書籍目録

『日本大王国志』(テヴェノー『旅行記集成』第2巻からの抜粋)

カロン / テヴェノー

『日本大王国志』(テヴェノー『旅行記集成』第2巻からの抜粋)

著者校閲フランス語訳初版 (1673年) (パリ刊)

Caron, François / Thévenot, Melschisédech.

RELATION DE L'EMPIRE DV IAPON...[extracted from Melchisédec Thévenot, Relations de divers voyages curieux. Vols. 2, Paris. 1673)

(Paris), (André Cramoisy), (1673). <AB2018204>

Sold

First edition in French.

Large 4to (23.2 cm x 36.0 cm), pp,1-48, Disboud.
ヤケ、シミが散見されるが、全体の程度は良好。

Information

17世紀を代表する日本研究書、著者自身が生前最後に校閲を加えた重要なフランス語訳版

本書は、1619年から1641年までの長きに渡って日本に滞在し、オランダによる初期の対日貿易の基礎を築いたカロン(François Caron, 1600 - 1673)が、日本の政治・経済・社会について、オランダ東インド会社のバタヴィア総督の諮問に答える形で報告したものです。17世紀中を通じて、ヨーロッパにおける日本情報として最も信頼に足る情報となり絶大な影響力を有したことで知られる名著として高く評価されています。本書は、1673年にフランス語に翻訳されたもので、カロン自身の訂正と増補を経ていることから、最も重視すべき完成版ともいうべきものです。

 『日本大王国志』は、著者カロンや書誌情報についての詳細な解説を付した邦訳(幸田成友訳『日本大王国志』現在は平凡社、1967年)が刊行されているほか、フレデリック・クレインス氏による詳細な紹介(『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、第4章参照)など、日本研究において広く知られている文献です。

 「カロンの報告は地理・文化・社会など多様な分野を網羅し、同時代の人々に大きな影響を与えたという意味において最も重要である。カロンは東インド会社の船の調理助手としてアジアに赴き、1619年に平戸に渡航した。平戸ではオランダ商館に配属され、そこに長く留まった。滞在中、日本人女性と結婚し、日本語も堪能になった。そのため、次第に通訳を担当するようになり、ついに商務員へと昇進した。カロンは1627年にヌイツの江戸参府に同行した後に、ヌイツと共に長年滞在した日本を出国し、台湾に渡ったが、そこでタイオワン事件に巻き込まれて、人質として再び日本に送還された。しかし、日本では自由の身にされて、事件解決までのすべての交渉に参加している。その際、カロンは日本側の理解者として幕府から厚い信頼を受けていた。その後も、カロンは毎年のように商館長やその代理の江戸参府に同行し、日本各地を観察する機会を数多く得た。また、ヌイツの釈放の交渉のために1633年および1636年に数ヶ月もの間江戸に滞在している。このように日本事情に精通したカロンは、1638年に平戸商館長に昇進し、出島移転までの難しい時期に日本における東インド会社の指揮を取っていた。商館長が1年以上日本に滞在してはならないという幕府の命令が下されたことを受けて、カロンは仕方なく日本を去ることになった。
 商館長に就任する前の1636年にカロンは、バタフィアに着任したばかりのフィリップ・ルーカースゾーン副総督からの一通の書簡を受け取った。ルーカスゾーンはアジア貿易の全体像を把握するために各商館にその地域についての地理・統治・軍事・法律・宗教・儀礼・生活・貿易・産業についての質問票を送った。各商館はこれらの質問に対する報告書を提出した。これらの報告書のうち、カロンの日本報告及びヨースト・スハウテンのシャム報告が『東インド会社の起源と発展』に掲載されている。(中略)
 カロンの報告は、ヨーロッパで出版された日本関係図書の中でしばしば引用されていることから推察すると、ケンペルの『日本誌』が出るまで、70年もの間プロテスタント世界で日本についての基本書となっていたことがわかる。」(クレインス前掲書、107〜109頁)

