書籍目録

『イエズス会神父による1574,75,76年の報告書簡集』

カブラル

『イエズス会神父による1574,75,76年の報告書簡集』

初版 1578年 ローマ刊

Cabral, Francisco.

LETTERE DEL GIAPONE DE GLI ANNI 74, 75, & 76. SCRITTE DALLI REVErendi Padri della Compagnia di Giesu, & di Portughese tradotte nel volgare Italiano.

Roma, Francesco Zanetti, 1578. <AB2018183>

Reserved

First edition.

8vo (10.5 cm x 16.3 cm), pp.[1(Title.)-3], 4-64, LACKING 65, 66(E1), 67-75, Disbound.
刊行当時に近いものと思われる未装丁のままの状態。インクによる書き込み、シミ、落書きなどが散見される。紙端部の汚れあり。1葉(65,66頁、E1に相当)が欠落(ファクシミリの挿入にて補完)

Information

大友義鎮(宗麟)、義統、親家ら親子による豊後近辺を中心とした日本における社会と宣教状況の報告。

 本書は、イエズス会の宣教師カブラル(Francisco Cabral, 1529 - 1609)が記した1574、75、76年の日本における社会状況と宣教活動の様子を報じた書簡集です。イエズス会は世界中に宣教師を派遣して伝道活動を強化すると共に、現地の宣教師から定期的に報告書を書簡で送ることを命じており、それらを刊行することで、後続人材の士気を鼓舞し、またヨーロッパにおけるカトリック復興の機運を高めることを意図していました。本書には、カブラルによる3つの書簡を中心として、中国、インドにおける宣教を報じた2書簡を合わせて、計5書簡が収録されています。

 カブラルは、1570年から日本での宣教活動を率いる立場にあり、同年日本に赴いたオルガンティノ(Organitno Gnecchi-Soldo, 1533 - 1609)と共に1570年代の日本宣教活動の中心を担っていた人物です。オルガンティノや後任のヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539 - 1606)が採用したような、布教先の現地文化への順応を是とするいわゆる「適応主義」とは反対に、ヨーロッパ「本来の」教義と布教を徹底することを重んじる方針をとったことで知られており、あからさまな日本に住む人々や文化に対する蔑視的な見方があったとされている人物で、これにより後任のヴァリニャーノに更迭されることになりました。しかし、その反面、本書からも見て取れるように、日本における布教活動そのものには極めて熱心で、山口や畿内にまで自ら赴いて各地を視察して、布教活動のための人員が圧倒的に不足していることをイエズス会のローマ本部に訴えています。

 本書は、カブラルが活動の中心にあった1573年後半から76年前半までの布教活動と日本の社会状況についてカブラルが認めた記録が収録されていて、カブラルの目から見た当時の日本と布教の様子を垣間見ることができる貴重な資料となっています。最初に掲載されている書簡は、1574年5月末日に京都(京都、Meaco)から発信されたものです。この書簡では、1573年9月から日本人修道士ジョアン(ジョヴァンニ、Giovanni)と共に島原、博多、下関を経由して山口、塩飽まで足を伸ばして布教活動を行なった際の様子が記されています。カブラルは、行く先々で困難に遭遇しつつも信仰を捨てずに多くの信者達が、自分達を歓迎する様子に大いに感動したことを述べていて、特に山口では多くの熱心な信者が自身の説教を求めて厳冬の中、遠くから訪ねて来たことを具体的なエピソードを豊富に交えて報告しています。

 続く1575年9月13日に長崎(Mangaisaque)から発信された書簡では、ドン・バルトロメオ(Don Bartholomeo)こと大友義鎮(宗麟)の所領で数多くの信者が生まれていることを報告する一方、隣国からの謀略により様々な危機にさらされてきたこと、その度に多くの奇跡とともにこれらを切り抜けてきたこと、それにより一層多くの信者が生まれていることが報告されています。この書簡の末尾では、土佐(Toza)の国王(一条兼定)が受洗を強く望んでいることや、各地で説教を待ち望む信者がいるにも関わらず人手が足りていないことも述べられています。

