書籍目録

『フランス士官の下関海戦記』

ルサン

『フランス士官の下関海戦記』

初版 1866年 パリ刊

Roussin, Alfred.

UNE CAMPAGNE SUR LES CÔTES DU JAPON

Paris, Librairie de L. Hachette et Cie, 1866. <AB2018201>

Donated

First edition.

8vo (12.0 cm x 18.5 cm), Half Title., Title., a double pages map( PLAN DU DÉTROIT DE SIMONOSEKI), pp. [1], 2-285, 1 leaf, pp.[1], 2-4, Original yellow paper wrappers.

Information

下関戦争に参加したフランス海軍士官が見た下関戦争と幕末日本

 「ラ・セミラミス号の主計補佐官アルフレッド・ルサン Alfred Rousiin は、1862年に艦とともに日本を訪れ、1865年2月まで、下関海戦に参加するなど、フランス海軍士官として幕末の諸事件を目の当たりにした。その体験をもとに日本の歴史や政治・社会状況を分析して、フランス人読者に渦中の国、日本の現状を報告しようとしたのが、Une campagne sur les côtes du Japan, Hachette, 1866, Paris(原題『日本沿岸での戦い』)であり、本書はその全訳である。
 扱われる時代もほぼ重なり、同一の事件についての記述も多く見られるアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』と比較してみると、ルサンの著作の性格が浮き彫りになって面白い。
 サトウは言うまでもなく、イギリスの外交官、ルサンはフランスの軍人であり、したがって、ふたりの著作にはそれぞれ、英・仏の幕末日本に対する現状認識の違い、つまりは幕府への評価の違いが反映している。しかもルサンは、1865年に、維新を見通さないまま、これを書いているので、その差はいっそう歴然と現れる。
 だが、それ以上に、興味を引かれるのは、ふたりの資質の違いである。サトウは自分の個性を前面に押し出し、鋭い観察を織り交ぜながら、達者な筆致でいきいきと当時の日本の風俗や有名無名の人々の姿を描き出してゆく。ところが、ルサンは個人の生き方や風俗にはお座なりの関心しか示さない。そもそも彼は自分の個性を一切消そうと努力しているらしく、著作には、一度も「私」jeという言葉は現れず、個人的な体験も語られない。自分が参加した戦闘を語る時も、目撃した事件を語る時も、「私たち」nousという人称代名詞を崩さない。冷静に、客観的に、匿名性の中で外交問題、政治問題を語ろうとする。要するにルサンの関心は個人にはなく、あくまでも、国家対国家の政治的駆け引きや軍事行動にあるのである。
 したがって、サトウの著作とは異なって、このルサンの著作に小説を読むような面白さを求めることはできない。だが、ここに描かれる日本の歴史や当時の日本に対する認識の正しさ、深さには目を見張らせるものがある。日本と外国との間の行きつ戻りつの交渉はいきいきと描かれ、読者を引き付けて飽きさせずフランス人から見た幕末日本の混乱、それに対するフランス人の行動方針の推移なども手にとるように見えて、たとえ専門家でなくとも、文字どおり、第1級の歴史資料を読む醍醐味を味わうことができるのである。(後略)」

(アルフレッド・ルサン著 / 樋口雄一訳『フランス士官の下関海戦記』新人物往来社、1987年、訳者あとがきより)


「フランス海軍提督アルフレッド・ヴィクトル・ルサン(1839-1919)は、中西部ロアール盆地のナントに産まれた。パリのエコール・ポリテクニークを卒業して海軍に入り、主計畑から1862年の中国勤務を経て、翌1863年にはフランス東洋艦隊司令長官のジョレス海軍准将の秘書官になっている。その後、海軍少将にまで昇進し、軍の要職を務めた。
 ルサンが来日したのは1863(文久三)年で、その年までに起こったイギリス公使館である東禅寺襲撃事件や薩摩藩によるイギリス人殺傷事件、所謂生麦事件に関するイギリスと徳川幕府の間の賠償交渉をめぐる一触即発の険悪な雰囲気の中で、横浜の外国人居留地を守るためにジョレス准将指揮下の東洋艦隊のフリゲート艦ラ・セミラミス号で神奈川へ寄港した。やがて、徳川幕府は賠償に応じたが、その後、薩英戦争や長州の米仏艦への砲撃事件を経て、英・仏・米・蘭の四カ国連合艦隊と長州藩が繰り広げた下関戦争(馬関戦争)に至るのである。ルサンはこの下関戦争に参加した記録をもとにこの海戦記を記したのであるが、ここにはこの時代から300年前に遡り、日本の鎖国政策の完成する前の国内状況から開国、日英戦争、下関戦争、特に砲撃戦の戦闘状況を詳しく述べ、長州の降伏と講和条約を結ぶ経緯が書かれている。(後略)」
(京都外国語大学付属図書館『フランス人による日本論の源流をたどって』2008年、44頁より)

「才気あふれる挿絵画家兼記者、アルフレッド・ヴィクトール・ルサン(1839-1919)は1862年8月、バンジャマン・ジョレス海軍大将の秘書に任命される。ジョレス海軍大将はセミラミス号の艦長として1862年から1865年にかけて中国、日本に遠征している。ルサンは日本に関して多くの科学的、文学的作品を遺しており、それらは『ラ・ルヴュ・デ・ドゥー・モンド』、そして特に『ル・モンド・イリュストレ』に寄稿された。(後略)」
(クリスチャン・ポラック『絹と光』アシェット婦人画報社、2002年、92頁より)

「1863年6月25日、長州藩主毛利元徳は、発せられてまもない攘夷の勅命を適用し、関門海峡(旧称馬関海峡)内にてアメリカ商船を砲撃する。7月8日にはフランス護衛艦ル・キエンチャン号、7月11日にはオランダ軍艦メデューサ号も攻撃を受ける。2週間後、複数の米・仏艦が下関の要塞と砲台の一部を破壊する。1864年9月、17隻からなる四国連合艦隊(英9隻、仏3隻、蘭4隻、米1隻)が報復攻撃を実施。戦闘は9月5日から9日まで続き、四国連合艦隊は関門海峡の全砲台を占領する。外国船の下関通行の自由を保障する講和条件が長州藩と締結される。
 馬関戦争に関してアルフレッド・ルサンは『Une campagne sur les côtes au Japon』と題した著作を遺しており、これは日本で以下の邦題で出版されている:『幕末海戦姫英米仏蘭総合艦隊』安藤徳器・大井征共訳、平凡社、1930(昭和5)年;『フランス士官の下関海戦記』樋口雄一訳、新人物往来社、1987(昭和62)年。」
(クリスチャン・ポラック前掲書、95頁より)