「同書は、館長代理時代、バタヴィア商務総監のフィリップ・ルカースゾーンによる、以下の31の質問に回答する形で執筆されています。1.日本国の大きさ、日本は島国か、2.如何に多くの州を含むか、3.日本における最上支配者の特質と権力、4.将軍の住居・地位・行列、5.兵士の数と武器、6.幕閣およびその権力、7. 大名とその勢力、8.大名の収入とその源泉、9.処刑の方法、10.何が重罪に相当するか、11.住民の信じる宗教、12.寺院、13.僧侶、14.宗派、15.キリシタンの迫害、16. 家屋・建具、17.来客の接待、18.結婚生活、19.子供の教育、20.遺言が無い場合の相続、21.日本人は信用できるか、22.貿易および貿易従事者、23.内地商業および外国航海、24.商業の利益、25.外国との交際、26.日本の物産、27.貨幣および度量衡、28.鳥獣類、29.鉱泉、30.将軍への謁見、31.言語・写字・計算方法・子孫に歴史を公開するか。」
(国際日本文化研究センターHPデータベース『日本関係欧文史料の世界』図書『日本大王国志』英訳版解説(フレデリック・クレインス執筆)より)

 本書は、このように17世紀を代表する日本関係欧文図書として極めて重要な地位を占める文献ですが、その書誌情報の複雑さでも知られる書物です。原著であるオランダ語だけでも数多くの版が存在するだけでなく、ヨーロッパ各国語に翻訳されており、しかもそれぞれの内容に相違があることから、いずれの版を用いるかが極めて重要な書物であると言えます。これらの書誌情報については、前掲書のいずれにおいても紹介されていて、それらの記述と、両書で参照されているティーレ(Pieter Anton Tiele, 1834 - 1889)による『オランダによる航海記に関する書誌的覚書(Mémoire bibliographique sur les journaux des navigateurs nérlandais. 1867)』を頼りに書誌情報を整理すると下記のようになります。


1645 / 1646年
A)『強大な日本王国の記録(Beschrijvingen van het machtig Coninckrijck Iapan,…)』
→コメリン(Isaac Commelin, 1598 - 1676)による『東インド会社の起源と発展(Begin ende Voortgangh van de Verenigde Nederlantsche Geoctroyeerde Oost-Indische Compagnie. 1645 / 1646』に収録されたもの。カロン自身は出版に関与せず、校閲も許可もしていないが、広く読まれた。

1648年
B) 『強大な日本王国の記録』
→A)を独立させて単著として出版したもので、内容は概ね同一だが、一部(大名の氏名と石高を記した目録の大部分)省略された箇所があり「極めて不完全」(前掲幸田訳書、76頁)とされる。カロン自身の校閲、許可も得ていないが、A) と同じく広く読まれ、すぐに再版された。タイトルページは亀の背に両翼を携えた砂時計と骸骨が載せられた図。

1649年
B`)
→B)の再版

1652年
B’’)
→B)とほぼ同一の内容だが、新たに版を組み直したもので、タイトルページも変更(帆船二隻の図)されている

1661年
C) 『強大な日本王国についての「正しい」記録(Rechte Beschryvinge Van het Machitigh Koninghrijck van Iappan,…)』
→A)B)諸本がカロンの許可なしに出版されたものであるのに対して、カロン自身による増補訂正と許可を経たもの。図版3枚と日本地図を新たに加えた(ただし日本地図についてはカロン自身は掲載の意図がなかったされる)ほか、新たに「第30問」を追記。A)B)に付されていたハーゲナールによる注釈をすべて削除したほか、一部記事をカロンの判断で削除。タイトルページは文中に関連する「切腹の図」。前掲幸田訳書が底本とした版。

1662年
C`)
→C)の再版。ほぼ同じだが「切腹の図」に一部変更あり。

1662年?
C'')
→C')の再版だが、タイトルページに出版年の記載なし。前掲幸田訳書によると「図版本文とも印刷力弱き感がある」(78頁)とのこと。

1673年(本書)
D) 『日本帝国についての記録(Relation de l’Empire du Iapon.)』
→テヴェノー(Melchisédech Thévenot, 1620? - 1692)による『旅行記集成(Relation de divers Voyages curieux…1673)に収録されたフランス語版。単なる仏訳ではなく、カロン自身が許可した C)にさらにカロン自らが訂正を加え、テーヴェーノーの質問に答える形で、日本の医学書についての記事を冒頭に新たに追加。C)においてカロン自身は掲載の意図がなかった日本地図を削除する一方、テヴェノーの判断で、C)では削除されたハーゲナールによる注釈を追加して仏訳(ただし、タイトルでは削除したと明記している)。

