書籍目録

『フランシスコ会年代記 第4部』

バレッツィ (日本二十六聖人)

『フランシスコ会年代記 第4部』

仏訳初版 1609年 パリ刊

Barezzi, Barezzo.

LA QVATRIESME PARTIE DES CHRONIQVES DES FRERES MINEVRS, Diuisee en dix liures,...

Paris, Vefue G. Chaudiere, 1609. <AB2018184>

Sold

First edition in French.

4to (17.0 cm x 23.5 cm), Illustrated Title., 27 leaves, pp.[1], 2-1247. ページ付の乱調多数だが内容は完備(詳細は解説参照), Contemporary full calf.
装丁のヒンジ部分、背上下の革に痛み、欠落あり。タイトルページ右下に破れあり。

Information

 本書は、スペインが当時の拠点としていたメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)とフィリピンを中心に海外宣教を行っていたフランシスコ会の歴史をまとめた大部の著作の第4部にあたるもの(詳細は後述)で、1608年にヴェネチアで刊行された初版(イタリア語)刊行の翌年に刊行されたフランス語版です。1200ページを超える大著ですが、本書が日本との関係で特に興味深いのは、日本とフィリピンを通じたスペインとの外交、通商関係の歴史と、その初期に生じたいわゆる「26聖人事件」についての詳細な記録を含んでいる点です。

 大航海時代においてポルトガルとスペインはその覇権を競って世界各地に航海と同時に宣教活動を精力的に行いましたが、1494年のトルデシャリス条約、1529年のサラゴサ条約において、世界を東西に恣意的に分割することで両国の直接的な衝突の回避が試みられました。この条約に準じてポルトガルはゴア、マカオを東インド進出の拠点とし、一方スペインはメキシコに進出し、そこから太平洋を渡って1543年にフィリピンに到達します。1565年にはフィリピンから日本沿岸まで北上して再びメキシコのアカプルコに帰還する太平洋東航路が発見されたことにより、メキシコとフィリピンとを結ぶ安定的な航路が確立することになり、ガレオン船による活発な交流が始まります。1570年にはスペインによるフィリピンの占領がなされ、同地はスペインの東インドにおける拠点地として栄えるようになります。

こうしたポルトガル、スペインの動きに呼応する形で、托鉢系修道会によるカソリック宣教運動も展開することになり、ポルトガルと強い結びつきを有していたイエズス会は、東インド宣教の拠点をゴアとマカオに定め、それ以外のフランシスコ会をはじめとする修道会は、スペインの東インド政策の拠点となったマニラを活動の中心地とするようになりました。これは、1581年にスペイン王フェリペ2世がポルトガル王にも即位し、両国が同一君主をいだくようになって以降も基本的に変わることはありませんでした。

 1584年には天正遣欧使節がヨーロッパに渡りマドリッドにおいてフェリペ2世と謁見し、これによって日本とスペインとの直接的な外交関係が初めて生じることになります。この時期、日本にすでに進出していたポルトガル系のイエズス会からもフィリピンに駐在しているフランシスコ会やドミニコ会に対して日本布教に協力するよう要請がなされています。しかしながら、1585年に天正遣欧使節が謁見を果たした教皇グレゴリオ13世によって、日本における布教活動はイエズス会が独占して当たることを定めた小勅書が出されたことにより、スペイン系のフランシスコ会は日本への渡航と布教活動を事実上禁じられることになってしまいます。

 しかし、同時期に大村純忠の家臣の日本人がフィリピンに来航しフランシスコ会の派遣を要請したり、松浦鎮信の書状を伴って日本人が来航するなど、むしろ日本からフィリピン(とフランシスコ会)に対するアプローチが積極化しています。また、日本において1587年にいわゆるバテレン追放令が豊臣秀吉によって出されたことは、イエズス会の日本における布教活動の失敗を証するものとフランシスコ会は捉え、先の教皇勅書の撤回と日本布教の許可を再度申し出ることになります。

