常に重要な文献です。

 大航海時代においてポルトガルとスペインはその覇権を競って世界各地に航海と同時に宣教活動を精力的に行いましたが、1494年のトルデシャリス条約、1529年のサラゴサ条約において、世界を東西に恣意的に分割することで両国の直接的な衝突の回避が試みられました。この条約に準じてポルトガルはゴア、マカオを東インド進出の拠点とし、一方スペインはメキシコに進出し、そこから太平洋を渡って1543年にフィリピンに到達します。1565年にはフィリピンから日本沿岸まで北上して再びメキシコのアカプルコに帰還する太平洋東航路が発見されたことにより、メキシコとフィリピンとを結ぶ安定的な航路が確立することになり、ガレオン船による活発な交流が始まります。1570年にはスペインによるフィリピンの占領がなされ、同地はスペインの東インドにおける拠点地として栄えるようになります。

 こうしたポルトガル、スペインの動きに呼応する形で、托鉢系修道会によるカソリック宣教運動も展開することになり、ポルトガルと強い結びつきを有していたイエズス会は、東インド宣教の拠点をゴアとマカオに定め、それ以外のフランシスコ会をはじめとする修道会は、スペインの東インド政策の拠点となったマニラを活動の中心地とするようになりました。1585年に天正遣欧使節が謁見を果たした教皇グレゴリオ13世によって、日本における布教活動はイエズス会が独占して当たることを定めた小勅書が出されたことにより、スペイン系のフランシスコ会は日本への渡航と布教活動を事実上禁じられることになりますが、秀吉による日本からマニラ総督への高圧的な外交交渉が進展する不穏な空気の中で、外交使節の名目で日本に送られたフランシスコ会士バウティスタ(Pedro Bautista, 1546 - 1597]は、日本滞在中の1594年に京都で教会と修道院を建設し、続いて大阪にも修道院を新築、長崎にも赴いて、日本で公然と布教活動を開始します。また、バウティスタの日本宣教を報告する書簡を受けて新たにフランシスコ会士がマニラから3人到着するなど、グレゴリオ13世の勅書、何より秀吉のバテレン追放令に正面から反する形で、フランシスコ会の日本における活動が精力的に展開されます。これに対して、イエズス会を始め日本のキリシタン大名筋は、秀吉の逆鱗に触れることを警戒してフランシスコ会に自重を求めますが、両者の溝は埋まることはなく亀裂が広まっていくことになります。

 こうした緊張感が極めて高まっていた時期に、マニラからメキシコに向けて出航したサン・フェリペ号が日本近海で難波し、土佐に漂着するという事件が生じます。このサン・フェリペ号にはメキシコに帰国を予定していたフランシスコ会士らも同船しており、このことが、関係者の様々な思惑とともに秀吉に伝えられたことで、秀吉はこの間交渉を続けていたスペインが宣教師を派遣することを皮切りにして日本征服を企んでいるものと結論づけ、日本で意に反して宣教活動を行なっていたフランシスコ会士の処刑を命じるに至り、これにより、アセンシオンを含むフランシスコ会士6名ら26名が長崎に送られて処刑されるという「26聖人殉教事件」が引き起こされることになりました。

 本書では、この事件で犠牲となったアセンシオンの生涯と、その後の彼と事件をめぐるヨーロッパにおける考証や議論の進展が、数多くの先行史料を用いながら記されています。献辞や推薦文、出版許可文、参考文献・史料一覧、序文などからなる非常に長い前書きに始まり、アセンシオンの殉教の場面を象徴的に描いた口絵銅版画を挟んで、二部から構成される本文テキストが収録されています。第一部では、アセンシオンの生涯をたどりながら、彼が遭遇した様々な出来事や事件、事蹟などが描かれています。ここで主なハイライトとなっているのは、当然日本での勢力的な布教活動と殉教事件で、100頁以降の記述はほぼこれらの出来事を記すために当てられています。ここには、アセンシオンが認めた様々な書簡や事件関係者の証言や書簡といった、重要な関連史料も豊富に収録されており、単にアセンシオンの生涯についての情報を得られるだけでなく、事件の関連史料としても用いることができます。また、こうした本書の叙述方針は、著者が本書執筆にあたって数多くの史料を用いながら(フランシスコ会の立場という制約があるにせよ)立体的な記述に努めようとしたことが伺えます。また、事件から30年後の1627年にアセンシオンを含む殉教者26人は、福者としてウルヴァノ8世によって列福されていますが、本書にはこの際の祝辞なども引用して掲載されていて、事件までの経過だけでなく、その後ヨーロッパにおいて事件がどのように受け止められ、評価されたかについても時系列に沿って知ることができるようになっています。第二部は、アセンシオンの出生と生涯に関する史料や証言など、重要な事実関係を証する史料を整理したもので、これは、彼の出生地や事績を巡って当時疑念を持つ者や議論が少なからずあったことが推察されます。アセンシオンは、来日以前のマニラ滞在期に日本におけるイエズス会の布教活動を非常に厳しく批判する文書を作成してローマに送っており、これに対してイエズス会のヴァリニャーノが強く反発するといった紛争が生じており、彼の評価を巡っては、事実関係の問題だけでなく、それぞれの立脚点の違いによっても大きく変わるところがあったのではないかと思われます。

 

「フランシスコ会が日本での宣教活動を開始したのは1582年、約三十年ほどイエズス会に遅れることになりますが、本格的な布教はペドロ・バウティスタが1593年に来日してからのことでした。バウティスタにつづいてリバデネイラらも来日し、1596年六月に長崎に到着したアッセンシオン・デ・アギーレとフランシスコ・ブランコの二人も加わっています。アッセンシオンは大阪へ、ブランコは京都へとそれぞれ赴任したのもつかのま、サン・フェリペ号の遭難に端を発するキリシタン迫害に巻き込まれて行きました。
 イエズス会の宣教師は釈放されたものの、フランシスコ会の彼らは二十四人の信者らとともに1597年二月五日、礫刑に処せられました。日本の最高権力者による最初の殉教となったこの事件がヨーロッパで公表されたのは1598年、フランチェスコ会のフィリピン管区長、フランシスコ・テロ・デ・グスマンの報告書が出版されたのが最初であり、その後フロイスの1597年三月十五日付け書簡が1599年に、また1601年にサン・ホセ・デ・ロス・デスカルソス管区(スペイン・カスティーリャ)の管区長ホアン・デ・サンタ・マリアの報告が続きます。
 著者アルカラは本書に先立って、フランチェスコ会のサン・ホセ管区についての浩瀚な年代記を執筆(1736年)し、サン・ホセとつながりの深かったサン・グレゴリオ管区(フィリピン)に関しても姉妹篇として同様の年代記を1738年から1744年にかけて発表しました。このような経緯のうえで編まれたアッセンシオンの伝記は、豊かな史料に裏付けられた文献です。」
(「31. アルカラ 『アッセンシオン伝』 1739年」放送大学附属図書館HP「放送大学附属図書館所蔵日本関係コレクション展示会:西洋の日本観」より)