*幸田訳前掲書解説(84頁)では、ティーレに依りながら「日本66国、重要都市の名を挙げたより良き図を以てした」とありますが、店主の見る限りティーレにそのような記述はなく、また本書序文においてもC)に収録されていた地図を削除した旨しか記されておらず、新たに地図が追加された形跡はありません。おそらく後年(1715年)に現れたフランス語訳版(こちらの詳細は、当店HP掲載の、バーナード編 / フリース / カロン / マルティニほか著「日本島についての覚書」「蝦夷発見記」「日本大王国志」「東方韃靼記」「日本との通商関係樹立のための覚書」ほか『北方探検記集』第3巻所収」<AB201982>を参照)に収録された日本地図(石川流宣の日本図を範に採って作成されたもの)の存在と混同したものと思われます。なお、テーヴェノー『旅行記集成』には、本書以外の箇所で日本を描いた地図が2枚確認できますが、直接カロンのテキストと関係づけられたものではなく、またいずれの地図の特徴も幸田が述べているような特徴には合致しません。


 これまでの研究においては、カロン自身の校閲を経ていない、A), B)と、カロン自身が校閲したC)とに分けて、両者を併せ読むことが基本とされているようです。また、上記の他にも、英語版、ドイツ語版、スウェーデン語版、ラテン語版など様々な翻訳版の存在が知られており、それぞれの出版背景も興味深いものですが、カロン自身が公式に関与したものは、本書であるD)のフランス語版のみです。その意味で、D)は翻訳書とはいえ、カロン自身が生前最後に手を加えた最終改訂版とも言えることから、オランダ語原著と併せて必ず参照すべき、極めて重要な版ではないかと思われます。

 D)を出版したテーヴェノーは共通の友人を介して、カロンと直接コンタクトを取れる関係を存分に活かして、自身が編纂した『旅行記集成』に『日本大王国志』1661年版(C)をカロン自身の改訂を経た上で仏訳して収録することができました。テーヴェノーの『旅行記集成』は大型四つ折り判で全2巻からなる大部の著作ですが、収録する記事ごとに個別のページ付を行なっており、それぞれが完結して読むことができる作りになっています。ただし、それぞれが独立して別個に販売されることはなかったようですので、本書はもともと1冊の形になっていた書物から抜き取られる形で現在に伝えられたものと思われます。独立した書物として刊行されなかったことや、単なる「フランス語訳」として扱われがちだったこと、テーヴェノーの『旅行記集成』が極めて希少且つ高価であることが、本書への注目がこれまで相対的に低くなっていた要因ではないかと推察されます。

 本書刊行の経緯については、本文冒頭でテーヴェノー自信が言及しており、生前刊行に尽力してくれたカロンの逝去(本書刊行と同年1673年にカロンは逝去)を惜しむとともに、その記述の確かさ、重要さを改めて称賛しています。また、本書は、それまでのオランダ語版にはなかった、日本の医学書についての記事が冒頭に置かれており、これはテーヴェノーの質問に対してカロンが答えた内容と、テーヴェノーによるその解説からなっており、オランダ語版原著では見ることができない情報として非常に重要なものと思われます。前掲邦訳書は、C)を底本としているため、この記事は邦訳されていませんので、この記事の存在自体がこれまでほとんど注目されてこなかったのではないかと思われます。本文テキストについては、オランダ語原著の忠実な翻訳と思われますが、キリシタン迫害についての記事は、プロテスタント国であるオランダで出版されている原著と、カソリック国であるフランスで出版された本書との間にはなんらかの相違が認められる可能性があります。収録されている図版については、概ね同じように見受けられますが、構図の変更や、細部を指示するアルファベットに相違が見られるため、本書のために新たに版を起こしたものと思われます。また、『日本大王国志』にはカロンの記述だけでなく、様々な付論が収録されていることでも知られますが、本書末尾には「1620年代から1630年代に長崎でキリシタン弾圧を実際に見聞した東インド会社職員のライヤー・ガイスベルトゾーンによる報告書」(クレインス前掲書85頁)が収録されています。

 「貿易政策に役立てるための実務データ集というよりも、内から見た日本文化の本格的な分析を提供するものになって、その文化的要素は長い間ヨーロッパの知識人を魅了した」(クレインス前掲書147頁)とされるカロン『日本大王国志』諸本の中にあって、これまで相対的に注目度が低かった思われる本書フランス語版は、カロン自身による生前最後の校閲本として、改めて研究されるべき重要資料と言えるでしょう。