 この請願はスペインの東インド統治を統括するインディアス顧問会議において否決されるものの、1591年に原田喜右衛門がマニラに来航し、現地のスペイン統治の状況を観察し、その防御の脆弱性から日本侵攻が成功する可能性が高いことを秀吉に進言したことに端を発して、秀吉からフィリピンに対して入貢を求める高圧的な書簡がもたらされることになります。この書簡に対して、マニラ総督ダスマリーニャスは、兼ねてから日本の朝鮮侵攻は実はフィリピン攻略の口実に過ぎないとの情報を得ていたこともあって、日本がフィリピンに侵攻してくる危機が迫っていると理解し、スペイン本国に至急の支援を要請します。一方、秀吉からの書状に対しては、使節の身分確証が定かでないことを口実に、正面からの回答を避け、逆にフィリピンから使節を日本に送ることで、時間的猶予を確保することを決めます。

 こうしたやり取りを数度繰り返す中で、日本に使節として送られたフランシスコ会士バウティスタ(Pedro Bautista, 1546 - 1597]は、日本滞在中の1594年に京都で教会と修道院を建設し、続いて大阪にも修道院を新築、長崎にも赴いて、日本で公然と布教活動を開始します。また、バウティスタの日本宣教を報告する書簡を受けて新たにフランシスコ会士がマニラから3人到着するなど、グレゴリオ13世の勅書、何より秀吉のバテレン追放令に正面から反する形で、フランシスコ会の日本における活動が精力的に展開されます。これに対して、イエズス会を始め日本のキリシタン大名筋は、秀吉の逆鱗に触れることを警戒してフランシスコ会に自重を求めますが、両者の溝は埋まることはなく亀裂が広まっていくことになります。

 こうした不穏な時期に、マニラからメキシコに向けて出航したサン・フェリペ号が日本近海で難波し、土佐に漂着するという事件が生じます。このサン・フェリペ号にはメキシコに帰国を予定していたフランシスコ会士らも同船しており、このことが、関係者の様々な思惑とともに秀吉に伝えられたことで、秀吉はこの間交渉を続けていたスペインが宣教師を派遣することを皮切りにして日本征服を企んでいるものと結論づけ、日本で意に反して宣教活動を行なっていたフランシスコ会士の処刑を命じるに至り、これにより、バウティスタを含むフランシスコ会士6名ら26名が長崎に送られて処刑されるという「26聖人殉教事件」が引き起こされることになりました。

 26聖人殉教事件は、イエズス会士の報告書で当時から既に多くの情報がヨーロッパにもたらされていましたが、本書は、この事件の最大の当事者と言えるフランシスコ会の視点から描かれた極めて貴重なもので、彼らの事件に至る経緯と事件の経緯とが詳細に論じられています。該当記事は、全10章からなる本書の最終第10章1119ページから見ることができます。そこでは、秀吉がフィリピン総督に対して書状を送ることになった経緯とその書状の内容、そしてそれに対するフィリピン総督の反応と返書、数度のやりとりといった、当時の両国間のやりとりが紹介されています。こうした経緯を踏まえて、バウティスタが日本に赴くことになったことが説明され、続いて日本においてバウティスタが精力的に日本の信徒のために活動を展開したことや教会、病院の建設に尽力したことなど、日本での宣教活動の様子が論じられます。そうした最中において生じたサン・フェリペ号の漂着とそれによって引き起こされた殉教事件については特に詳細に論じています。時系列に沿った事実関係だけでなく、バウティスタらが日本から発した書簡や、殉教したフランシスコ会士6名の伝記なども収録しており、事件から10年が経過していない時期にフランシスコ会の立場から描かれた事件の記録としては、相当に充実した内容と言えるものです。26聖人事件は単独の事件として取り上げられることが多いのですが、それ以前のフィリピンと日本との交渉過程という歴史的文脈を踏まえた上で26聖人事件の意義と詳細を記している本書は、同地を拠点としていたフランシスコ会の資料を駆使した本書ならではと言える特徴でしょう。また、本書に唯一収録されている銅版画には、日本での殉教の場面を描かれていて、本書内における26聖人殉教事件の位置付けの大きさを物語ったいます。