 1576年9月9日付で口之津(Cochinocu)から発信された書簡は、本書の中でも特に重要と思われるものです。この書簡では、大友親家の受洗を巡って生じた騒動を中心に、カブラルが上流階級の改宗に成功し始めたことが報告されていて、イエズス会の日本における布教活動と支配階層への(功罪含めた)影響力の増加の転機となった重要な記述が数多く見られます。大友義鎮(宗麟)は熱心なキリシタンとして既に広く知られていましたが、嫡男の義統との後継者争いを避けるために、次男である親家には僧籍に入ることを勧めていました。しかし親家はこれには断固として従わず、キリシタンとなることを強く望みました。これを好機と捉えたカブラルは義鎮からの依頼もあって、親家に、ドン・セバスチアン(D. Sebastiano)という洗礼名を授けることに成功します。次男とはいえ義鎮の実子である親家が公然と洗礼を受けたことは、多くの家臣の改宗を促すことになり、これによりイエズス会は念願であった支配階層への宣教を積極的に進める糸口を得ることになりました。しかし、このことは同時に支配階層からの強い反発を生むことにもつながり、特に義鎮の妻(奈多)は熱心な神道と仏教の信者であったことから、親家とそれに続く家臣の改宗によって、大友家内部の緊張が高まっていきます。この書簡でも、こうした状況を示す、あるキリシタン信者エステバンをめぐる騒動が報告されています。エステバンは、義統の妹に使える若者でしたが、キリシタンを快く思わない義統の妹は、あえてエステバンに寺に行ってお守りを取ってくるように命じます。これに対して、異教の護符であるお守りをキリシタンである自分がとってくることはできないとして、エステバンが命令を拒否したため、騒動が勃発します。奈多はこのことを受けて、キリシタンは主君に背き社会の安寧を破壊するものだとして、エステバンの処刑はもちろんのこと、宣教師の追放を命じるよう義統に強く迫ります。義統はキリシタンへに対して好意を持っていたものの、影響力の強い実母からの要請を無視できず、エステバンの処刑を決意しますが、そこでカブラルからの要請も受けた義鎮が調停に乗り出し、すんでのところでエステバンの処刑は回避されることになりました。この事件は、一人エステバンだけの問題ではなく、大友家内部の深刻な分裂を招くきっかけとなり、また後年の殉教事件の雛形となったいう指摘がなされている(若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』集英社、2003年)大変重要な事件で、この書簡はこの事件について宣教師側の最重要当事者自身が認めた非常に重要な史料と言えます。また、この書簡の末尾には、先の書簡で触れた土佐国王(一条兼定)がカブラルに宛てた書簡も掲載されていて、大友家を中心にカブラルが支配者層への布教活動を積極的に進めている様子が伺えます。

 本書は、1578年にローマで刊行されたもので、イエズス会出版物を数多く手がけたザネッティ(Francesco Zanetti)によって出版された、最も信頼できる権威ある版と言えるものです。表題からポルトガル語からイタリア語に翻訳されたものであることがわかりますが、最初に出版されたのはこのザネッティによるイタリア語版です。本書は翌年に異なる出版社からも複数出版されているほか、後年に編纂された多くの日本書簡集にも再掲されていることが確認できます。初版である本書は、わずか75ページの小著ですが、それだけに現存するものは極めて少なくなっていて、本書には様々な書き込みや汚れ、1葉の欠落が見られるものの、刊行当時に近いものと思われる未装丁の状態を保っている大変貴重なものです。

1574年5月末日に京都(京都、Meaco)発書簡の冒頭箇所。
カブラルは山口(Amanguchi)をザビエル宣教の地として特に重視していたようである。
1575年9月13日に長崎(Mangaisaque)発書簡の冒頭箇所。ドン・バルトロメオ(Don Bartholomeo)こと大友義鎮(宗麟)の所領で数多くの信者が生まれていることを報告する。
1576年9月9日付で口之津(Cochinocu)発書簡の冒頭箇所(右)。左ページの落書き?のインク汚れがある。
ドン・セバスティアーノ(D.Sebastiano)となった義鎮の次男親家の改宗は、多くの家臣団(支配者階層)の改宗を促す契機となる一方で、大友家内部の分裂を加速させることにもなった。
本書は1葉(E1)が欠落しており、右のようにファクシミリで補われている。
背面にはインクによる落書き?が見られる。
かなり厚手の紙に印刷されており、綴じ紐もかなり太いものが用いられている独特の造本様式である。