 本書は、日本におけるキリスト教宣教の中心であったイエズス会と異なるフランシスコ会の文献ということもあってか、これまでほとんど研究されていない文献と思われるものですが、かなり初期のフランシスコ会士の日本おける活動状況を理解する上では極めて重要な文献と思われます。また、フランシスコ会士の活動のみならず、彼らの活動の背景にあったフィリピンを通じたスペインとの関係についても詳細に論じられていることから、最初期の日本・スペイン交渉史の研究においても看過できない文献であると思われます。

 著者のバレッツィ(Barezzo Barezzi, c.1560 - 1644)は、イタリアミラノとヴェネチアの間に位置するクレモナ出身の出版人、著述家で、1578年ごろにヴェネチアに移り印刷工房での見習いを始めるとともに独学で学問的研鑽を積み、1591年以降は独立して精力的に出版活動を行いました。(道徳)神学、詩学、文芸、歴史、地理に関する多彩な文献の編集、出版で知られるほか、自ら手がけたスペイン語からの翻訳、編纂作品を自身で印刷、刊行しています。
 
 本書は、フランシスコ会の年代記としてMarcos da Lisboa(1511 - 1591)がポルトガル語で著した作品を(Filippo de Sosaによるスペイン語版を経由したと思われる)イタリア語に翻訳したもの(Horace Diola(trs.). Croniche de gli Ordini instituiti dal p. san Francesco. Parma. 1581-1586)に対する、補遺(第4部)として、バレッツィが独自に企画したものです。スペイン語に精通していた彼の才を存分に活かして、ポルトガル語の原著やイタリア語の翻訳版にはない、オリジナルの内容をふんだんに盛り込んでいたことから、好評を博していた前者を補完する文献として好意を持って受け止められたようです。それを証するかのように翌1609年には、早くもパリでフランス語版が刊行されることになり、それがまさに本書に他なりません。

 なお、本書は内容が完備していますが、ページ付には数多くの乱調が見られます。店主の調べ得たページ構成は下記の通りです。

Illustrated Title., 27 leaves, pp.[1], 2-42, 42[i.e.43], 44-61, 32[i.e.62], 63-77, 58[i.e.78], 79-106, 95[i.e.107], 108-125, 622[i.e.126], 127-133, 622[i.e.134], 135-139, 340[i.e.140], 341[i.e.141], 142-174, 135[i.e.175], 176-212, 413[i.e.213], 214-287, 228[i.e.288], 289-297, 228[i.e.298], 299-332, 433[i.e.333], 334-426, 417[i.e.427], 428-432, 434[i.e.433], 434-437, 834[i.e.438], 493[i.e.439], 440-464, 444[i.e.464], 465-485, 476[i.e.486], 487-502, 103[i.e.503], 548, 149[i.e.549], 550-559, 660[i.e.560], 561-579, 980[i.e.580], 581-672, (no lacking pages), 675-791, 794[i.e.792], 793-893, 904[i.e.894], 905[i.e.895], 698[i.e.896], 897, 908[i.e.898], 899-1104, 1005[i.e.1105], 1106-1164, Plate(Crucifixio Japoniorum), 1165-1205, 1106[i.e.1206], 1207, 1028[i.e.1208], 1209-1217, 1217-1247.

タイトルページ。右下部分に破れがある。
全10章からなる本書の最終第10章1119ページから「26聖人事件」についての詳細な記録が掲載されている。
秀吉(太閤様、Taicosama)からフィリピンのマニラ総督に宛てた書簡。
日本に使節として送られたフランシスコ会士バウティスタ(Pedro Bautista, 1546 - 1597]は、日本滞在中の1594年に京都(都、Meaco)で教会と修道院を建設し公然と布教活動を行い、秀吉の怒りを買うことになった。
殉教の場面を(想像で)描いた銅版画が挿入されている。これは本書中唯一の銅版画で、本書における「26聖人殉教事件」の位置付けの大きさを物語る。
殉教した26名の名前と簡単な伝記を記す。
  • 刊行当時のものと思われる革装丁には痛みが見られるが、概ね状態は良好である。
  • 小口三方は赤く染められている。